怪盗は二度盗む

「ご来場の皆様にお伝えします。屋敷内で不審な侵入が確認されました。落ち着いて、係員の指示に従い、避難してください」

 ベンチから立ち上がったディオンの表情が、一瞬で変わる。
 さっきまでのやわらかな熱は消え、彼の目が射るように険しくなった。

「……屋敷の中だ」

 エリーゼもすぐに立ち上がる。

「ハーロウ卿――」

「待て」

 とっさにディオンはその腕をつかんだ。

「あんたはここにいるんだ。何が起きたかわからない」

「嫌よ」

 ほとんど反射だった。自分でも驚くほど、はっきりした声が出た。
 ディオンは一瞬だけ眉を寄せる。止めたい。けれど止まらない。そう悟った顔だった。

「……ほんと、こういう時だけ聞き分けが悪いな」

「いつだって悪いわ」

「そうだった」

 短く返すと、彼は手を離した。代わりにエリーゼの半歩前へ出る。

「だったら、せめて俺の後ろにいるんだ」

 もう軽口の影もなかった。

 すれ違う侍女から事情を聞き、二人は急いで書庫に向かう。
 書庫の前には警備員が二人立っていた。 そのうちの一人は額を切り、巻かれた布に血がにじんでいる。

「侵入者です。
 窓から入ったらしく、気づいた時には――」

 ディオンは警備員の説明の途中で室内へ踏み込んだ。エリーゼも続く。

 書庫の中は無残だった。

 窓の鍵は壊され、棚の本や古文書は引きずり出されて床に散っている。引き出しはいくつも抜かれたまま放り出され、以前ディオンが開けた金庫も半ばこじ開けられていた。
 だが、飾り棚の銀器も、壁際の宝石箱も、そのままだ。
 ディオンがしゃがみ込み、床に散った文書を素早く見ていく。

