ソラはまだ空を知らない

実習室へ入る。
何も変わっていない。
三つの操縦席。
大型スクリーン。
暗めの照明。
正面には玲奈司令。
そして。
「おかえり」
ユイナが言った。
「ただいま」
「別に待ってなかったけど」
「まだ言う?」
「一応」
「カイは?」
「……おかえり」
「うん」
私は中央の座席へ座る。
濃灰色のバケットシート。
鞄をフックへ掛ける。
PICOが揺れる。
右側のパネル。
白猫のシール。
「……ただいま」
今度は。
誰にも聞こえないように言った。
座席が動く。
ペダル位置が調整される。
四点式ハーネス。
カチッ。
左右の操縦桿へ手を置く。
いつもと同じ。
なのに。
全部違って見える。
この操作が。
この入力が。
ずっと地上へ届いていた。
「本日の実習を開始します」
玲奈司令。
いつもの声だった。
ユイナもカイも。
何も気づかない。
「今回のミッションは?」
ユイナが聞く。
大型スクリーンへタイトルが表示された。
《FINAL RAID EVENT》
「うわ」
ユイナの目が輝く。
「最終レイド!?」
「大型イベントの最終シナリオです」
「報酬は!?」
私が聞いた。
玲奈司令がこちらを見る。
一瞬だけ。
「……特別報酬があります」
「あるんだ!」
「やったじゃない、ソラ」
「何もらえるんだろ」
玲奈司令の顔は変わらない。
「クリアしてからのお楽しみよ」
「それ絶対いいやつじゃん!」
私は笑った。
本物の空。
もし。
それが報酬なら。
かなり豪華だ。
「今回使用するAFには、新システムが搭載されています」
画面が切り替わる。
AFの背部。
見慣れない大型ユニット。
ユイナが身を乗り出す。
「何これ!」
「《OVER BOOST》」
「オーバーブースト?」
カイが画面を見る。
「推進器」
「通常ブースターとは桁が違います」
玲奈司令が説明する。
「起動後、AFを一気に高高度まで加速させる」
「飛べるの!?」
私はわざと驚いた声を出す。
「ソラ、好きそう」
「めちゃくちゃ好き!」
本当は昨日聞いた。
でも。
二人には言わない。
「ただし」
玲奈司令が続ける。
「消費エネルギーが非常に大きい。使用後は機体性能が大幅に低下します」
「つまり一発勝負?」
カイ。
「そう考えて」
「何それ最高!」
ユイナが笑う。
本当に。
何も知らない。
だからこそ。
いつも通りだった。
「目的は?」
私は聞いた。
玲奈司令が画面を切り替える。
遠い空。
その向こうに。
巨大な構造物が表示される。
「敵中枢への侵入」
赤いマーカー。
「最奥部に存在する、特殊ボス個体を撃破してください」
玲奈司令が画面を切り替える。
「作戦は三段階」
一本目の矢印が、地上から雲の上へ伸びた。
「第一段階。三機同時にOVER BOOSTを使用し、高高度まで一気に上昇」
二本目。巨大構造物を取り巻く赤い円を突き抜ける。
「第二段階。外周防衛を突破。ここで敵を殲滅しようとしないこと。進路上の敵だけ排除してください」
三本目。構造物の中心へ。
「第三段階。中枢へ侵入し、特殊ボス個体を撃破する」
ユイナが腕を組む。
「敵は?」
「外周だけで、飛行型と高機動人型が多数。構造物表面には対空砲撃型。内部の構成は不明です」
「多数って何機?」
「現時点の観測では、数える意味が薄い程度には」
「それ説明になってる!?」
画面には、敵中枢の外観が拡大された。
巨大な黒い構造体。塔というより、複数の建造物を無理やり一つに束ねたような形で、表面から無数の突起と砲口が伸びている。
その周囲には小さな機影が輪を作っていた。一つ一つなら見慣れた飛行型なのに、数が多すぎて、遠目には黒い雲の帯に見える。
さらに表面を這う人型。通常型より細く、背部と脚部に追加推進器を備えた高機動仕様。
「こいつら、速そう」
「速いわ」
「即答しないでよ」
カイが構造物を見つめる。
「役割は?」
「橘ユイナは先行して進路を塞ぐ敵を排除。水城カイは後方から射線を作り、対空砲撃型を優先。七瀬ソラは二人が開いた経路を使って中枢へ最短で進む」
