インターホンの音に重い体を起こし、玄関の扉を開けると、そこには思いもしない人物が立っていた。
伊澄先生は美優の姿を認めると、一瞬だけ目を見開いた。けれどすぐに、いつもの頼りなげで、どこか切ない笑みを浮かべる。
「姫野……? なんだ、元気じゃん」
その声は優しかったが、どこか遠くにいってしまうような寂しさを孕んでいた。先生は小脇に抱えていたプリントを美優の手元へと差し出す。
「早く、学校くるんだぞ」
それだけ言い残し、先生はくるりと背を向けて帰ろうとした。
その瞬間、美優の頭の中が真っ白になった。このまま先生は、私の前からいなくなってしまう。そんな恐怖が突き上げてきた。
「――待って!」
美優は勢いよく伸ばした手で、先生の腕を強くつかんだ。驚く先生の体を、引きずるようにして自宅の玄関へと引っ張り込む。
ガチャリ、と重々しい音が響き、玄関のドアが勢いよく閉まった。
薄暗い三和土の中、伊澄先生は明らかに狼狽していた。
「姫野っ……!? おい、ご両親は?」
先生の焦った声など、今の美優の耳には届かなかった。溢れ出した涙が視界を遮る。美優はなりふり構わず、先生の胸へと泣きながら抱きついた。きつく、引き剥がされないように、その衣服を握りしめる。
「伊澄先生っ……、お願いっ、お願いだからっ、嫌わないでっ! 私が謝るからっ! 何でもするからっ……!」
狂おしいほどの叫びだった。自分のせいで二人の関係が壊れてしまったのだという後悔が、美優の胸を締め付けていた。
抱きつかれた伊澄先生は、大きく目を見開いたまま、動けずにいた。美優の震える背中、必死な声、そしてすべてを投げ出すような言葉を受け止め、先生もまた、やり場のない感情を抱えていた。
やがて、先生の身体からそっと力が抜けた。
先生は、溢れそうな感情を抑え込むように、ゆっくりと美優の肩を抱き寄せた。
「ごめん……」
耳元で、先生がぽつりと言った。低く、掠れた、今にも消えてしまいそうな声だった。
美優は驚いて、先生の胸に埋めていた顔をゆっくりとあげる。涙に濡れた瞳で、先生の顔を見上げた。
「なんで……先生が謝るの……! ごめんなさいっ……私が悪いのっ! 私がっ、先生を好きになってしまっ―――!」
心の奥底に隠していたはずの、言葉にしてはならない思い。それが美優の唇から溢れ出そうになった、その時だった。
伊澄先生の手が美優の頬をそっと包み込み、それ以上の言葉を優しく塞いだ。
言葉にならない吐息と、静かな玄関先の空気。
互いの存在の近さに、時が止まったかのような錯覚に陥る。
先生の切なげな瞳が美優を見つめ、二人の影は静かに重なり合っていた。



