怪盗は二度盗む

 まだ日の昇りきらない早朝、カーテンをわずかに開けたエリーゼは、下の通りに黒塗りの車を見つけた。中に人影もある。

「監視……?」

 新政府派か、あるいは王政復古派か。
 胸の奥を緊張が走る。
 それでもエリーゼは鏡の前に立ち、自分の頬を両手で軽く持ち上げ、優しい笑顔を丁寧に作った。

――大丈夫。今日もまだ、私は先生でいられる。

​ サイドテーブルの上には、古い絵本と一枚のバースデーカードが置かれていた。何度も読み返した宝物だ。

『お誕生日おめでとう、愛しいエリーゼへ 父・母より』

 彼女はカードを木箱にしまい、そっと鍵をかけた。

​
​ その頃ディオンは、警備の制服姿で、通りの車に近づいていた。

「おい。ここは私有地だ。職質されたくなきゃ消えな」

​ 運転席の男が逃げるように車を発進させる。それを見送ると、ディオンは何気ない顔で屋敷を見上げた。
 エリーゼの部屋の窓。

​ ――らしくないなあ。

 面倒事には首を突っ込まない主義だった。なのに朝っぱらから監視を追い払っている。
 盗み出した紙の束よりも、あの女が無理に作る笑顔が、よほど気にかかる。


 昼下がり、ハーロウ家の品の良い応接室を男が訪れた。白髪混じりでかつての気品をとどめた紳士だ。
 その男はエリーゼの姿を見るなり膝をつき、両手に持った古びた剣をうやうやしく差し出した。

「これをお納めください。旧王家の栄光の象徴にして、あなた様の父君が愛用なさった剣にございます」

 男の声は震えていた。

「どうか、玉座へお戻りください。民はあなたを待っております」

 涙ながらの訴えは本物だった。だから、エリーゼは静かに首をふるしかなかった。

「顔を上げてください。私は家庭教師です」

「いいえ、血統は消えませぬ!」

 男は顔を上げ必死に訴えた。

「あなた様を旗印に掲げれば、我らに正義が――」

「正義?」

 エリーゼの声が鋭く落ち、男は息を呑んだ。

「私が王位継承者を名乗れば、どうなるかご存知でしょう」

 彼女はまっすぐに男を見つめる。

「王政復古派と新政府派の対立は決定的になり、街にはまた血が流れる。
 今日を生きている人たちの暮らしが失われます」

 部屋の空気が重く沈む。

「民が望んでいるのは、復讐ではありません。
 今日の平穏と、明日を生きる生活です」

 エリーゼは揺るぎなく言い切る。

「私が今のまま“死んだ人間”として影でいれば、どちらの陣営も決定的な大義名分を持てない。
 ……それが、今の私の役目です」

 正しい。正しすぎる。
 正しさの分だけ、忠臣の心を深く裂いた。

「そんな……そんなご自身を押し殺す生き方が……!」

 絞り出す声。
 彼女はただ静かに退室をうながした。扉が閉まる。
 老人の涙は本物だった。だからこそ、拒む言葉はエリーゼの内側にも痛みをもたらした。

 張り詰めていた何かがほどけ、エリーゼはソファの背もたれに手をつく。
 泣いてはいけない。今はまだ。ゆっくりと三つ数えて、いつもの顔を取り戻そうとした――その時だった。

​「また一人で背負い込んでるな、王女様」

​ よく通る声が静寂をやぶる。
 エリーゼが振り返ると、窓枠にディオンがいた。

「どこから入ってきてるの」

​「窓だよ」

 当たり前に言うと彼は部屋へ降り立つ。そのまままっすぐ、エリーゼの前まで歩み寄った。

「俺は金も権力も欲しくない。そんなもの欲しけりゃとっくに盗ってる」

​ 低い声だった。冗談めいた響きはどこにもない。

​「俺はあんたの本当の心が欲しい」

​ エリーゼの息が止まる。

「本当の心?」

​「逃げよう、エリーゼ」

​ ディオンは手を差し出した。
 この気高い女を縛りつけているものを、全て引っぺがしてしまいたい。そんな衝動があふれた手だった。

​「俺と一緒にどこへでも行こう」

 声は切実だった。

「世界中どこだっていい。俺が連れていく。二度とこんな顔はさせない」

 エリーゼの胸が大きく揺れた。指先が、わずかに動きかける。
 その手を取れれば、どれほど。そう思ってしまった。
 エリーゼの視線が、ディオンの指先から緑の目へとゆっくり動く。

「逃げたあと、私は何として生きるの?」

「何者でなくていい。ただ、あんたでいればいい」

 ひどく甘くて残酷な言葉だった。
 王女でもなく、象徴でもなく。
 誰かの期待を背負う存在ではなく。
 そんなふうに生きることを、彼は簡単に差し出してくる。

​「自由な人ね、ディオン」

​ かすかに微笑みながら、彼女は差し出された手から目をそらした。

​「私はここで、私の役割をはたさなくてはいけないの」

​ ディオンはしばらく黙っていた。やがて、どうしようもないものを見るように、ふっと笑う。

「……頑固なところまで、嫌になるくらい綺麗だな、あんたは」

 それ以上、彼は踏み込まなかった。

 けれどその静けさの下で、もう何かが確かに変わりはじめている。

 そして次に彼が差し出すのは、逃走の誘いではなく、もっと危険で甘い“契約”になるのだった。