絢爛な仮面をつけた男が暗がりから姿を現した。
ディオン・オブライエン。
二人の間に割って入るように立ちふさがった。
新政府軍、戦略参謀本部、少佐、レオンハルト・クロサキ。
仮面越しでもわかる。隙がなく、頭が切れ、自分が他人を追い詰めていると解っていて、ためらわない。
テラスの暗がりから様子を見た瞬間、ディオンは舌打ちしたくなった。
今、エリーゼは追いつめられている。
なのにレオンハルトは、なぐさめるでもなく、逃がすでもなく、檻の形をした未来を差し出している。
――一発ならいいんじゃないか!?
エリーゼの指先がわずかにこわばるのを見た時には、言葉が口をついていた。
レオンハルトの視線がディオンを値踏みする。
「なんだお前は」
だがそんなことはどうでもいい。
エリーゼを、これ以上その言葉の中に立たせておきたくなかった。
「さあ。少なくとも、あんたよりは彼女を退屈させない男かな」
「怪しい男ではあるが」
「光栄だね」
「このような人種は理解している」
少佐は冷ややかに言った。
「火のついた場所にだけ現れて、燃え上がる瞬間だけを愛でる。責任を取る気もなく、人の人生に出口のない逃避をすすめる類いだ」
ディオンはレオンハルトを強く見た。
「解ったことばかり言いやがる」
「事実です」
レオンハルトは感情を荒げない。
「あなたは彼女を一時、息のつける場所へ連れ出すことはできるでしょう。だが、その先は?
追っ手も、書類の価値も、王女という血も消えない。あなたは世界の外へ逃がすことはできても、世界そのものを黙らせることはできない」
正しい。
正しいくせに、彼女の苦しさまで利用して檻に押し込めようとする。
背後からエリーゼの声がした。
「レオンハルト少佐。ご忠告は理解しました」
ディオンのすぐ後ろで姿勢を正す。
「ですが、私がどう動くかは、あなたが決めることではありません」
その声を聞いて、胸の奥がひどく熱くなった。
レオンハルトも初めて沈黙した。
そうだ。
この女は、救われるだけの女じゃない。
危ういほど気高く、自分の足で立とうとするから、目が離せない。
短い沈黙ののち彼は言う。
「……ええ。その通りだ」
素直な肯定だった。
「あなたの返答を待ちます」
彼は内ポケットから一枚のカードを取り出し、エリーゼへ差し出す。
「現実が理想を食いやぶるとき、人は選ばざるを得ない。そのときは、連絡を」
エリーゼが受け取ると、レオンハルトは一礼した。
「今夜はこれでひきましょう」
ディオンへ視線を流す。
「このような男は嫌いではない。戦場でなければ、ですが」
「そりゃどうも」
「だが彼女には向かない」
――最後まで気に食わねえ!
レオンハルトは舞踏会の喧騒の中へ消えていった。
残された静寂の中で、エリーゼは小さく息をついた。
自分の周囲を取り巻く網が、音もなく狭まっているのを肌で感じる。王女としての血統、新政府の闇、復古派の執念。すべてが、自分を逃がすまいとしていた。
エリーゼの仮面の奥から見える横顔が、ひどく白く見える。
だからディオンは、考えるより早く手を差し出していた。
「踊ろうか、エリーゼ」
彼女が目を瞬かせている。
「……今、この状況で?」
「こういう時こそだろ」
ディオンは仮面の奥で笑った。
ホールから流れてくるワルツの旋律が、夜気をやわらかく震わせている。
本当はただ、連れ出したかった。
「ここにいたら、またろくでもない男につかまる」
「あなたも十分ろくでもないじゃない」
そう言って、エリーゼもようやく少しだけ笑えた。
「ひどいな。俺は今夜、あんたを助けに来た騎士様だぜ?」
エリーゼがほぐれたことが、たまらなく嬉しい。
ディオンはもう一度、まっすぐに手を差し出した。
「おいで」
エリーゼはためらっていた。
だが、このまま立ち尽くしていても、レオンハルトの言葉がいつまでも胸の奥を刺し続ける気がした。
一瞬のあと、そっと手を重ねる。ディオンの指が、逃がさないよう、でもおびえさせないように、優しく包んだ。
ホールへ戻れば、ワルツの旋律が二人を包んだ。
片手に彼女の手。もう片方の手を腰へ回す。
細い。
ディオンは息を飲みそうになる。
思っていた以上に細く、壊しそうだ。触れていいのかと迷いながらも、二度と離したくないと強く思う。
「緊張してる?」
「していないわ」
「嘘だな」
少しだけ身を寄せれば、彼女の呼吸が乱れるのがわかる。仮面の下で、たぶん頬も熱を持っている。
