怪盗は二度盗む

 朝のニューヨークは、石でできた巨大な獣みたいだった。
 高層の建物が切り取った空は青く、街路樹の葉のあいだから差しこむ光は冷たく澄んでいる。人々の雑踏。地下鉄の吐き出す風。
 怪盗3Xにとって、嫌いな街ではない。むしろ、好物の部類だった。

 摩天楼の谷間、豪奢な美術館は人であふれていた。
 ディオンはガラスケースの前に立っている。ケースの中では、金と群青の細工がほどこされた巨大な祭器が、鈍く光っていた。厳重な警備、複雑なセキュリティシステム。
 この街で今もっとも注目を集めている特別展の目玉。

「――おい。おい!……おいってば、聞いてんのか」

 情報屋の男はディオンをひじでつついた。

「聞いてる聞いてる」

 祭器の表面に刻まれた細かな文様を見ているつもりで、その実、ディオンの心はあの宿の前に戻っていた。
 あの小さな宿。

 エリーゼと別れた、その翌日。
 ディオンは、宿の前の道に立っていた。
 立ってしまっていた。信じられないほど、あっけなく。

 昨日の朝、あれほど格好つけて別れたのに。
 「たまに会いに行くよ」なんて言ったくせに。
 その【たまに】が、まさか翌日になるとは思っていなかった。

「……顔、見せられねえよな」

 かっこ悪すぎる。あまりにもかっこ悪すぎた。
 怪盗3Xが、別れた翌日に会いに来るなんて!

 だから扉を開けず、ただ宿の前を三往復した。
 通行人に怪しまれ、犬に吠えられ、子どもに指をさされても、それでも扉を開けられなかった。

 結局あの日は、何もできずに帰った。


「さっきから何回呼んだと思ってる?」

「三回?」

「七回」

「惜しい」

「何が惜しいんだよ、お前、具合でも悪いのか」

 ディオンは笑った。

「東側の通気口、一階監視カメラの死角……」

「その次だっての!警備員のシフト交代の時間だっつってんだろ」

「ん?ああ。……何時だっけ?」

 言いながら、脳裏に浮かんでくるのは別のものだった。

 白い朝靄。
 停車場。
 自分を見送るエリーゼの顔。

『私は怪盗じゃないから、ディオンを盗めない』

 内臓をきれいに持っていかれたみたいだった。

 その目は、目の前の絵を見ていなかった。

「この絵、どう思う?」

「ん?」

「だから、この絵」

 巨大な海の絵だった。青い海。遠くに白い船。空には薄い雲。日の光が海面に細く伸びている。

「……海」

 ディオンはつぶやいた。

「そう。海」

「……」

 エリーゼが言っていた。
 海を見たい。
 いつか。
 自分と。

「おい?」

「……綺麗だな」

「だろ?」

「ああ」

 ディオンは絵を見つめた。

「……本物のほうが綺麗だろうな」

「いや、見たことあるだろ?」

「あるけど」

 そこで言葉を切る。

「……誰と見るかで違うだろ」

「お前……おかしいぞ」

「……」

 ディオンは展示室を出た。
 情報屋が準備し、怪盗が大金を払って買い取った、美術展会場の図面を受け取っていないことにも、気づいていない。

 廊下の窓からは、ニューヨークの摩天楼が見下ろしていた。どこまでも高く、冷たく、自由な風が吹いているはずなのに、すべてが灰色だ。
 こんな街で世界的な美術展を前にして、怪盗3Xは完全に敗北していた。

 たったひとりの女に。

 ださい。死ぬほどださい。

 けれど、敗北した悔しさより会いたさのほうが、もうずっとひどかった。


 そして二週間目。
 ディオンはついに、降参した。

「……無理」

 朝。ホテルのベッドに体を投げ出したまま、宣言する。

「もう無理だ」

 誰もいない部屋で。

「二週間って、こんな長かったっけ?」

 答える人はいない。

「長すぎるだろ」

 ディオンは立ち上がり、荷物をまとめる。服を詰める。
 最後に、土産を入れた。

「……行こう」

 決めた瞬間、胸が軽くなった。

「会いたいなら、会いに行けばいい」

 それだけのことだった。

「……俺は、あんたに会いたい」

 ディオンは笑った。

「だから行く」

 飛行機の窓から見下ろす雲の海を、ディオンは呪った。 だが口元は笑っていた。
 獅鷲の城。地図の上でしか知らない場所。エリーゼが今、いるはずの場所。二週間も我慢した。いや、我慢などしていなかった。ただ遅れただけだ。

「今度は、ちゃんと入り口から入る」

 そう誓いながら、ディオンは目を閉じた。
 夢の中で、エリーゼが笑っていた。


つづく