ソラはまだ空を知らない

玲奈司令は頭を下げたまま動かない。
いつもなら、背筋をぴんと伸ばして。
私たちに命令して。
返事が小さいだけでも怒る人なのに。
「……顔上げてよ」
言った。
玲奈司令は動かなかった。
「司令」
「……」
「そういうの、ずるい」
ようやく顔を上げる。
灰褐色の目が、まっすぐ私を見る。
「ごめんなさい」
「謝るのもずるい」
「そうね」
「何でも認めないでよ」
「では、どうすればいい?」
「それを私に聞く?」
「今は、聞くわ」
変なの。
本当に変な人だ。
私はテーブルの上に置かれたPICOのコントローラーを見る。
白い猫が笑っている。
「……一個聞いていい?」
「ええ」
「私が行かないって言ったら」
「うん」
「どうするの?」
「橘ユイナと水城カイの二人で作戦を実行する」
「成功の可能性、絶無なのに?」
「ええ」
「それでも?」
「それでも」
「……二人には何て言うの?」
「新しい大型イベント」
「クリアできないのに?」
玲奈司令の顔が少しだけ苦しそうになる。
「少しでも時間を稼ぐ必要があるから」
「時間?」
「今、生きている人たちが生きるための時間」
「…………」
言葉が出なくなった。
また。
嫌な言い方だ。
でも。
たぶんもう、この人は私に嘘をつけない。
「じゃあさ」
「何?」
「私が行ったら」
「……ええ」
「二人には、最後までゲームだって言うの?」
「そのつもりよ」
「ひどくない?」
「そうね」
「またそれ」
「でも」
玲奈司令が言う。
「二人には、まだ真実を話す許可が下りていない」
「許可?」
「あなたは今日、十五歳になった。制度上は成人よ」
「だから今度は、実習へ戻るかどうかを自分の意思で決められる」
「その判断に必要な情報として、A1の開示許可を取ったの」
「ユイナとカイは?」
「まだ十四歳のまま。制度上は、何も知らない特別技能実習の参加者よ」
「でも」
私はすぐにカイの顔を思い出した。
「カイ、一回やめようとしたよ」
「ええ」
「辞退届まで持ってきた」
「知っているわ」
「司令、自分で言ったじゃん。続けるかやめるかは本人が決めるって」
「言った」
「じゃあ二人が《自分の意志で続けてる》って、そんな簡単に言えないでしょ」
玲奈司令は目を逸らさなかった。
「その通りよ」
「……認めるんだ」
「知らないまま選んだものを、本当の意味での選択だとは言えない」
「じゃあ話せばいいじゃん」
「話したい」
「なら」
「でも、作戦は待ってくれない」
司令の声が低くなる。
「今この瞬間に世界の真実を全部ぶつけて、理解する時間も与えず《それでも出て》と言う。それもまた、別の形で二人を追い詰めることになる」
「……」
「本当なら、知ったあとに怒って、泣いて、疑って、考えて。それから決める時間を与えなければいけない」
「でも、その時間がない」
「ええ」
「だから黙ったまま出すの?」
長い沈黙。
「……ええ」
「ひどい」
「そうね」
「司令、そればっかり」
「正しいと言ったら、もっとひどい大人になるから」
「……」
「今回の責任は、私たち大人が背負う」
「それで、二人は知らないまま?」
玲奈司令は一度だけ目を伏せた。
「……少なくとも、この作戦の前には」
「不公平じゃん」
「そうね」
また。
でも今度は、私も怒れなかった。
「……難しいね、大人って」
「難しいわ」
「十五歳になったらこんなの考えないといけないの?」
「普通は考えなくていい」
「じゃあやっぱ十五歳、取り消して」
「できるものならそうしたい」
「本気で言ってる?」
「ええ」
私は笑った。
少しだけ。
本当に少しだけ。
それから、窓を見る。
夕焼け。
偽物。
知ってしまった今でも。
綺麗だった。
「司令」
「何?」
「本物の空って」
言葉を探す。
「どんな感じ?」
「……」
「これと違う?」
玲奈司令も窓を見る。
「似ているわ」
「じゃあ同じじゃん」
「でも、違う」
「どこが?」
「説明するのは難しい」
「何それ」
「広いの」