「さっきから心臓の音が聞こえそうだ」
「不遜な発言ね?」
ディオンはこみ上げる愉悦を喉の奥で転がした。
くるりとターンすると、ドレスの裾がふわりと花びらのように広がる。
「少なくとも今は、誰もあんたに触れられない」
低く言う。
「俺がこうしてるあいだはね」
その目に、さっきまでの冷静さとは違う揺らぎがあるのを見て、ディオンの胸の奥がうずいた。
「……知っていたの?名簿のこと」
「ああ、盗んだものの中身くらい、確認するさ」
「何も言わなかったのはどうして?」
「言ったところで、あんたは一人で抱え込むだろ」
言い当てられて、エリーゼは返す言葉を失った。
ステップは途切れない。
音楽に合わせて身体を預けるたび、ほんのひとときだけ現実が遠のいていく。
「怖いなら、怖いって言えばいい」
ディオンの声は驚くほどやわらかかった。
エリーゼは唇を引き結ぶ。
言えるはずがない。そんな弱さを見せるわけにはいかない。
なのに、彼の手はあまりにあたたかかった。
「……今夜だけは」
ようやくこぼれた声は、ひどく小さかった。
「私を、離さないで」
ディオンの目が、わずかに見開かれる。
次の瞬間、彼の表情は崩れた。いつもの不敵な笑みではない。どうしようもなく愛しいものを見る顔だった。
「いいよ」
腰を抱く手に、ほんの少しだけ力をこめる。
「曲が終わっても、そのあとも。あんたが嫌だと言うまで、離してやらない」
ワルツの渦の中で、エリーゼはそっと目を伏せた。
仮面の下に隠した頬が、少しだけ熱い。
奪って、消えて、二度と触れさせないのが怪盗のやり方だ。
盗むのは得意だ。
けれどこの女を無理やり奪うことは、ひどく野暮に思えた。
どうしようもなく、欲しいのに。
ディオン・オブライエン。
二人の間に割って入るように立ちふさがった。
新政府軍、戦略参謀本部、少佐、レオンハルト・クロサキ。
仮面越しでもわかる。隙がなく、頭が切れ、自分が他人を追い詰めていると解っていて、ためらわない。
テラスの暗がりから様子を見た瞬間、ディオンは舌打ちしたくなった。
今、エリーゼは追いつめられている。
なのにレオンハルトは、なぐさめるでもなく、逃がすでもなく、檻の形をした未来を差し出している。
――一発ならいいんじゃないか!?
エリーゼの指先がわずかにこわばるのを見た時には、言葉が口をついていた。
レオンハルトの視線がディオンを値踏みする。
「なんだお前は」
だがそんなことはどうでもいい。
エリーゼを、これ以上その言葉の中に立たせておきたくなかった。
「さあ。少なくとも、あんたよりは彼女を退屈させない男かな」
「怪しい男ではあるが」
「光栄だね」
「このような人種は理解している」
少佐は冷ややかに言った。
「火のついた場所にだけ現れて、燃え上がる瞬間だけを愛でる。責任を取る気もなく、人の人生に出口のない逃避をすすめる類いだ」
ディオンはレオンハルトを強く見た。
「解ったことばかり言いやがる」
「事実です」
レオンハルトは感情を荒げない。
「あなたは彼女を一時、息のつける場所へ連れ出すことはできるでしょう。だが、その先は?
追っ手も、書類の価値も、王女という血も消えない。あなたは世界の外へ逃がすことはできても、世界そのものを黙らせることはできない」
正しい。
正しいくせに、彼女の苦しさまで利用して檻に押し込めようとする。
背後からエリーゼの声がした。
「レオンハルト少佐。ご忠告は理解しました」
ディオンのすぐ後ろで姿勢を正す。
「ですが、私がどう動くかは、あなたが決めることではありません」
その声を聞いて、胸の奥がひどく熱くなった。
レオンハルトも初めて沈黙した。
そうだ。
この女は、救われるだけの女じゃない。
危ういほど気高く、自分の足で立とうとするから、目が離せない。
短い沈黙ののち彼は言う。
「……ええ。その通りだ」
素直な肯定だった。
「あなたの返答を待ちます」
彼は内ポケットから一枚のカードを取り出し、エリーゼへ差し出す。
「現実が理想を食いやぶるとき、人は選ばざるを得ない。そのときは、連絡を」
エリーゼが受け取ると、レオンハルトは一礼した。
「今夜はこれでひきましょう」
ディオンへ視線を流す。
「このような男は嫌いではない。戦場でなければ、ですが」
「そりゃどうも」
「だが彼女には向かない」
――最後まで気に食わねえ!
