宿は街道から少し外れた、小さな木造の建物だった。
壁には風雨にさらされた跡があり、看板の文字も半ばかすれている。
簡単な偽名を帳面に書いて、二人は二階の部屋へ通された。
部屋は狭かった。
窓がひとつ、粗末な寝台がひとつ、椅子が二脚、小さな卓がひとつ。
贅沢とはほど遠い。
だが、今の二人にはこの狭さがかえって都合よく思えた。広ければ、こんなふうに互いの気配を濃く感じることもなかっただろうから。
扉が閉まると、エリーゼはようやく肺の奥まで息を吸い込めた気がした。
「……静かね」
「なかなかいい雰囲気だね」
ディオンが帽子を脱ぎ、卓の上へ放る。
見慣れたはずなのに、エリーゼは少しだけ見つめてしまった。
謝肉祭の灯りの下でも、鐘楼の闇の中でもなく、こうして何でもない部屋の中で見る彼の顔は、ひどく無防備に見えた。
「みとれた?」
「……やっと顔が見えたわ」
ディオンが小さく笑う。
「せわしなかったもんな」
エリーゼもゆっくりと髪をほどいた。セミロングの髪が肩へ落ちる。
ディオンは何も言わなかった。
ただ少しだけ目を細めて、長く息をつく。
「その顔を見るために、だいぶ走ったなあ」
「怪盗の報酬としては安いんじゃない?」
「いや。最高額だ」
そんなふうに言うものだから、落ち着かなくなる。
宿の女将が置いていった湯と布、それから簡素な食事が卓に並んでいた。
黒パンと薄いスープ、少しのチーズだけ。けれど、二人にとっては十分だった。
ディオンが椅子へ腰を下ろした時、エリーゼはその手の甲に赤い擦り傷を見つけた。
「手、出して」
「ん?」
「いいから」
彼は珍しく素直に手を差し出した。
鍵をこじ開け、屋根を渡り、石壁をよじのぼった手だ。傷は浅いけれど、ところどころ皮が剥けている。
エリーゼは濡らした布でそっと汚れをぬぐった。
「王女様に手当てしてもらえるとはね」
「もう王女じゃないわ」
「そうだった」
ディオンの声がやわらかくなる。
「エリーゼに手当てしてもらえるのは光栄だ」
その呼び方に指先が止まりそうになる。
自分を落ち着かせながら、エリーゼは包帯代わりの布を巻いた。
「痛くないの?」
「痛いよ」
「平気そうな顔をしてる」
「今は格好つけていたいからね」
顔を上げると、彼は笑っていた。
その笑みがあまりにも自然で、エリーゼもこらえきれずに笑ってしまう。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
二人は向かい合って、遅い食事をとった。
パンをちぎって分け合い、ぬるくなりかけたスープを飲む。特別な話をしているわけではない。逃走の途中で見た変な看板や、検問の兵士の間の抜けた顔や、劇場の屋根のひどい滑りやすさ。くだらないやりとりばかりなのに、ひどく満たされた時間だった。
暖炉の火が、ぱちりとはぜる。
エリーゼは椅子の背にもたれ、目を細めた。
「こんなふうに座っていられるなんて、信じられないわ」
「ついこの前には鐘楼の上で袋の鼠だったしな」
「その時だって、ディオンは爆弾を仕掛けていたじゃない」
「まんまと鐘楼においでなすったよなあ!」
「私は死ぬかと思ったんだから」
即答すると、ディオンは可笑しそうに笑った。
沈黙が落ちる。
気まずいものではない。
火の音と、外を渡る風の気配だけが静かに部屋を満たしていた。
ディオンがぽつりと言う。
「もし」
「もし?」
「もしあんたが王女じゃなかったら、何になってた?」
エリーゼはしばらく考えた。
そんな問いを自分に向けたことがなかった。
