怪盗は二度盗む

 年に一度の謝肉祭期間。磨き抜かれた大理石の床に、シャンデリアの光が砕けて落ちる。
 羽飾りや宝石を散りばめた仮面をつけた紳士淑女たちが、ワルツの旋律に笑い声を重ねていた。

 華やかな喧騒から離れたテラスは、ひどく静かだった。ようやく息をつける――テラスへ出たエリーゼの前に、ひとつの影が差す。

「お待ちしていました、エリーゼ様」

 銀の仮面をつけた男が、ゆっくりと振り返った。最初からここで待っていたとわかる落ち着きだった。

「……どなた?」

 警戒を隠さず問うと、男は無機質に名乗った。

「新政府軍、戦略参謀本部、少佐、レオンハルト・クロサキです」

 その名に、エリーゼの背筋が冷える。冷酷。出世頭。新政府派の中でも、最も油断ならない男のひとり。噂だけなら聞いていた。こんな形で対面するとは思わなかったが。

「お名前は耳にしております。お若くて冴えた方でいらっしゃると」

「光栄です」

 濃く健康的な黒い肌に、意志の強い眉。黒髪と軍服の金飾りが、鍛えられた体躯によく映えている。
 レオンハルトは前置きもなく言った。

「契約結婚を提案しに来ました」

 あまりに唐突で、かえってエリーゼは表情を変えなかった。

「初対面のあいさつには、無粋ね」

「ええ。口説きに来たわけではありません」

 レオンハルトは揺るぎない。

「保護と統制の話です。あなたを巡る状況は、もう個人で処理できる段階を過ぎている」

「統制?」

「あなたも理解しているはずだ」

 男は一歩近づく。無遠慮ではないが、退路をはかったうえで距離をつめてきたのがわかる。

「あなたが生きているという事実だけで、旧王家の資産、王位継承権、復古派の大義名分が動く。
 加えて、ハーロウ家が秘匿してきた書類がある」

 ここで初めて、エリーゼの呼吸が浅くなった。レオンハルトはそれを見逃さない。

「私の妻となれば、あなたにもハーロウ家にも正式な庇護を与えられる。逆に今のままでは守りきれません」

「それは求婚ではなく、包囲では?」

「違いがありますか」

 淡々と返され、エリーゼは言葉に詰まった。
 この男は甘い言葉であざむかない。欲しいものを欲しいと言い、そのための条件を並べる。そこにためらいも羞恥もない。

「率直ね」

「時間が惜しいので」

 仮面越しのその目には、焦りがあるようだった。

「あなたは自分が表に出なければ均衡が保たれると考えている。誰にも決定的な口実を与えない、と」

 エリーゼの指先がこわばった。見抜かれている。

「……立派な推察ですこと」

「推察ではない。事実でしょう」

 静かなまま、容赦がない。

「そのやり方は長くは続かない。あなたは自分を犠牲にすることで場をつなぐつもりでしょうが、すでに周囲が巻き込まれ始めている」

 ハーロウ卿。ハーロウ家の人々。使用人たち。
 子どもたち。
 エリーゼの内で、その言葉は重く沈んだ。

「あなたに必要なのは自由ではない。安全と管理です」

 エリーゼは眉を寄せた。

「それが現実だと?」

「理想論より役に立つ」

 迷いなく言い切る声音が、腹立たしい。

「あなたとハーロウ家が持っているあの書類」

 エリーゼの心臓が強く脈打った。

「中身をご存じですか」

「……出生証明でしょう」

「それだけではない。
 あれは、政変の際に新政府が実行した粛清と虐殺、その実行者の記録でもある」

 頭の中で何かが凍りついた。
 両親が殺されたあの夜。遠い悪夢が、名前を持って迫ってくる。
 呼吸が詰まり、エリーゼは胸元を押さえた。

「あなたのご両親がどう死んだのか。その証拠が、あの中にある」

 残酷に告げる。愉しんでいる気配はない。

「踏み込みすぎよ。あまりにも不愉快だわ」

 かろうじて返すとレオンハルトは目を伏せた。

「承知しています」

 その返答は意外にまっすぐだった。

「ですが、あなたには知る義務がある。知らぬまま利用されるには、あの書類は危険すぎる」

 エリーゼは彼を見つめ返す。
 有能で、冷静で、傲慢。けれど少なくとも、嘘はついていない。

「……それで?その危険すぎる書類を、あなたは私を妻にして管理したいと?」

「管理したいのは書類だけではありません」

 レオンハルトは即答した。

「あなた自身が危険すぎる」

 一瞬、夜気が止まったように思えた。

「血統があるからではない。あなたはその血と財産におぼれず、感情に流されず、民を見て判断できる人です」

 舞踏会のワルツが小さく聞こえる。

「あなたは象徴として美しいだけではない。王位に相応しい理性まで持っている。だから放置できない」

 賛辞であると同時に宣告だった。彼は認めるからこそ、閉じ込める、と言っていた。

「私のもとへ来てください」

 レオンハルトは静かに言う。

「自由は約束できない。ですが、安全は約束できる」

 甘い誘いではなかった。檻の鍵を差し出しながら、「この中なら生きられる」と告げる声だ。

「こばめば?」

「あなただけでは済まないでしょう」

 脅しだった。現実を知る者の断言だ。

「ハーロウ卿も、屋敷の者も、もう無関係ではいられない。あなたも理解しているはずだ」

 理解している。だから言い返せない。
 レオンハルトがさらに手を伸ばしかけた、そのときだった。

「――ずいぶんと息の詰まる求婚だな」
 軽やかな声がするどく場を裂いた。