舞踏会の熱気が遠い。ハーロウ邸の庭園は夜半の静けさがただよっていた。
エリーゼは奥に置かれた古いベンチへ腰を下ろした。まだ落ち着かない。
レオンハルトに突きつけられた現実。ディオンと踊った時間。
ディオンはその隣へ行こうとして迷う。
近づきたい。けれど近づきすぎればうまく笑えなくなる。
ひとまずベンチの背に片手を置いて立った。
「ディオン」
「ん?」
「あなた派手すぎよ。仮面をつけていても、すぐわかったわ」
一拍置いて、ディオンは笑った。
「あんたいつも俺を目で追ってるもんな」
案の定、エリーゼは目を見開いた。
その顔が可愛くてつい意地悪をしたくなる。
「……っ、ずいぶんな自信ね」
「違うか?」
言葉に詰まる。
違う、と即答したいのにできなかった。舞踏会の間、確かに何度も彼を探した。
黙り込んだ彼女を見て、ディオンは満足そうに口元をゆるめた。
「ほらね」
「思い上がらないで」
「そういうことにしてあげるよ」
ディオンは本心ではもっと追いつめたかった。
だが今夜の彼女は、さっきまで別の男に現実を突きつけられていた。
「星空がきれいだな、王女様」
そんなつもりはなかったが、やさしい声が出ていた。
エリーゼは視線を庭先へ逃がす。夜露を含んだ芝生が白く光っている。
エリーゼの仮面の隙間から見える横顔は白い。
「……ねえ、ディオン」
「うん?」
彼はようやく隣に腰を下ろした。
肩が触れるほどではない。けれど、意識せずにはいられない距離だ。
エリーゼは膝の上で指を組む。きかなくてはいけない。逃げてはいけない問いだった。
「あの書類をどうするつもり?」
ディオンの笑みが薄れた。夜会の光から離れた庭の闇の中で、仮面の奥の瞳が静かに彼を見ている。
「出生証明と、名簿のことか」
「ええ」
エリーゼはまっすぐに頷いた。
「私の出自を証明して、旧王家の財産と継承権に関わるもの。
それから……新政府が犯した罪と、その実行者の名簿」
言葉にするとエリーゼの喉はひりついた。両親の死の真実が、その中にある。
「あなたは、あれをどうするの」
ディオンはすぐには答えなかった。少しだけあごを上げ、夜空を見る。
「正直に言えば、最初はただの面白い火種だと思ってた」
エリーゼは彼を見た。
彼は視線を戻さないまま続ける。
「宝石より厄介で、金より面倒で、でも退屈しのぎには最高だってな」
「まさに怪盗様ね」
「だろ?」
肩をすくめる仕草すら、どこか絵になるからにくらしい。
だが次の声は、軽くなかった。
「でも今は違う」
エリーゼの呼吸はわずかに止まる。
ディオンはまっすぐにエリーゼを見ていた。
「下手に出せば国が燃える。隠したままでも、いずれ誰かが奪いに来る」
「……ええ」
「だから簡単には動かさない」
エリーゼはわずかに肩の力を抜いた。
無責任にばらまくつもりではないらしい。
少し安心していた。
「じゃあ、しまっておくの?」
「必要なら使う」
静かな返事だった。
「ただし、あんたの意志は無視しない」
エリーゼは息をのむ。
そんなことを言う男ではないと思っていた。少なくとも、少し前までのディオンなら。
「そんなの怪盗らしくないわ」
「信じるかどうかは、エリーゼ次第だね」
低い声だった。
彼の目だけはひどく真剣で、エリーゼを困せた。
「俺は、あんたの力になりたい」
その一言が、思った以上に深く刺さった。
彼女の指先がきゅっと縮こまる。そんなことを言われたら、揺らぐに決まっている。
「あなたが……?」
「書類のことも、追っ手のことも、復古派も新政府も」
ディオンはわずかに身を寄せた。
熱が近づいた気がして、エリーゼは息を乱しそうになる。
「ぜんぶ片づける、なんて格好つけたことは言わない。
でもあんたを一人にはさせない、エリーゼ」
本気の声音だった。
危険だ。
エリーゼは唇を噛む。