「そうね……お店をしていたかしら?」
「なんの店?」
「ええ。本屋とか、お菓子屋とか。毎朝同じ時間に起きて、棚を整えて、常連のお客さんに挨拶して」
「似合うな」
「そう?」
「うん。たぶん人気が出る」
「本が?」
「店主が」
平然と言うから、エリーゼは思わず視線をそらした。
「あなたは?」
「俺?」
ディオンは天井を見た。
「怪盗じゃなかったら……どうだろうな。鍵屋とか」
「ぴったりね」
「だろ」
「まともに働いている姿があまり想像できないけど」
「ひどいな」
「お客の鍵を全部覚えていそうだもの」
「それは職業病ってやつだ」
二人で笑う。
その笑いのあとで、急に想像してしまった。
どこか遠い街で、小さな店を持つ自分。
その店先に、気まぐれに現れては勝手に椅子へ座る男。
パンの匂い、午後の光、何でもない日々。
そんな未来が、ありえたかもしれないみたいに思えてしまう。
だからこそ、痛かった。
「悪くないけれど、今はただ一人で静かに過ごしたいわね」
エリーゼが小さく言うと、ディオンは答えなかった。
ただ火の光の向こうで、静かにこちらを見ていた。
やがて彼が立ち上がる。
窓辺まで歩き、薄いカーテンを少しだけめくる。外はもう、夜の底がゆるみはじめていた。
「朝が来るな」
その一言で、楽しかった時間の輪郭が急に終わりを持つ。
エリーゼの胸に何かが沈むのを感じた。
この夜は永遠ではない。
この部屋も、この静けさも、この距離も。
ディオンは振り向き、椅子に座ったままのエリーゼを見た。
「眠るか?」
「眠れそうにないわ」
「同じく」
彼はそう言って、窓辺から戻ってくる。
そして少しためらったあと、エリーゼの隣にしゃがみ込んだ。
視線の高さが近くなる。
「エリーゼ」
名前を呼ばれる。
王女様でも、お姫様でもなく。
ただその名だけで。
胸がさわぐ。
「会えてよかった」
低く、飾らない声だった。
あの夜、窓から現れた時の軽口も。
屋根の上を駆けた時の不敵さも。
鐘楼で追い詰められた時のぎりぎりの笑みも、今はなかった。
そこにいるのはただ、エリーゼのために来たひとりの男だった。
「……私も」
それだけ言うのがやっとだった。
「あなたが来てくれて、よかった」
ディオンの指が、ためらうようにエリーゼの頬へ触れる。
傷を確かめるみたいにそっと。
けれど次の瞬間には、その手のひらがやわらかく頬を包んでいた。
エリーゼは逃げなかった。
逃げたくなかった。
彼の額が、こつりと自分の額に触れる。
ほんの少しの接触なのに、胸の奥が壊れそうなくらい熱くなる。
「今なら」
ディオンが囁いた。
「一緒に遠くへ行ける」
エリーゼは目を閉じた。
望めば、叶いそうに思えてしまう言葉。
「ええ」
小さく答える。
「一緒に海を見てみたかったわ……」
「……うん」
「私」
エリーゼはそっと目を開けた。
「祖母に顔を見せようと思っているの」
ディオンの瞳が静かに揺れる。
「あなたと行くのが嫌なんじゃない」
「わかってる」
「本当?」
「本当だよ」
その返事がやさしすぎて、泣きそうになる。
「あなたは?」
エリーゼは聞いた。
「私が引き止めたら、残るの」
ディオンは少しだけ笑った。
困ったみたいに、でも嬉しそうに。
「残るかもしれない」
「……そう」
「でもそれをしたらあんたの自由はどうなる?」
その言葉で、全部がわかった気がした。
二人とも、同じところに立っている。
一緒にいたい。
でも一緒にいることで、相手から奪ってしまうものがある。
だから、この夜がこんなにも甘い。