「狙いは金じゃない」

 彼は一枚の羊皮紙をつまみ上げた。古い系譜図だった。

「荒らされてるのは古文書、系譜、封蝋つきの保管文書ばかりだ。宝石にも銀器にも触ってない」

 エリーゼが唇を引き結ぶ。

「書類ね」

「最初からそれが狙いだ」

 はっきりと言い切る声に、こんな状況なのに落ち着いてしまう。
 彼が確信を持っているだけで、足元の感覚が戻る。
 金庫を見てディオンは続けた。

「俺が持ってて正解だったな」

 ちょうどその時、書庫の入り口からハーロウ卿が現れた。
 使用人に支えられた姿にエリーゼが息をのむ。

「卿……!」

 駆け寄ると老人は無理に笑みを作った。

「心配はいらないよ、エリーゼ。年寄りには少し刺激が強かっただけだ」

 だが声はかすれ、顔色は紙のように白い。

「座ってください。今すぐ」

「すまないね……」

 ディオンが視線だけで周囲を確認する。
 荒らされた室内。負傷した警備員。蒼白な使用人たち。

「相手は書類の存在も、価値も、かなり正確に知ってる」

 エリーゼの胸が重くなる。
 自分がここにいるからだ。
 自分の血が。自分につながる書類が。
 この家の人々を危険にしている。

 ハーロウ邸はもう安全ではない。その言葉を、誰も口にはしなかった。けれど全員が理解していた。


 人がまばらになった夜更け、エリーゼはディオンの前に立った。

「……見せて、あの書類を」

 ディオンがこちらを見る。

「やめたほうがいい」

 返答は早かった。

「見てもいいことなんか、一つもない」

「これのせいで誰かが血を流したのなら、私だけ知らないままではいられない」

 ディオンは黙る。その沈黙は拒絶ではなく、あきらめだ。

「……辛くなったら、すぐやめるんだ」

 しばらくして、ディオンは外套の内側から防水布に包んだ束を取り出した。
 以前、彼が金庫から奪った書類だ。差し出す手つきは静かだった。

 受けとった紙の重みを感じる。

 王位継承と出生を示す古い証明書。旧王家の財産と相続に関する記録。そして――

 その下にあった別の束。
 日付。部隊名。執行記録。
 乾いた文字で記された、政変の日の報告書。

 王城東棟制圧。
 王妃側近拘束。
 反抗者処分。
 逃走者追跡。

 目の前がぐらついた。

 そこに、父の名があった。母の名も。
 心臓が、強く打つ。文字がにじむ。けれど視線はそらせなかった。指先が震える。何度も同じ行を読み返してしまう。

「エリーゼ」

 ディオンの声も遠い。

「もう、充分だ」

 やがて彼は、そっと書類を取り上げ、静かに閉じた。これ以上読ませたくないと、その全身で言っていた。

「侵入者は……これをどうするつもりだったの」

 ようやく出た声はかすれていた。

「あばけば、何かが戻るの?」

 ディオンは答えなかった。答えられないのだった。

「真実は正しいわ」

 エリーゼは虚空を見つめたまま言った。

「でも……それが人を救うとは限らないんだわ」

 これが世に出れば、新政府の罪は暴かれる。王位継承も証明される。復古派は喜ぶだろう。

 けれど、その先は。
 裁き。復讐。報復。
 また誰かが正義を掲げて、また誰かが死ぬ。

「この紙は証拠である前に、呪いだわ」

 ぽつりと落ちた言葉にディオンの目が揺れた。

「私が生きていることも、この書類が残っていることも……争いの理由になるのね」

「あんたが泣くだけの真実なら、俺は欲しくなかった」

 低い声だった。
 エリーゼは反射的に顔を上げる。

「泣いてなんて」

「泣いてる」

 短く返される。頬に触れると、指先が濡れた。自分では気づかなかった。
 ディオンは苦く笑う。
 その涙が、ディオンにはたまらなく腹立たしかった。
 彼女を泣かせるのが自分ではなく、過去でもなく、今なお彼女を縛る世界そのものだということが。

「追いかけてくる奴がいるなら逃げ切ればいい。利用したがる奴がいるなら、こっちも切り札を持ってりゃいい。
 俺はそういうやり方しか知らない」

 それはディオンらしい現実だった。

「……私は、みんなを守りたい」

 自分でも驚くほど静かな声だった。ハーロウ卿。屋敷の人たち。子どもたち。
 そしてたぶん、目の前のこの男も。

「逃げるだけじゃ、終わらない」

 ディオンが何も言わずにこちらを見る。

「この書類がある限り、誰かが追ってくる。私が生きている限り、誰かが理由にする」

 そこまで言ってエリーゼは唇を噛んだ。
 今は言葉にならない。けれど心の奥で、小さな火が消えずに燃えている。

「だから……私が終わらせなくちゃ」

 ディオンの眉が寄る。

「終わらせる、って」

 エリーゼは答えない。いや、答えられなかった。
 それが何を意味するのか、自分でもまだ言葉にできなかったからだ。

 ディオンはひとしきり黙っていた。やがて、ひどく静かな声で言う。

「俺はあんたを守りたい」

 その一言に、エリーゼの胸が痛んだ。

「けど、あんたが選ぶものまで盗みたくはない」

――さらってしまいたい!

 衝動をこらえて、ディオンは言った。
 連れ出してしまえば彼女を壊す気がして、ただ見つめることしかできない。

 エリーゼはそっと暖炉へ目を向ける。
 赤い火が、静かに薪を食んでいた。何も問わず、何も裁かず、ただそこにある炎。

 ディオンが何かを言いかけてやめる気配がした。
 沈黙もやさしかった。

――誰も救わない真実なら、私が終わらせる。

 決意だけが、炎のように胸の奥で静かに燃え始めていた。
 その火が、後戻りのできない場所に全てを連れていくとは、ディオンはまだ知らなかった。