ディオンのそばにいると、硬く閉じていたものが、少しずつほどけてしまう。王女としてでも、家庭教師としてでもなく、ただの自分として息をしてしまいそうになる。
それは甘くて恐ろしい。
「……あなた、前に予告状をよこしたでしょう」
エリーゼは話を変えた。
「『あなたの一番大切なものをいただきます』って」
「ああ。あれか」
「あれは、どういう意味だったの」
「そのまんまの意味だけど?」
「書類のこと?」
「そうだな、最初は書類の内容のことだった」
最初は。
その言葉に、エリーゼの何かが揺れ動いた。
「じゃあ今は違うの?」
自分でも、どうしてそんなことをきいたのかわからない。問いかけたあとで、遅れて頬が熱くなる。
ディオンは答えなかった。
ただ、仮面の奥の緑の瞳でじっと彼女を見た。
その沈黙は雄弁だった。
耐えきれず、エリーゼは視線をそらす。
「……ずるいわ」
「怪盗だからな」
「それは関係ないでしょう」
ぴしゃりと言い返したのに、声が少し上ずった。
ディオンは楽しそうにやわらかく笑う。
「安心しろよ。無理やり奪う気はない」
「怪盗のセリフじゃないわよ」
「だろう?怪盗らしくないことばっかりだよ」
そう言って彼は手を伸ばしかけた。
頬にかかる髪に触れそうになって――止まる。
エリーゼはその動きを見てしまった。見てしまったせいで、心臓がひどく騒ぐ。
「……ディオン」
「ん?」
「私に、近づかないで」
言って、胸が痛んだ。本心ではない……。
ディオンもすぐにそれを悟った顔をした。軽口で流さない。笑わない。
ただ、静かに彼女を見る。
「近づいたら、どうなる?」
「……わからない」
エリーゼの声はひどく小さかった。
「でも、あなたがそばにいると……私は、おかしくなる」
口にしてしまったそれは、もう取り消せなかった。顔が熱くなる。逃げ出したい。なのに立ち上がることもできない。
ディオンはしばらく黙っていた。
やがて、どうしようもないというような、困った顔で笑う。
「それ、近づくなって言われてあきらめられると思う?」
「あきらめてちょうだい」
「無理だ」
即答だった。
エリーゼは呆れたように息をつく。
一方で、どこか救われた気がして、あたたかかった。
ディオンはベンチにもたれて夜空を仰ぐ。
「今日のところはこれで勘弁してあげるよ」
意外な言葉に、エリーゼは一瞬きょとんとした。
「……聞き分けがいいのね」
「褒めてくれていいぜ」
「褒められることじゃないでしょ」
「たしかにね?」
くすりと、今度はエリーゼのほうが先に笑った。ほんの小さな笑いだった。
けれど、その音を聞いたディオンの目元が、優しく形を崩した。
まただ。
こんなふうに、すぐ心を溶かされてしまう。
夜風が、二人のあいだをそっと吹き抜ける。触れ合うほど近くはない。けれど遠くもない。
今の二人には、それが限界で、それが精一杯だった。
「エリーゼ」
「なに」
「そのうち、あんたの“一番大事なもの”が何か、ちゃんと教えてくれよ」
反射的に顔を上げると、ディオンは不敵な顔をしていた。
目の奥に、冗談では済まない熱がある。
エリーゼは言い返そうとして、やめた。代わりに視線を伏せる。
「……もうとっくに知っているくせに」
小さな反撃にディオンが息をのんだ。
やり返せた。
そう思ったのもつかの間。彼の視線が真剣になるものだから、エリーゼにも甘い動揺が広がっていく。
「それ以上言うと、今夜は約束をやぶるかもしれない」
「どの約束?」
「これ以上近づかないってやつ」
エリーゼはあわてて口をつぐんだ。
ディオンはいたずらが成功した子供のような顔をしている。
遠くで、舞踏会の音楽がまた変わった。
今夜はまだ終わらない。
この庭のベンチで交わした言葉は、きっと、なかったことにはできない。
エリーゼは知ってしまった。彼がそばにいるだけで、自分の世界は揺らぐ。
そしてたぶん、それを、嬉しいと思ってしまっている。
静けさは、突然やぶられた。ホールの放送設備から、緊迫した男の声が聞こえる。
