「好き」
その二文字が、夏の夜の澄んだ空気に溶けていく。さっきまで夜空を鮮やかに染めていた大輪の花火は、もうどこにもない。
きらびやかな色彩のすべてを闇の向こうへ置き去りにして、ただ、胸をツンと刺すような火薬の匂いだけをこの場所に残していった。
赤や黄色の提灯が、淡い光で私たちの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。ずっと胸の奥に閉じ込めていた、名前のない感情。鼓膜を揺らした、君の、少し震えた声。
世界のすべてが止まってしまったみたいに静かで、私は、自分の呼吸以外の酸素をすべて奪われてしまったかのように苦しい。
私は、なんて返すのだろう。
*
「次の問題を──椿咲」
ねっとりとした夏の熱気がまとわりつく五時間目。出席番号順ではないから絶対に当たらないと高をくくっていた私は、不意に名前を呼ばれて小さく肩を跳ね上げた。何の脈絡もない、国語教師の気まぐれ。
「あっ……えっと……」
心臓がにわかにスピードを上げる。今、どこをやっているのだろう。
必死に黒板の白い文字を追いかけ、ノートの余白を見つめるけれど、頭が真っ白になってしまって答えが見つからない。
クラスメイトたちの視線が、じりじりと私の背中に集まっていくのがわかった。冷や汗が、制服の襟元を濡らす。どうしよう、と目の前が暗くなりかけた、そのとき。
「いま教科書の四十二ページ、上から三行目読んでる。早く開け」
すぐ横から、低くてぶっきらぼうな声が降ってきた。はっとして隣を見ると、彼は黒板を見つめたまま、シャープペンシルを淡々と動かしている。
私は慌ててページをめくり、指先でその場所をなぞった。
「あ、ありがとう……」
消え入りそうな声で小さくお礼を言うと、彼は視線すらこちらに向けないまま、そっけなく呟いた。
「いいから早く」
促されるまま、私は指定された数式を震える声で読み上げる。
「はい、座っていい」
先生はそれだけ言って、何事もなかったかのように黒板にチョークを走らせ始めた。ガタ、と椅子を引いて腰を下ろした瞬間、張り詰めていた糸が切れて、小さく息を吐き出す。
助かった……。そっと、盗み見るように隣の席の彼──芳垣朱雀を見た。
朱雀は何事もなかったかのように、綺麗な文字で淡々とノートを取っている。少し長めの黒髪が、窓から差し込むきらきらとした夏の日差しに透けて、柔らかく輝いていた。
整った横顔は、いつ見ても冷たそうに見えて、どこか優しい。
きっと、本人は何も考えていないのだ。隣の席のやつが困っていたから、ただ、なんとなく助けただけ。
そんなこと、私にだって分かりすぎるくらい分かっている。それなのに。たった一言をくれただけで、胸の奥がじんわりと熱くなって、耳の裏まで赤くなっていく。
(私、どうかしてるな……)
高校に入学して、もうすぐ三か月。私はまだ、芳垣朱雀に片思いをしている。いや。“まだ”なんて、まるですぐに諦めるつもりだったみたいな言葉は違う。
きっと私は、あの桜が舞い散る入学式の日から、終わる予定なんてどこにもない恋を始めてしまったのだ。
キーンコーンカーンコーン……。
終業を告げるチャイムが、静かだった教室の空気を震わせる。
「起立、礼」
号令とともに先生が教室を出ていくと、それまで張り詰めていた静寂が嘘のように、一気に賑やかな騒がしさが戻ってきた。
「芽衣子ー!」
背後から物凄い勢いで抱きつかれ、私は危うく机の角に額をぶつけそうになる。
「な、夏羽!危ないよぉ」
「お昼!いっしょに食べよ!」
振り返ると、そこにはひまわりみたいな満面の笑みがあった。川本夏羽。小学校のときからずっと一緒にいる、私の一番の親友だ。
ふわふわとした栗色の髪を揺らしながら笑う彼女を見ているだけで、モノクロだった世界にパッと色が灯るみたいに、周りの空気まで明るくなる。
「うん、食べよう。」