レオンハルトは舞踏会の喧騒の中へ消えていった。
残された静寂の中で、エリーゼは小さく息をついた。
自分の周囲を取り巻く網が、音もなく狭まっているのを肌で感じる。王女としての血統、新政府の闇、復古派の執念。すべてが、自分を逃がすまいとしていた。
エリーゼの仮面の奥から見える横顔が、ひどく白く見える。
だからディオンは、考えるより早く手を差し出していた。
「踊ろうか、エリーゼ」
彼女が目を瞬かせている。
「……今、この状況で?」
「こういう時こそだろ」
ディオンは仮面の奥で笑った。
ホールから流れてくるワルツの旋律が、夜気をやわらかく震わせている。
本当はただ、連れ出したかった。
「ここにいたら、またろくでもない男につかまる」
「あなたも十分ろくでもないじゃない」
そう言って、エリーゼもようやく少しだけ笑えた。
「ひどいな。俺は今夜、あんたを助けに来た騎士様だぜ?」
エリーゼがほぐれたことが、たまらなく嬉しい。
ディオンはもう一度、まっすぐに手を差し出した。
「おいで」
エリーゼはためらっていた。
だが、このまま立ち尽くしていても、レオンハルトの言葉がいつまでも胸の奥を刺し続ける気がした。
一瞬のあと、そっと手を重ねる。ディオンの指が、逃がさないよう、でもおびえさせないように、優しく包んだ。
ホールへ戻れば、ワルツの旋律が二人を包んだ。
片手に彼女の手。もう片方の手を腰へ回す。
細い。
ディオンは息を飲みそうになる。
思っていた以上に細く、壊しそうだ。触れていいのかと迷いながらも、二度と離したくないと強く思う。
「緊張してる?」
「していないわ」
「嘘だな」
少しだけ身を寄せれば、彼女の呼吸が乱れるのがわかる。仮面の下で、たぶん頬も熱を持っている。
「さっきから心臓の音が聞こえそうだ」
「不遜な発言ね?」
ディオンはこみ上げる愉悦を喉の奥で転がした。
くるりとターンすると、ドレスの裾がふわりと花びらのように広がる。
「少なくとも今は、誰もあんたに触れられない」
低く言う。
「俺がこうしてるあいだはね」
その目に、さっきまでの冷静さとは違う揺らぎがあるのを見て、ディオンの胸の奥がうずいた。
「……知っていたの?名簿のこと」
「ああ、盗んだものの中身くらい、確認するさ」
「何も言わなかったのはどうして?」
「言ったところで、あんたは一人で抱え込むだろ」
言い当てられて、エリーゼは返す言葉を失った。
ステップは途切れない。
音楽に合わせて身体を預けるたび、ほんのひとときだけ現実が遠のいていく。
「怖いなら、怖いって言えばいい」
ディオンの声は驚くほどやわらかかった。
エリーゼは唇を引き結ぶ。
言えるはずがない。そんな弱さを見せるわけにはいかない。
なのに、彼の手はあまりにあたたかかった。
「……今夜だけは」
ようやくこぼれた声は、ひどく小さかった。
「私を、離さないで」
ディオンの目が、わずかに見開かれる。
次の瞬間、彼の表情は崩れた。いつもの不敵な笑みではない。どうしようもなく愛しいものを見る顔だった。
「いいよ」
腰を抱く手に、ほんの少しだけ力をこめる。
「曲が終わっても、そのあとも。あんたが嫌だと言うまで、離してやらない」
ワルツの渦の中で、エリーゼはそっと目を伏せた。
仮面の下に隠した頬が、少しだけ熱い。
奪って、消えて、二度と触れさせないのが怪盗のやり方だ。
盗むのは得意だ。
けれどこの女を無理やり奪うことは、ひどく野暮に思えた。
どうしようもなく、欲しいのに。