エリーゼは奥に置かれた古いベンチへ腰を下ろした。まだ落ち着かない。
レオンハルトに突きつけられた現実。ディオンと踊った時間。
ディオンはその隣へ行こうとして迷う。
近づきたい。けれど近づきすぎればうまく笑えなくなる。
ひとまずベンチの背に片手を置いて立った。
「ディオン」
「ん?」
「あなた派手すぎよ。仮面をつけていても、すぐわかったわ」
一拍置いて、ディオンは笑った。
「あんたいつも俺を目で追ってるもんな」
案の定、エリーゼは目を見開いた。
その顔が可愛くてつい意地悪をしたくなる。
「……っ、ずいぶんな自信ね」
「違うか?」
言葉に詰まる。
違う、と即答したいのにできなかった。舞踏会の間、確かに何度も彼を探した。
黙り込んだ彼女を見て、ディオンは満足そうに口元をゆるめた。
「ほらね」
「思い上がらないで」
「そういうことにしてあげるよ」
ディオンは本心ではもっと追いつめたかった。
だが今夜の彼女は、さっきまで別の男に現実を突きつけられていた。
「星空がきれいだな、王女様」
そんなつもりはなかったが、やさしい声が出ていた。
エリーゼは視線を庭先へ逃がす。夜露を含んだ芝生が白く光っている。
エリーゼの仮面の隙間から見える横顔は白い。
「……ねえ、ディオン」
「うん?」
彼はようやく隣に腰を下ろした。
肩が触れるほどではない。けれど、意識せずにはいられない距離だ。
エリーゼは膝の上で指を組む。きかなくてはいけない。逃げてはいけない問いだった。
「あの書類をどうするつもり?」
ディオンの笑みが薄れた。夜会の光から離れた庭の闇の中で、仮面の奥の瞳が静かに彼を見ている。
「出生証明と、名簿のことか」
「ええ」
エリーゼはまっすぐに頷いた。
「私の出自を証明して、旧王家の財産と継承権に関わるもの。
それから……新政府が犯した罪と、その実行者の名簿」
言葉にするとエリーゼの喉はひりついた。両親の死の真実が、その中にある。
「あなたは、あれをどうするの」
ディオンはすぐには答えなかった。少しだけあごを上げ、夜空を見る。
「正直に言えば、最初はただの面白い火種だと思ってた」
エリーゼは彼を見た。
彼は視線を戻さないまま続ける。
「宝石より厄介で、金より面倒で、でも退屈しのぎには最高だってな」
「まさに怪盗様ね」
「だろ?」
肩をすくめる仕草すら、どこか絵になるからにくらしい。
だが次の声は、軽くなかった。
「でも今は違う」
エリーゼの呼吸はわずかに止まる。
ディオンはまっすぐにエリーゼを見ていた。
「下手に出せば国が燃える。隠したままでも、いずれ誰かが奪いに来る」
「……ええ」
「だから簡単には動かさない」
エリーゼはわずかに肩の力を抜いた。
無責任にばらまくつもりではないらしい。
少し安心していた。
「じゃあ、しまっておくの?」
「必要なら使う」
静かな返事だった。
「ただし、あんたの意志は無視しない」
エリーゼは息をのむ。
そんなことを言う男ではないと思っていた。少なくとも、少し前までのディオンなら。
「そんなの怪盗らしくないわ」
「信じるかどうかは、エリーゼ次第だね」
低い声だった。
彼の目だけはひどく真剣で、エリーゼを困せた。
「俺は、あんたの力になりたい」
その一言が、思った以上に深く刺さった。
彼女の指先がきゅっと縮こまる。そんなことを言われたら、揺らぐに決まっている。
「あなたが……?」
「書類のことも、追っ手のことも、復古派も新政府も」
ディオンはわずかに身を寄せた。
熱が近づいた気がして、エリーゼは息を乱しそうになる。
「ぜんぶ片づける、なんて格好つけたことは言わない。
でもあんたを一人にはさせない、エリーゼ」
本気の声音だった。
危険だ。
エリーゼは唇を噛む。
ディオンのそばにいると、硬く閉じていたものが、少しずつほどけてしまう。王女としてでも、家庭教師としてでもなく、ただの自分として息をしてしまいそうになる。
