ソラはまだ空を知らない

「二十二点」
「言うな!」
反射的に数学の小テストを伏せた。
その勢いで、顎のあたりまで伸びた黒髪が頬へぱさりとかかる。
七瀬ソラ。
十四歳。
中学二年生。
得意科目――ゲーム。
苦手科目――それ以外。
特に今は、数学という教科をこの世から消滅させたいと思っている。
「事実」
私の隣で、水城カイが本から顔を上げた。
三人の中では一番背が高い。
とはいっても細身なので、大きいというよりひょろっとして見える。
耳にかかるくらいの黒髪。その前髪の隙間から、青みがかった灰色の目がこちらを見ていた。
「事実なら何でも口にしていいと思ったら大間違いだからね!」
「二十二点は二十二点」
「二回言うな!」
「私は九十四点だったけど?」
今度は反対側から声が飛んできた。
橘ユイナ。
椅子から立ち上がると、私より少しだけ背が高い。
肩甲骨あたりまである明るい栗色の髪を、高めのポニーテールにまとめている。
こうして勝ち誇るたび、そのポニーテールがやたら元気に揺れるのが腹立たしい。
琥珀色の目を細めながら、ユイナは答案用紙を私の目の前へ突き出した。
「ほら」
「見せなくていい!」
「九十四点」
「聞こえてる!」
「カイは?」
「百点」
「なんで聞くの!?」
「確認よ」
「私を傷つけるための確認だよね!?」
ユイナの制服は今日もきっちりしている。
濃紺のブレザー。
白いシャツ。
灰色のスカート。
胸元のリボンまで綺麗に結ばれている。
一方、私はというと。
「ソラ」
「何?」
「またリボン曲がってる」
「ゲームの性能に関係ないからいいの」
「学校では関係あるの」
ユイナが私の胸元へ手を伸ばした。
「ちょ、いいって」
「じっとして」
結び目を直される。
「アンタ、十四歳にもなってこれくらい自分で直しなさいよ」
「できますー」
「できてないから直してるんでしょ」
「世話焼きすぎ」
「誰が世話焼きよ!」
ユイナの顔が赤くなる。
カイはもう興味をなくしたらしく、本へ目を戻していた。
「ねえカイ」
「何」
「ユイナって世話焼きだよね」
「うん」
「カイ!」
今度はユイナが怒った。
私は笑いながら机の横へ手を伸ばし、通学鞄を持ち上げる。
ファスナーに付けていた小さな白猫のマスコットが、ぶらんと揺れた。
白く丸い身体。
耳先と尻尾の先だけが水色。
腰には、小さな工具入れ。
《FRONTIER ZERO》の整備マスコット、PICO。
「それ、まだ付けてるのね」
ユイナが言った。
「何が?」
「ピコ」
「いいじゃん」
「好きよね、それ」
「別に好きじゃないし」
「じゃあ外せば?」
「デザインがいいだけ」
「はいはい」
「何その言い方」
「別にー」
ムカつく。
かわいいから付けているわけじゃない。
デザインがいいのだ。
そこは重要である。
「ソラ」
カイが本を閉じた。
「ゲーム授業」
「あ」
時計を見る。
「もうそんな時間!?」
「数学の二十二点にショック受けすぎたんじゃない?」
「忘れろ!」
私たちは鞄を持って教室を出た。

廊下では、クラスメイトたちが部活へ向かったり、帰り支度をしたりしている。
廊下の窓から差し込む白い光が、床を長く照らしていた。
私たち三人だけは、その流れとは逆方向へ歩いていく。
「いいなあ、特別組」
途中ですれ違った男子が言った。
「今日もゲームだろ?」
「代わる?」
私は即答した。
「え?」
「私の代わりに行っていいよ」
「マジ?」
「昨日、敵七十八機出たけど」
「やっぱいい」
「でしょうね」
「大げさに言うからよ」
ユイナが呆れる。
「大げさじゃない。七十八機は七十八機!」
「勝ったでしょ」
「そういう問題じゃないの!」
私たちの学校には、普通の授業とは別に《ゲーム技能実習》というものがある。
別に珍しい授業ではない。
小学校の頃からあった。
ゲームは、反応速度や空間認識力、判断力なんかを鍛えるのに向いているらしい。
先生曰く、
『若いうちの方が、新しい操作への適応も速い』
とのこと。
勉強が得意な子。
スポーツが得意な子。
絵や音楽が得意な子。
ゲームが得意な子。
そういう得意分野の一つとして、学校でもゲームを教えている。
私がそれを「得意」だと知ったのは、もっと小さい頃だった。
勉強は苦手。走るのも遅い。絵も歌も、褒められた記憶はほとんどない。
周りの子が何かしら得意なものを見つけていく中で、私はずっと、自分には何もないと思っていた。
そんな私が、みんなと一緒に初めてゲームへ触れた。
最初は操作方法すら分からなかったのに、不思議なくらい楽しかった。
もう一回。あと一回。そうやって遊んでいるうちに、気づけば私は誰よりも先へ進んでいた。
「ソラ、すごい!」
初めてだった。
何かをやって、みんなに褒めてもらえたのは。
だから私は、ゲームが好きになった。
そして中学校へ上がる時、希望者にはゲームの実技試験がある。
そこで特に高い成績を出した生徒だけが、《特別技能学級》の対象になる。
今年選ばれたのは三人。
私。
ユイナ。
カイ。
「でもさあ」
私は歩きながら言った。
「特別なんだから、普通の授業ちょっとくらい免除してくれてもよくない?」
「何でよ」
「ゲームに集中するため」
「ゲームしかできない大人になるわよ」
「ゲームで食べていく」
「数学二十二点で?」
「数学関係ないじゃん!」
「九九」
カイが言う。
「できる!」
「七の段」
「七、十四、二十一……」
「遅い」
「カイ!」
ユイナが吹き出した。