エリーゼはふいに手を伸ばし、ディオンの服の袖をつかんだ。
子どものような仕草だと思った。けれどやめられなかった。
「少しだけ」
「ん?」
「もう少しだけ、このままでいて」
ディオンは何も言わず、ただエリーゼを抱き寄せた。
強すぎない腕だった。
閉じ込めるためではなく、そこにいると確かめるための抱擁。
エリーゼもそっと彼の肩に額を預ける。
鼓動が聞こえる。あたたかい。生きている。
失いたくないと、どうしようもなく思った。
夜は静かに更け、やがて窓の外に淡い光が差しはじめた。
朝がきた。
宿を出る頃には、空は薄い青と金のあわい色に染まりつつあった。
冷えた空気の中、街道の先には小さな停車場が見える。ここから先、別々の道をとると、昨夜のうちに二人で決めていた。
わかっていたはずなのに、実際にその場所へ立つと、足が前へ出ない。
停車場にはまだ人影もまばらだった。
朝靄の中、線路の向こうが白くにじんでいる。
「ここで十分だ」
ディオンが言う。
いつもの軽い調子に戻したつもりなのだろう。けれど少しだけ無理をしているのがわかった。
「ええ」
エリーゼもうなずいた。
でも、それ以上の言葉が出てこない。
何か言わなければならないのに。
引き止めたいわけじゃない。
でも、このまま何でもない顔で別れるなんてできそうになかった。
やがてエリーゼは、かすかに笑って言った。
「私は怪盗じゃないから、ディオンを盗めない」
ディオンが息を止める。
その一瞬の沈黙だけで、自分がどれほど本音をこぼしてしまったのか知った。
顔が熱くなる。けれど、もう引っ込められない。
「だから」
エリーゼは続ける。
「行って。あなたの好きなように」
ディオンはしばらく何も言わなかった。
それから、どうしようもなくやさしい目で笑う。
「……あんたは本当に」
「なに?」
「最後まで、反則だな」
そう言って、一歩だけ近づく。
指先がエリーゼの髪に触れ、名残を惜しむみたいにそっと離れた。
「たまには会いに行くよ」
軽い口調だった。
冗談みたいに。
でも、その言葉の中に約束より深いものがあると、エリーゼにはわかった。
「たまに?」
「毎日だとありがたみがないだろ」
「意外とケチね」
「怪盗は希少価値が大事なんだ」
笑って返そうとして、うまくできなかった。
代わりに、エリーゼは小さく頷く。
「……待ってる、とは言わないわ」
「言わなくていい」
「でも」
「うん」
「来たら、きっとわかると思う」
ディオンの目が、少しだけ見開かれる。
それから彼は、たまらないものを見るように笑った。
「十分だ」
遠くで始発を知らせるベルが鳴る。
その音が、二人に残された時間の終わりを告げていた。
ディオンが先に身を引く。
踵を返し、朝靄の向こうへ歩き出す。その背中は軽やかなはずなのに、どこか少しだけ重く見えた。
エリーゼはその背を見送る。
呼び止めない。
呼び止めたら、本当に盗んでしまいたくなる気がした。
数歩進んだところで、ディオンがふと振り返った。
「エリーゼ」
「なに?」
「ちゃんと、自分の未来を盗れよ」
胸がいっぱいになって、返事が遅れた。
「……ええ」
「今度は誰にも盗ませるな」
「そうするわ」
ディオンは満足そうに笑うと、今度こそ背を向けた。
その姿が朝の白い靄の中へ溶けていく。
やがて見えなくなっても、エリーゼはしばらくその場を動けなかった。
失ったわけではない。
終わったわけでもない。
ただ、同じ道を歩かなかっただけだ。
それでも胸は痛んだし、こんな痛みを抱えたまま生きていくのだろうと思った。