「私が突っ込む役?」
「そうです」
「それなら得意」
「ただし」
司令の声が低くなった。
「三人とも、撃破数を競う必要はありません。目的は一つ。中枢へ到達すること」
ユイナが少しだけ不満そうな顔をした。
「……分かってるわよ」
カイが頷く。
「了解」
私は画面中央の一点を見る。
「最短ルートでボスだけ倒す。うん。分かりやすい」
「ラスボスじゃん!」
ユイナが叫ぶ。
「本当に最終イベントだ!」
カイが静かに画面を見る。
「……強い?」
「非常に」
「何機?」
「周辺敵を含めれば」
玲奈司令が一度言葉を止める。
「数える意味はありません」
「は?」
ユイナが固まる。
「ちょっと待って司令、それどういう――」
「なるほど」
私は言った。
「全部倒すなってことね」
玲奈司令と目が合う。
「そうよ」
「敵は無視」
「可能な限り」
「ボスだけ倒す」
「それが唯一の勝利条件」
「分かりやすいじゃん」
ユイナが笑う。
「なら行けるわ」
「簡単に言うね」
「ソラが一番そういう顔してる」
「どんな顔?」
「難しいゲーム見つけた時の顔」
「……そう?」
「そう」
たぶん。
そうなんだと思う。
怖い。
でも。
少しだけ。
わくわくしている自分もいた。
不謹慎かもしれない。
でも私は。
やっぱりゲームが好きだった。
そして。
戦うなら。
いつもの私でいたかった。
「全員、準備」
玲奈司令の声。
三人同時に操縦桿を握る。
「橘ユイナ」
「はい!」
「水城カイ」
「はい」
「七瀬ソラ」
私は。
正面を見る。
「はい、司令」
画面中央。
《AF ONLINE》
次に。
《OVER BOOST READY》
「ミッション開始」
その瞬間。
私たち三機のAFが走り出した。
《OVER BOOST》起動。
次の瞬間、身体が座席へ押しつけられた。
もちろん本当に空へ飛び出したのは、地上にいるAFだ。
それでもモニターの景色が猛烈な速さで落ちていくと、自分まで上へ引っ張られる気がした。
雲。
青。
昨日までなら《変な色のゲーム空》だったもの。
今は知っている。
これが本物だ。
青い光が、曲面モニターから私の顔を照らした。
『外周接敵!』
ユイナ。
黒い機影が、空を塞ぐ。
『ソラ、右の群れ! 倒す!?』
「無視!」
『……了解!』
以前のユイナなら、絶対に全部へ突っ込んでいた。
でも今は違う。
進路を塞ぐ三機だけを撃ち落とし、すぐに戻る。
『右腕、左腕、両脚。全部ある!』
「今それ言う!?」
『確認よ!』
こんな時なのに、笑いそうになった。
『前方、対空砲三。射線作る』
カイ。
「任せた!」
『了解』
三発。
ほとんど同時に砲台が消える。
私はそこへ飛び込む。
一人で全部やらない。
ユイナが任せる。
カイが伝える。
私も、二人へ任せる。
三人で戦う。
それだけで、あれほど遠かった中枢が少しずつ近づいた。
警告。
残弾。
損傷。
敵。
全部が視界の端を流れていく。
最後に覚えているのは。
『ソラ!』
ユイナの声。
『行きなさい!』
カイの声。
『射線、開けた』
そして。
玲奈司令。
『七瀬ソラ』
「はい」
少しだけ間があった。
『あなたの判断に任せます』
命令じゃなかった。
最後まで。
だから私は。
「了解、司令!」
自分で選んで。
操縦桿を前へ倒した。
視界の中央。
崩れた外壁の向こうに、中枢が見えた。
黒い構造体の奥。脈打つように赤い光が明滅している。
『ソラ、今!』
ユイナ。
『射線、完全に開いた』
カイ。
私は照準を中央へ重ねた。
もう、誰にも聞かなかった。
「いっけえええっ!」
トリガーを引く。
画面が、真っ白になった。
通信が一瞬だけ全部消えた。
音も。
警告も。
何も聞こえなくなった。
それから。
遠くで、何か巨大なものが崩れる音がした。

――そして。
作戦は終わった。
すべてのマキナがその瞬間に止まったわけではない。
敵の中枢を失ったことで大規模な連携は崩れたけれど、地上にはまだ動く機械兵器が残っていた。