怪盗は二度盗む

 翌日、ハーロウ邸に現れたのはレオンハルトだった。

「犬は好きですか」

 唐突な問いかけに、エリーゼは思わず、動きを止めてしまう。

――こんな時に犬の話だなんて、不器用……なのかしら。

 どこか力が抜けるような心地がして、彼女はかすかに笑った。

「ええ」

「そこも問題ないようだ」

 彼はティーカップに口をつけた。

「この契約結婚で、私が得られるものはわかりました。
 あなたにメリットはあるの?」

 エリーゼは静かだけれど強い目で、レオンハルトを見る。

「……メリットですか」

 レオンハルトは珍しく、少し考えた後にこう言った。

「あなたとは、いつも余計な説明がいらない」

 エリーゼがパチリとまばたきをする。

「王女としてではないのね」

「ええ。穏やかに暮らせるならそれが十分です」

 エリーゼは返事をしなかった。
 ただ彼を見つめ返した。


 夕方、エリーゼはハーロウ卿の書斎を訪れていた。

 マホガニーの机の向こうで、老いた卿は疲労を隠しきれない顔をしている。
 昨夜の騒ぎが、この屋敷の空気を変えてしまったことは明らかだった。

 エリーゼは告げた。

「ハーロウ卿、あの書類は無事です」

 老人は驚きに目を見張り、それから安堵したように深く息をついた。

​「無事だったか……。あの夜、宝飾品は戻ったが書類は消えていて肝が冷えたよ」

「亡国のサファイアを返してもらったときに……」

​ 言葉をにごす。怪盗3Xの名前を出すわけにはいかない。
 卿も沈黙で返した。

「すぐにお伝えできず、ごめんなさい」

 卿は責めるような顔はせず、うれいた目を伏せた。

「あの書類の存在を認めてはこの国はまた燃えていた。
 私は新政府派である警察にも、もちろん王政復古派の使者にも、一切言わなかった。
 ……彼らに探らせれば、すべてが踏みにじられるからだ」

 エリーゼは胸を突かれた。
 ハーロウ卿もまた、彼女とこの屋敷を沈黙で守ってくれていたのだ。

​「あの書類はこれまで通り私が預かろう。またこの屋敷で穏やかに暮らすといい」

​ その言葉は、慈愛に満ちた本物だった。我が子のように自分をかくまい、守り続けてくれた恩人。
 エリーゼは静かに首をふった。

​「いいえ。これ以上、卿やこの屋敷を危険に巻き込むわけにはいきません」

 ハーロウ卿は眉を寄せる。

「では、どうするつもりだ」

「書類は私が管理します」

 エリーゼの眼差しは強い。
​ 老人はしばらく黙っていたが、寂しそうに言った。

​「……そうか。そこまで決めているなら、私が言えることはないな」

​「これまで、本当にありがとうございました」

​ エリーゼは立ち上がり、深く頭を下げた。その声に混じったかすかな震えを、老人はただの緊張だと思っただろう。

​「お父様」

​ ハーロウ卿が動きを止めたのがわかった。
 戸籍上も、世間体の上でも、自分たちは「雇い主と家庭教師」にすぎない。だけど、亡命したその日から今日まで、自分を育ててくれたのはまぎれもなくこの人だった。

 これが最後になるかもしれない。そう思うと喉の奥が熱くなった。

​「ああ」

 老人のしわだらけの手が、そっと彼女の手を包んだ。

「私はいつでもお前の父親だよ、エリーゼ」
​
 温かかった。だからこそ、ここでは泣いてはならない。


 部屋を出たエリーゼの足取りは、不思議と軽かった。

 あの書類が争いの種であり、呪いであるならば、これ以上誰かの武器にさせるわけにはいかない。
 誰の手にも届かない場所へ運ぶために、まずこの屋敷から遠ざける。

 そのために使えるものはなんであっても、使う。
 たとえばそれが、あの冷たい少佐の差し出した道であっても、他の何かだとしても。

 自室へ戻ったエリーゼは、サイドテーブルの上の一枚のカードに触れた。
 レオンハルトから渡された連絡先だ。
 深く吸い、息を整えたあと、番号を押す。
 数回の呼び出し音のあと、落ち着いた声が耳に届いた。

『――予想していたより早い連絡ですね』

「レオンハルト少佐。続きの話をしましょう」

 エリーゼは揺るぎなく言った。
 短い沈黙ののち、少佐が続ける。

『いい決断です。だが、急いだほうがいい。
 昨夜の侵入で終わりではない。復古派は近くもう一度動く。新政府側もそれを察知している。
 この屋敷はすでに、両方から監視されていると見ていい』

 背筋が冷えた。

『次の接触があれば、今度こそ巻き添えが出る。あなたも、屋敷の者も』

 一拍おいて、耳に入る声の調子がわずかに落ちる。

『それにあなたの声はどうも、疲れているように聞こえる。今すぐこちらへ――』

「わかりました」

 エリーゼはそれだけ言って通話を切った。
 猶予はない。

 引き出しを開け、小さな木箱を取り出す。
 中に入っているのは、なじみ深い絵本、両親から贈られたバースデーカード、古びたしおり、幼いころに使っていたリボン。
 そこへあの予告状も入れた。

 外套を羽織る。

 部屋を見渡した。
 見慣れた家具。窓辺。寝台。
 ここを出れば、もう戻れない。
 エリーゼは扉へ向き直る。
 そのときだった。

 窓ガラスが小さく鳴った。

 エリーゼが振り返るより早く、冷たい夜風が吹き込む。開け放たれた窓から軽やかな影が滑り込んできた。

「――お出かけかい、王女様」

 そこにいたのはディオンだった。

 緑の瞳が、彼女の旅立ちの気配を鋭く見すえていた。