夏羽の笑顔に引っ張られるように私も笑いながら、机からお弁当箱を取り出す。だけど、視線はどうしても、隣の席で静かに教科書をしまっている朱雀の綺麗な指先を追いかけてしまっていた。
「今日は購買?それともお弁当?」
「お弁当だよ。夏羽は?」
「やったぁ!うち、卵焼き交換したい!」
「また?」
「だって、芽衣子の卵焼きってお母さんの味がするんやもん」
「どういう感想なの、それ。私、まだ女子高生だよ?」
二人で顔を見合わせて笑いながら、お弁当箱を手に席を立つ。そのときだった。
「朱雀ー!」
教室の前方のドアから、男子生徒が勢いよく声をかけた。
「今日、昼休みサッカーやろうぜ!」
「……あとでな」
短く、だけど心を開いたようなトーンで答える朱雀の周りには、いつの間にか何人もの男子が集まっていく。
それだけじゃない。教室のあちこちから、女子生徒たちも遠巻きに彼の姿をそっと眺めていた。学年の人気者。その言葉がこれほど似合う人を、私は他に知らない。
誰に対しても媚びず、ぶっきらぼうなのに、なぜか人を惹きつけて離さない光が彼にはあった。
「また見とる」
不意に、すぐ耳元で夏羽のいたずらっぽい声が囁いた。
「……っ、見てない」
「見とるやん」
「見てないってば」
「えー?顔、真っ赤やで?」
「……うそ」
慌てて両手で自分の頬を押さえると、そこは驚くほど熱を持っていた。夏羽はそれを見て、嬉しそうに、楽しそうに鈴を転がすように笑う。
「芽衣子、ほんま分かりやすいなぁ」
「もう……夏羽、意地悪」
誰にも知られたくない、胸の奥の一番柔らかい秘密。なのに、それを一番最初に見つけてくれるのは、いつだってこの優しい親友だった。
*
お昼休み、私たちは教室の熱気から逃げるように、中庭のベンチへと向かった。六月の風は、近づいてくる夏の入り口みたいに、ほんの少しだけ熱を帯びて肌をなでていく。
「こんにちは、二人とも」
背後から、おだやかで低い声が聞こえて振り向いた。
「あ、朱音くん」
芳垣朱音。隣のクラスにいる、朱雀の双子の弟だ。同じ遺伝子を持って生まれてきたはずなのに、二人がまとう雰囲気はまるで違っていた。
兄の朱雀が、ジリジリと肌を焦がす鮮烈な『夏の日差し』なら、弟の朱音は、生い茂る木陰をそよぐ『おだやかな風』みたいな人。
「隣、座ってもいい?」
「もちろん。どうぞ!」
夏羽が快活に答えると、朱音くんは少し目元を和ませてベンチに腰を下ろした。
「朱音くん、今日のお昼はパンなん?」
「うん。今朝はちょっと寝坊しちゃってさ。兄さんがお弁当作ってくれなかったんだ」
「あはは、相変わらずやなぁ」
「そうかな。気をつけてるつもりなんだけどね」
購買の焼きそばパンを手に、のんびりと困ったように笑う朱音くん。その笑顔を見つめる夏羽の瞳には、いつもより少しだけ特別な光が宿っている。
私は二人のやり取りをそっと見守りながら、お弁当の蓋を開けた。
(たぶん夏羽は気付いてない)
自分を見つめる、朱音の目がどれほど優しくて、どれほど切ない色をしているかということに。
(多分朱音くんには、気づかれてる)
私が教室で、誰の背中ばかりを追いかけているのかということに。お互いに、決して口には出さないけれど。
私たちはどこか、似た者同士のような空気を感じ取っていたのかもしれない。お昼休みが終わるチャイムが、遠くで鳴り響き始めた頃。それまで楽しそうに夏羽と話していた朱音くんが、ぽつりと言った。
「ねえ、椿咲さん」
「なに?」
「放課後、少しだけ時間あるかな」
「あるけど……どうしたの?」
「ちょっと、相談したいことがあるんだ」
いつものおだやかな笑顔は消えていた。その表情は、どこか痛いくらいに真剣で。私は少しだけ首をかしげながら、まっすぐな彼の手を拒めずに頷いた。
「うん、分かった。教室で待ってるね」
このときの私は、まだ何も知らなかった。その放課後の夕暮れから、始まってしまうことになるなんて。私たち二人だけの、少し歪で、おかしな約束。
──その名も、『失恋回避同盟』。
