ソラはまだ空を知らない

小さな応接室。
テーブルを挟んで、私は玲奈司令と向かい合っていた。
司令は学校の実習室にいる時と全然変わらない。
背筋を伸ばして座っている。
私だけソファにだらっと沈んでいた。
「戻らないからね」
先に言った。
「今日は、その話をしに来たわけではありません」
「じゃあ何?」
「これを」
玲奈司令がテーブルの下から細長い箱を出した。
「……何?」
「開けて」
「怪しくない?」
「怪しくありません」
「司令がいきなり家まで来て箱渡すの、かなり怪しいけど」
「いいから」
箱を受け取って包装紙を剥がす。中央に描かれた、耳と尻尾の先が水色の白猫。
「PICO!」
中に入っていたのは、もう売っていない限定モデルのコントローラーだった。白地に水色のライン、グリップには小さな肉球模様。
「これ、限定モデルじゃん! どうしたの!?」
「手に入れたの」
箱から出す。新品だ。自然と頬が緩む。
「司令、意外とセンスあるじゃん」
「意外は余計よ」
「でも何で?」
玲奈司令は、すぐには答えなかった。
それから。
「……誕生日、おめでとう」
「誕生日?」
私は首を傾げた。
「誕生日って、学校に入った日のお祝いでしょ?」
「…………」
「まだまだ先のことじゃない。どうしたの?」
玲奈司令の表情が止まった。
「……そうね」
「?」
「あなたたちにとっては、そうね」
「なにそれ」
玲奈司令は、膝の上で組んだ手に視線を落とした。
「でも、違うのよ」
「違う?」
「今日が、あなたの誕生日なのよ」
「…………今日?」
「ええ」
「いや、だから。私が学校に入ったのはもっと後――」
「それは、私たちがそう教えたの」
「……教えた?」
「本当の誕生日は、学校に入った日ではないわ」
「じゃあ何?」
玲奈司令が一度だけ息を吸った。
「その人が、生まれた日」
「…………」
聞いたことのない言い方だった。
「生まれるって、なに?」
玲奈司令の顔が、また止まった。
「……え?」
「生まれる」
私はもう一度言った。
「どういう意味?」
「…………」
「学校に入るのとは違うの?」
長い沈黙のあと。
玲奈司令は、慎重に言葉を選ぶように答えた。
「人が、この世界に来ることよ」
「世界に来る?」
「ええ」
「どこから?」
玲奈司令の指が、わずかに震えた。
「……その話も、今日するわ」
「何それ。変なの」
「そうね」
「じゃあ、いつ生まれたの? 私」
「十五年前の今日」
「…………十五年前?」
少し考える。
それから。
「じゃあ私、今日から十五歳?」
「ええ」
「私、十四歳だと思ってたんだけど」
「あなたには、そう伝えていたから」
「何それ……」
自分の年齢まで。
私の知らないところで決まっていたらしい。
私は手の中のPICOコントローラーを見る。
「じゃあ、これ」
「誕生日プレゼントよ」
「……本当の?」
「ええ。本当の誕生日の」
「そっか」
嬉しい。
ものすごく嬉しい。
でも。
「……これでゲーム戻れって言うなら卑怯だからね」
玲奈司令の顔から。
わずかに表情が消えた。
「違うわ」
「本当に?」
「ええ」
「じゃあ何?」
答えはすぐには返ってこなかった。
司令の両手が膝の上で組まれている。
いつもの人なら、こんなに迷わない。
「司令?」
「……ソラ」
初めてだった。
七瀬ソラでもなく。
あなたでもなく。
ただ。
ソラ。
そう呼ばれた。
「なに?」
「この社会で成人と認められるのは十五歳からよ」
「じゃあ……」
さっき聞いた数字が、急に重くなる。
「今日から私、大人?」
「制度上はね」
「急すぎない?」
「あなたが知らなかっただけで、この日は十五年前から決まっていたの」
「それ、もっと早く教えてよ」
玲奈司令は答えなかった。
代わりに、小さな端末を取り出した。
「そして、もう一つ」
画面を私へ向ける。
文字ばかり。
読んでも意味が分からない。
「人類保全委員会によって、《特秘条項A1》に基づく情報開示許可が下りました」
「……何それ」