「この空も広いよ?」
「もっと」
「どれくらい?」
「どこまでも」
「適当」
「本当よ」
玲奈司令が少しだけ笑った。
「昔は、誰でも見られた」
「毎日?」
「毎日」
「無料で?」
「無料」
「すご」
思わず言ってしまった。
空を見るのにお金はいらない。
当たり前なんだろうけど。
私には、なんだかすごいことに聞こえた。
「……見てみたいな」
自分でも気づかないくらい小さな声だった。
でも。
玲奈司令には聞こえたらしい。
「ええ」
それだけ言った。
私はPICOのコントローラーを持ち上げた。
白い猫。
水色の耳。
水色の尻尾。
「私さ」
「うん」
「ゲームやめたんだよね」
「ええ」
「あの日、本気でやめた」
「分かってる」
「だから」
一度、息を吸う。
「ゲームには戻らない」
玲奈司令が黙る。
「でも」
私は立ち上がった。
「これはゲームじゃないんでしょ?」
「……ええ」
「なら話は別」
自分で言って。
胸がどくんと鳴った。
怖い。
もちろん怖い。
今までは知らなかった。
失敗しても、画面に《MISSION FAILED》と出るだけだと思っていた。
でも。
今は知っている。
「1%なんだよね?」
「ええ」
「ゼロじゃない」
「ソラ」
「1%ある」
「そうね」
「ゲームだったら」
私は笑う。
「結構高いよ」
「……」
「レアアイテムなんて、1%切ってるの普通だし」
「そういう話では」
「分かってる」
遮った。
「分かってるよ」
私だって。
もう分かっている。
これはゲームじゃない。
リトライはない。
ロードもできない。
攻略サイトもない。
失敗しても、次があるとは限らない。
だから。
「私が決める」
玲奈司令を見る。
「やる」
「……本当に?」
「うん」
「命令ではないわ」
「分かってる」
「途中で嫌になったら」
「司令」
「何?」
「今それ言う?」
「言うわ」
「やめないよ」
「でも」
「私が決めたから」
今度は。
玲奈司令が何も言えなくなった。
「だから」
私はPICOのコントローラーを箱へ戻す。
「司令」
「……何?」
「明日から、またよろしく」
少し間があって。
玲奈司令は。
いつものように背筋を伸ばした。
「了解しました」
「そこは『任せなさい』とかじゃないの?」
「あなたの司令だから」
「……そっか」
司令。
本当に。
最初からずっと。
司令だったんだ。

次の日。
学校はいつも通りだった。
「三十一点!」
「おお」
カイが珍しく反応した。
「三十超えた!」
「奇跡ね」
ユイナが答案を見る。
「何よ奇跡って!」
「だって前回二十八でしょ」
「三点も上がった!」
「その調子なら百点まであと二十三回ね」
「なんでそういう計算だけ速いの!?」
普通だった。
あまりにも普通だった。
昨日。
世界がひっくり返ったのに。
教室は変わらない。
先生も。
机も。
窓の外の、いつもの白い空も。
全部昨日と同じだ。
「ソラ」
ユイナが私を見る。
「何?」
「今日」
一度言葉を切る。
「来る?」
ゲーム実習。
という意味だ。
「うん」
「……本当?」
「何その顔」
「別に!」
ポニーテールが大きく揺れる。
「戻ってきてほしいとか思ってないから!」
「聞いてないけど」
「ただ二人だと大変だっただけ!」
「はいはい」
「本当にそれだけだから!」
カイが本を閉じる。
「……三人の方が楽」
「そういえば」
ユイナが急に指を差してきた。
「ゲームセンターの約束、まだだからね」
「覚えてたの?」
「当たり前でしょ。次の休み、逃げたら許さないから」
胸の奥が少しだけ痛んだ。
二人にとっては、ただの次の休みの約束。
私にとっては。
絶対に守りたい約束になった。
「うん」
私は笑った。
「三人で行こう」
「カイは素直だね」
「事実」
「ユイナも見習えば?」
「うるさい!」
私は笑った。
二人は知らない。
私が昨日、何を聞いたか。
今から何をしようとしているのか。
それでいい。
たぶん。
今は。
「じゃあ行こっか」
鞄を持つ。
PICOが揺れた。