けれど不思議と、それは絶望ではなかった。
名前のない未来が、白く朝の向こうにひらけている。
エリーゼはそっと息を吸い、顔を上げた。
もう王女ではない。
誰かの旗でもなく、誰かの檻にもいない。
それでも確かに、愛した時間があった。
その記憶を胸の奥に抱いたまま、エリーゼは自分の道へと歩き出した。
白い未来へ向かって。
壁には風雨にさらされた跡があり、看板の文字も半ばかすれている。
簡単な偽名を帳面に書いて、二人は二階の部屋へ通された。
部屋は狭かった。
窓がひとつ、粗末な寝台がひとつ、椅子が二脚、小さな卓がひとつ。
贅沢とはほど遠い。
だが、今の二人にはこの狭さがかえって都合よく思えた。広ければ、こんなふうに互いの気配を濃く感じることもなかっただろうから。
扉が閉まると、エリーゼはようやく肺の奥まで息を吸い込めた気がした。
「……静かね」
「なかなかいい雰囲気だね」
ディオンが帽子を脱ぎ、卓の上へ放る。
見慣れたはずなのに、エリーゼは少しだけ見つめてしまった。
謝肉祭の灯りの下でも、鐘楼の闇の中でもなく、こうして何でもない部屋の中で見る彼の顔は、ひどく無防備に見えた。
「みとれた?」
「……やっと顔が見えたわ」
ディオンが小さく笑う。
「せわしなかったもんな」
エリーゼもゆっくりと髪をほどいた。セミロングの髪が肩へ落ちる。
ディオンは何も言わなかった。
ただ少しだけ目を細めて、長く息をつく。
「その顔を見るために、だいぶ走ったなあ」
「怪盗の報酬としては安いんじゃない?」
「いや。最高額だ」
そんなふうに言うものだから、落ち着かなくなる。
宿の女将が置いていった湯と布、それから簡素な食事が卓に並んでいた。
黒パンと薄いスープ、少しのチーズだけ。けれど、二人にとっては十分だった。
ディオンが椅子へ腰を下ろした時、エリーゼはその手の甲に赤い擦り傷を見つけた。
「手、出して」
「ん?」
「いいから」
彼は珍しく素直に手を差し出した。
鍵をこじ開け、屋根を渡り、石壁をよじのぼった手だ。傷は浅いけれど、ところどころ皮が剥けている。
エリーゼは濡らした布でそっと汚れをぬぐった。
「王女様に手当てしてもらえるとはね」
「もう王女じゃないわ」
「そうだった」
ディオンの声がやわらかくなる。
「エリーゼに手当てしてもらえるのは光栄だ」
その呼び方に指先が止まりそうになる。
自分を落ち着かせながら、エリーゼは包帯代わりの布を巻いた。
「痛くないの?」
「痛いよ」
「平気そうな顔をしてる」
「今は格好つけていたいからね」
顔を上げると、彼は笑っていた。
その笑みがあまりにも自然で、エリーゼもこらえきれずに笑ってしまう。
こんなふうに笑ったのは、いつ以来だろう。
二人は向かい合って、遅い食事をとった。
パンをちぎって分け合い、ぬるくなりかけたスープを飲む。特別な話をしているわけではない。逃走の途中で見た変な看板や、検問の兵士の間の抜けた顔や、劇場の屋根のひどい滑りやすさ。くだらないやりとりばかりなのに、ひどく満たされた時間だった。
暖炉の火が、ぱちりとはぜる。
エリーゼは椅子の背にもたれ、目を細めた。
「こんなふうに座っていられるなんて、信じられないわ」
「ついこの前には鐘楼の上で袋の鼠だったしな」
「その時だって、ディオンは爆弾を仕掛けていたじゃない」
「まんまと鐘楼においでなすったよなあ!」
「私は死ぬかと思ったんだから」
即答すると、ディオンは可笑しそうに笑った。
沈黙が落ちる。
気まずいものではない。
火の音と、外を渡る風の気配だけが静かに部屋を満たしていた。