「今日から成人となったあなたに、最高機密情報を開示する許可」
「最高機密?」
「ええ」
さすがに笑えなくなった。
「ゲームの?」
「違うわ」
「学校?」
「違う」
「じゃあ何?」
司令は私を見る。
灰褐色の目。
いつも怖いくらい真っ直ぐなその目が。
今日は少しだけ揺れていた。
「世界について」
「…………」
「何それ」
私は笑った。
「急に中二病っぽさ増したんだけど」
「そうね」
「司令、そういう設定好きすぎじゃない?」
「ソラ」
笑っていない。
「冗談ではないの」
部屋が静かになる。
「まず」
玲奈司令が言った。
「ソラ」
「何?」
「空って、何色だと思う?」
「何その質問」
私は窓の外を見る。
「昼なら白でしょ。今は夕方だからオレンジだけど」
ほんの一瞬、司令の横顔がひどく寂しそうに見えた。
「……そう」
「あなたにとっては、それが空なのね」
「何その言い方」
「あなたが空だと思っているものは、巨大な天井に映された映像よ」
「……何言ってるの?」
「あなたが暮らしている都市、《シャングリラ》は――」
一度。
司令が息を吸った。
「地下にあります」
「…………」
「え?」
私は窓を見る。
応接室の窓。
その向こう。
夕焼け。
オレンジ色の空。
「何それ」
立ち上がる。
「ちょっと待って」
窓へ近づく。
いつもの空だ。
「これ?」
「ええ」
「偽物?」
「そうよ」
「……いやいや」
思わず笑う。
「ないない」
「ソラ」
「だって太陽あるじゃん」
「人工照明よ」
「じゃあ夜は?」
「同じ。星も映像よ」
「…………」
「じゃあ」
私は、ゲームの画面を思い出す。
「たまに、画面の上から水みたいなのがずっと落ちてくることあったよね。あれは?」
玲奈司令は、一瞬だけ黙った。
「あれは雨よ」
「……アメ?」
「空から水が落ちてくる自然現象。地上では珍しいことじゃないわ」
「自然現象?」
「ええ。デバフでも、演出でもない」
「じゃあ」
私は振り返る。
「本物の空は?」
「地上にあるわ」
「……じゃあ、一つ聞いていい?」
「何?」
「ゲームの空」
私は、あの何度も見た戦闘画面を思い出す。
「FRONTIER ZEROの空って、ずっと青かったよね」
玲奈司令は静かに頷いた。
「ええ」
「あれも作ってたんじゃないの?」
「違うわ」
「じゃあ何?」
「地上を、そのまま映していた」
「…………」
「あれが、本当の空の色よ」
言葉が止まった。
青。
ずっと、ゲームのために作られた色だと思っていた。
モニター越しに何百回も見ていた色。
「じゃあ……こっちの空が白いのは?」
「シャングリラの巨大天井設備は古いの。あなたが生まれるより前の損傷で、広域表示では青の発色を安定して維持できなくなった」
「直さなかったの?」
「直せなかった。天井すべてを交換する資源も、人手もなかった」
「でも端末とかPICOは青いじゃん」
「小さな表示機器とは規模が違うわ。壊れているのは、この巨大な天井設備の一部だけ」
「……」
昨日までなら、ただの古い設備の話だった。
今は違う。
「……じゃあ」
私は窓の外を見る。
白からオレンジへ変わった、偽物の空。
「私が普通だと思ってた方が、作り物だったんだ」
「ええ」
「青い方が、本物」
「ええ」
何度もゲームの中で見ていた。
何百回も、その下を飛んでいた。
それでも私は、本当の空を知らなかった。
「地上って」
妙な言い方だった。
「ここが地上じゃないの?」
「違う」
「じゃあ……」
玲奈司令が続ける。
「シャングリラは、地下深くに建設された生存圏よ」
「生存圏……?」
「あなたが《FRONTIER ZERO》で守っていたものと同じ」
呼吸が止まった。
「……え?」
ゲームの画面を思い出す。
青いエリア。
生存圏。
守るべき施設。
「ちょっと待って」
「聞いて」
「待ってって!」
声が大きくなる。
「何でゲームの話になるの!?」
「ゲームではないからよ」
「…………」
今度こそ。
何も言えなかった。