不完全な僕達は。






身を翻してその場から逃げ出そうとした、その瞬間だった。
ガシッ、と強い力で細い手首を掴まれる。

「え……っ?」

驚きに目を見開く間もなかった。引き寄せられた身体は、抵抗する術もなく、伊澄先生の広い胸の中へと倒れ込んでいた。
その衝撃で、美優がぎゅっと胸に抱きしめていた恋愛小説が、指先から滑り落ちて床へパタリと虚しい音を立てて落ちる。

鼻腔をくすぐる、少し煙草の混じった大人の匂い。衣服越しに伝わってくる、ドクドクと不規則に波打つ先生の鼓動。

「っ、せ、んせい……?」

美優は混乱し、声を震わせながら先生の肩のあたりを見上げた。いつもは余裕のある大人の彼が、今はまるで迷子の子どものように、美優の身体を強く、壊れそうなほどきつく抱きしめている。

「あー、なんか……怖い夢、みたみたいだわ……」

耳元で、掠れた低い声が溢れた。その声があまりにも脆く、寂しそうに響いたから。美優の胸の奥は、張り裂けそうなほどに締め付けられた。

先生にも、こんな風に弱くなる瞬間があるのだろうか。
完璧だと思っていた大人の、見たこともない不完全な一面。

美優は、高鳴る自分の心臓を宥めるようにゆっくりと息を吐き出すと、恐る恐る、だけど確かな意思を込めて、先生の背中に両腕を回した。

「大丈夫……大丈夫だよ、伊澄先生」

そっと優しく、その背中をさする。
私が先生を支えてあげたい。私が、先生の不安を全部消してあげたい。そんな傲慢で、純粋な祈りを込めながら、美優は静かに先生の温もりに身を委ねていた。

どのくらいの時間が経っただろう。冷房の風が二人の間を通り抜けた時、伊澄先生の身体がハッと強張った。

先生は、取り憑かれていた魔法から覚めたかのように、ゆっくりと美優の身体を引き離した。その目は、先ほどまでの弱々しさは消え失せ、ひどく冷徹で、ひどく気まずそうな、大人の「拒絶」の色を帯びていた。

「ごめん……今の、忘れて」

先生は落ちた小説を拾うこともなく、ただそれだけを言い残して、背を向けて足早に秘密基地から立ち去ってしまった。

パタパタと遠ざかっていく足音。
美優は、ひんやりとした床の上に、ぽつんと一人きりで取り残された。胸元に残る確かな熱量と、床に転がったままの小説が、今起きたことが幻ではないと告げている。

――それから、数日が経った。

伊澄先生は、あの日を境に、図書室の秘密基地にピタリと姿を現さなくなった。廊下ですれ違っても、まるでただの生徒を見るような目で一瞬だけ一瞥され、何事もなかったかのように通り過ぎていく。

あからさまに作られた、教師と生徒という名の、高くて厚い境界線。
美優の心には、夏の日差しに干からびていく泥のように、ぽっかりと冷たい空洞が広がり始めていた。