それは甘くて恐ろしい。
「……あなた、前に予告状をよこしたでしょう」
エリーゼは話を変えた。
「『あなたの一番大切なものをいただきます』って」
「ああ。あれか」
「あれは、どういう意味だったの」
「そのまんまの意味だけど?」
「書類のこと?」
「そうだな、最初は書類の内容のことだった」
最初は。
その言葉に、エリーゼの何かが揺れ動いた。
「じゃあ今は違うの?」
自分でも、どうしてそんなことをきいたのかわからない。問いかけたあとで、遅れて頬が熱くなる。
ディオンは答えなかった。
ただ、仮面の奥の緑の瞳でじっと彼女を見た。
その沈黙は雄弁だった。
耐えきれず、エリーゼは視線をそらす。
「……ずるいわ」
「怪盗だからな」
「それは関係ないでしょう」
ぴしゃりと言い返したのに、声が少し上ずった。
ディオンは楽しそうにやわらかく笑う。
「安心しろよ。無理やり奪う気はない」
「怪盗のセリフじゃないわよ」
「だろう?怪盗らしくないことばっかりだよ」
そう言って彼は手を伸ばしかけた。
頬にかかる髪に触れそうになって――止まる。
エリーゼはその動きを見てしまった。見てしまったせいで、心臓がひどく騒ぐ。
「……ディオン」
「ん?」
「私に、近づかないで」
言って、胸が痛んだ。本心ではない……。
ディオンもすぐにそれを悟った顔をした。軽口で流さない。笑わない。
ただ、静かに彼女を見る。
「近づいたら、どうなる?」
「……わからない」
エリーゼの声はひどく小さかった。
「でも、あなたがそばにいると……私は、おかしくなる」
口にしてしまったそれは、もう取り消せなかった。顔が熱くなる。逃げ出したい。なのに立ち上がることもできない。
ディオンはしばらく黙っていた。
やがて、どうしようもないというような、困った顔で笑う。
「それ、近づくなって言われてあきらめられると思う?」
「あきらめてちょうだい」
「無理だ」
即答だった。
エリーゼは呆れたように息をつく。
一方で、どこか救われた気がして、あたたかかった。
ディオンはベンチにもたれて夜空を仰ぐ。
「今日のところはこれで勘弁してあげるよ」
意外な言葉に、エリーゼは一瞬きょとんとした。
「……聞き分けがいいのね」
「褒めてくれていいぜ」
「褒められることじゃないでしょ」
「たしかにね?」
くすりと、今度はエリーゼのほうが先に笑った。ほんの小さな笑いだった。
けれど、その音を聞いたディオンの目元が、優しく形を崩した。
まただ。
こんなふうに、すぐ心を溶かされてしまう。
夜風が、二人のあいだをそっと吹き抜ける。触れ合うほど近くはない。けれど遠くもない。
今の二人には、それが限界で、それが精一杯だった。
「エリーゼ」
「なに」
「そのうち、あんたの“一番大事なもの”が何か、ちゃんと教えてくれよ」
反射的に顔を上げると、ディオンは不敵な顔をしていた。
目の奥に、冗談では済まない熱がある。
エリーゼは言い返そうとして、やめた。代わりに視線を伏せる。
「……もうとっくに知っているくせに」
小さな反撃にディオンが息をのんだ。
やり返せた。
そう思ったのもつかの間。彼の視線が真剣になるものだから、エリーゼにも甘い動揺が広がっていく。
「それ以上言うと、今夜は約束をやぶるかもしれない」
「どの約束?」
「これ以上近づかないってやつ」
エリーゼはあわてて口をつぐんだ。
ディオンはいたずらが成功した子供のような顔をしている。
遠くで、舞踏会の音楽がまた変わった。
今夜はまだ終わらない。
この庭のベンチで交わした言葉は、きっと、なかったことにはできない。
エリーゼは知ってしまった。彼がそばにいるだけで、自分の世界は揺らぐ。
そしてたぶん、それを、嬉しいと思ってしまっている。
静けさは、突然やぶられた。ホールの放送設備から、緊迫した男の声が聞こえる。