それは、それぞれの一番好きな人を振り向かせるために結ばれた、秘密の約束。
その二文字が、夏の夜の澄んだ空気に溶けていく。さっきまで夜空を鮮やかに染めていた大輪の花火は、もうどこにもない。
きらびやかな色彩のすべてを闇の向こうへ置き去りにして、ただ、胸をツンと刺すような火薬の匂いだけをこの場所に残していった。
赤や黄色の提灯が、淡い光で私たちの輪郭をぼんやりと浮かび上がらせている。ずっと胸の奥に閉じ込めていた、名前のない感情。鼓膜を揺らした、君の、少し震えた声。
世界のすべてが止まってしまったみたいに静かで、私は、自分の呼吸以外の酸素をすべて奪われてしまったかのように苦しい。
私は、なんて返すのだろう。
*
「次の問題を──椿咲」
ねっとりとした夏の熱気がまとわりつく五時間目。出席番号順ではないから絶対に当たらないと高をくくっていた私は、不意に名前を呼ばれて小さく肩を跳ね上げた。何の脈絡もない、国語教師の気まぐれ。
「あっ……えっと……」
心臓がにわかにスピードを上げる。今、どこをやっているのだろう。
必死に黒板の白い文字を追いかけ、ノートの余白を見つめるけれど、頭が真っ白になってしまって答えが見つからない。
クラスメイトたちの視線が、じりじりと私の背中に集まっていくのがわかった。冷や汗が、制服の襟元を濡らす。どうしよう、と目の前が暗くなりかけた、そのとき。
「いま教科書の四十二ページ、上から三行目読んでる。早く開け」
すぐ横から、低くてぶっきらぼうな声が降ってきた。はっとして隣を見ると、彼は黒板を見つめたまま、シャープペンシルを淡々と動かしている。
私は慌ててページをめくり、指先でその場所をなぞった。
「あ、ありがとう……」
消え入りそうな声で小さくお礼を言うと、彼は視線すらこちらに向けないまま、そっけなく呟いた。
「いいから早く」
促されるまま、私は指定された数式を震える声で読み上げる。
「はい、座っていい」
先生はそれだけ言って、何事もなかったかのように黒板にチョークを走らせ始めた。ガタ、と椅子を引いて腰を下ろした瞬間、張り詰めていた糸が切れて、小さく息を吐き出す。
助かった……。そっと、盗み見るように隣の席の彼──芳垣朱雀を見た。
朱雀は何事もなかったかのように、綺麗な文字で淡々とノートを取っている。少し長めの黒髪が、窓から差し込むきらきらとした夏の日差しに透けて、柔らかく輝いていた。
整った横顔は、いつ見ても冷たそうに見えて、どこか優しい。
きっと、本人は何も考えていないのだ。隣の席のやつが困っていたから、ただ、なんとなく助けただけ。
そんなこと、私にだって分かりすぎるくらい分かっている。それなのに。たった一言をくれただけで、胸の奥がじんわりと熱くなって、耳の裏まで赤くなっていく。
(私、どうかしてるな……)
高校に入学して、もうすぐ三か月。私はまだ、芳垣朱雀に片思いをしている。いや。“まだ”なんて、まるですぐに諦めるつもりだったみたいな言葉は違う。
きっと私は、あの桜が舞い散る入学式の日から、終わる予定なんてどこにもない恋を始めてしまったのだ。
キーンコーンカーンコーン……。
終業を告げるチャイムが、静かだった教室の空気を震わせる。
「起立、礼」
号令とともに先生が教室を出ていくと、それまで張り詰めていた静寂が嘘のように、一気に賑やかな騒がしさが戻ってきた。
「芽衣子ー!」
背後から物凄い勢いで抱きつかれ、私は危うく机の角に額をぶつけそうになる。
「な、夏羽!危ないよぉ」
「お昼!いっしょに食べよ!」
振り返ると、そこにはひまわりみたいな満面の笑みがあった。川本夏羽。小学校のときからずっと一緒にいる、私の一番の親友だ。
ふわふわとした栗色の髪を揺らしながら笑う彼女を見ているだけで、モノクロだった世界にパッと色が灯るみたいに、周りの空気まで明るくなる。
「うん、食べよう。」
夏羽の笑顔に引っ張られるように私も笑いながら、机からお弁当箱を取り出す。だけど、視線はどうしても、隣の席で静かに教科書をしまっている朱雀の綺麗な指先を追いかけてしまっていた。
