美優が図書室の最奥で見つけ、特に気に入って何度も読み返していたのは、一冊の古い恋愛小説だった。
タイトルは、『夏と冬が重なれば。』。
どこにでもいるような高校生の男女が、不器用で、初々しい恋をする物語だ。
冷めきった現実を生きる美優にとって、それはまるでおとぎ話のように現実味がなかった。けれど、だからこそ、その物語の世界に浸っている時間だけは、トゲトゲとした心が嘘のように穏やかな気持ちで満たされていくのを感じていた。
ページをめくる指が止まらない。時を忘れて文字の海に読み耽っていた、その時だった。
静まり返った図書室の床を静かに踏み鳴らす、少し歩幅の広い足音が近づいてきた。
(……誰か来た。見つかる――)
身を潜めようと息を詰めた瞬間、背の高い本棚の隙間に、一筋の光とともに柔らかな影が差し込んできた。
「あ、姫野! こんな所にいたのか……探したんだぞ?」
戸惑う美優を遮るように、眩しい笑顔を浮かべてその秘密基地へと足を踏み入れてきた人物がいた。
美優は小説から慌てて目を離し、藤色の瞳を大きく見開いた。
「……え? 伊澄、先生……?」
そこにいたのは、いつも爽やかな笑顔の美優のクラスの若い担任教師、伊澄奏多先生だった。
伊澄先生は彼女の驚き顔を見て、悪戯が成功した少年のように爽やかに笑った。
「『え?』じゃないだろ! このサボり魔が!」
呆れたような、だけどひどく愛おしそうな声を出しながら、先生の大きな手が美優の頭をクシャクシャと雑に撫で回した。
頭頂部から伝わる、驚くほど熱い体温。
美優は身体を硬くしたまま、完全に思考が停止してしまった。状況がまったく掴めない。いつも親の前で「完璧な優等生」を演じてきた自分が、授業をサボって、しかもそれを教師に見つかって、こんな風に笑いかけられている。
伊澄先生は彼女の困惑を気にする風でもなく、ひんやりとした床に躊躇なく膝を折り、美優のすぐ隣に腰掛けた。
狭い本棚の隙間で、先生の肩が美優の肩に、ほんの少しだけ触れる。
「なるほどなー。こりゃ、サボりたくもなるな」
先生は狭い隙間から天井を見上げ、それから美優を振り返って、白い歯を見せてニカッと笑った。
ドクン、と胸の奥で、今まで聞いたこともないような大きな音が響いた。
冷たくて、暗くて、息が詰まりそうだった美優の世界。そこに、先生の眩しい笑顔が容赦なく飛び込んできて、彼女の心をめちゃくちゃに引っ掻き回していく。
体中がカッと熱くなり、視線をどこにやっていいのか分からなくなる。
――これが、美優が生まれて初めて覚えた、言葉にできない「感情」だった。