「今日は購買?それともお弁当?」
「お弁当だよ。夏羽は?」
「やったぁ!うち、卵焼き交換したい!」
「また?」
「だって、芽衣子の卵焼きってお母さんの味がするんやもん」
「どういう感想なの、それ。私、まだ女子高生だよ?」
二人で顔を見合わせて笑いながら、お弁当箱を手に席を立つ。そのときだった。
「朱雀ー!」
教室の前方のドアから、男子生徒が勢いよく声をかけた。
「今日、昼休みサッカーやろうぜ!」
「……あとでな」
短く、だけど心を開いたようなトーンで答える朱雀の周りには、いつの間にか何人もの男子が集まっていく。
それだけじゃない。教室のあちこちから、女子生徒たちも遠巻きに彼の姿をそっと眺めていた。学年の人気者。その言葉がこれほど似合う人を、私は他に知らない。
誰に対しても媚びず、ぶっきらぼうなのに、なぜか人を惹きつけて離さない光が彼にはあった。
「また見とる」
不意に、すぐ耳元で夏羽のいたずらっぽい声が囁いた。
「……っ、見てない」
「見とるやん」
「見てないってば」
「えー?顔、真っ赤やで?」
「……うそ」
慌てて両手で自分の頬を押さえると、そこは驚くほど熱を持っていた。夏羽はそれを見て、嬉しそうに、楽しそうに鈴を転がすように笑う。
「芽衣子、ほんま分かりやすいなぁ」
「もう……夏羽、意地悪」
誰にも知られたくない、胸の奥の一番柔らかい秘密。なのに、それを一番最初に見つけてくれるのは、いつだってこの優しい親友だった。
*
お昼休み、私たちは教室の熱気から逃げるように、中庭のベンチへと向かった。六月の風は、近づいてくる夏の入り口みたいに、ほんの少しだけ熱を帯びて肌をなでていく。
「こんにちは、二人とも」
背後から、おだやかで低い声が聞こえて振り向いた。
「あ、朱音くん」
芳垣朱音。隣のクラスにいる、朱雀の双子の弟だ。同じ遺伝子を持って生まれてきたはずなのに、二人がまとう雰囲気はまるで違っていた。
兄の朱雀が、ジリジリと肌を焦がす鮮烈な『夏の日差し』なら、弟の朱音は、生い茂る木陰をそよぐ『おだやかな風』みたいな人。
「隣、座ってもいい?」
「もちろん。どうぞ!」
夏羽が快活に答えると、朱音くんは少し目元を和ませてベンチに腰を下ろした。
「朱音くん、今日のお昼はパンなん?」
「うん。今朝はちょっと寝坊しちゃってさ。兄さんがお弁当作ってくれなかったんだ」
「あはは、相変わらずやなぁ」
「そうかな。気をつけてるつもりなんだけどね」
購買の焼きそばパンを手に、のんびりと困ったように笑う朱音くん。その笑顔を見つめる夏羽の瞳には、いつもより少しだけ特別な光が宿っている。
私は二人のやり取りをそっと見守りながら、お弁当の蓋を開けた。
(たぶん夏羽は気付いてない)
自分を見つめる、朱音の目がどれほど優しくて、どれほど切ない色をしているかということに。
(多分朱音くんには、気づかれてる)
私が教室で、誰の背中ばかりを追いかけているのかということに。お互いに、決して口には出さないけれど。
私たちはどこか、似た者同士のような空気を感じ取っていたのかもしれない。お昼休みが終わるチャイムが、遠くで鳴り響き始めた頃。それまで楽しそうに夏羽と話していた朱音くんが、ぽつりと言った。
「ねえ、椿咲さん」
「なに?」
「放課後、少しだけ時間あるかな」
「あるけど……どうしたの?」
「ちょっと、相談したいことがあるんだ」
いつものおだやかな笑顔は消えていた。その表情は、どこか痛いくらいに真剣で。私は少しだけ首をかしげながら、まっすぐな彼の手を拒めずに頷いた。
「うん、分かった。教室で待ってるね」
このときの私は、まだ何も知らなかった。その放課後の夕暮れから、始まってしまうことになるなんて。私たち二人だけの、少し歪で、おかしな約束。
──その名も、『失恋回避同盟』。
それは、それぞれの一番好きな人を振り向かせるために結ばれた、秘密の約束。