ディオンがぽつりと言う。
「もし」
「もし?」
「もしあんたが王女じゃなかったら、何になってた?」
エリーゼはしばらく考えた。
そんな問いを自分に向けたことがなかった。
「そうね……お店をしていたかしら?」
「なんの店?」
「ええ。本屋とか、お菓子屋とか。毎朝同じ時間に起きて、棚を整えて、常連のお客さんに挨拶して」
「似合うな」
「そう?」
「うん。たぶん人気が出る」
「本が?」
「店主が」
平然と言うから、エリーゼは思わず視線をそらした。
「あなたは?」
「俺?」
ディオンは天井を見た。
「怪盗じゃなかったら……どうだろうな。鍵屋とか」
「ぴったりね」
「だろ」
「まともに働いている姿があまり想像できないけど」
「ひどいな」
「お客の鍵を全部覚えていそうだもの」
「それは職業病ってやつだ」
二人で笑う。
その笑いのあとで、急に想像してしまった。
どこか遠い街で、小さな店を持つ自分。
その店先に、気まぐれに現れては勝手に椅子へ座る男。
パンの匂い、午後の光、何でもない日々。
そんな未来が、ありえたかもしれないみたいに思えてしまう。
だからこそ、痛かった。
「悪くないけれど、今はただ一人で静かに過ごしたいわね」
エリーゼが小さく言うと、ディオンは答えなかった。
ただ火の光の向こうで、静かにこちらを見ていた。
やがて彼が立ち上がる。
窓辺まで歩き、薄いカーテンを少しだけめくる。外はもう、夜の底がゆるみはじめていた。
「朝が来るな」
その一言で、楽しかった時間の輪郭が急に終わりを持つ。
エリーゼの胸に何かが沈むのを感じた。
この夜は永遠ではない。
この部屋も、この静けさも、この距離も。
ディオンは振り向き、椅子に座ったままのエリーゼを見た。
「眠るか?」
「眠れそうにないわ」
「同じく」
彼はそう言って、窓辺から戻ってくる。
そして少しためらったあと、エリーゼの隣にしゃがみ込んだ。
視線の高さが近くなる。
「エリーゼ」
名前を呼ばれる。
王女様でも、お姫様でもなく。
ただその名だけで。
胸がさわぐ。
「会えてよかった」
低く、飾らない声だった。
あの夜、窓から現れた時の軽口も。
屋根の上を駆けた時の不敵さも。
鐘楼で追い詰められた時のぎりぎりの笑みも、今はなかった。
そこにいるのはただ、エリーゼのために来たひとりの男だった。
「……私も」
それだけ言うのがやっとだった。
「あなたが来てくれて、よかった」
ディオンの指が、ためらうようにエリーゼの頬へ触れる。
傷を確かめるみたいにそっと。
けれど次の瞬間には、その手のひらがやわらかく頬を包んでいた。
エリーゼは逃げなかった。
逃げたくなかった。
彼の額が、こつりと自分の額に触れる。
ほんの少しの接触なのに、胸の奥が壊れそうなくらい熱くなる。
「今なら」
ディオンが囁いた。
「一緒に遠くへ行ける」
エリーゼは目を閉じた。
望めば、叶いそうに思えてしまう言葉。
「ええ」
小さく答える。
「一緒に海を見てみたかったわ……」
「……うん」
「私」
エリーゼはそっと目を開けた。
「祖母に顔を見せようと思っているの」
ディオンの瞳が静かに揺れる。
「あなたと行くのが嫌なんじゃない」
「わかってる」
「本当?」
「本当だよ」
その返事がやさしすぎて、泣きそうになる。
「あなたは?」
エリーゼは聞いた。
「私が引き止めたら、残るの」
ディオンは少しだけ笑った。
困ったみたいに、でも嬉しそうに。
「残るかもしれない」
「……そう」
「でもそれをしたらあんたの自由はどうなる?」
その言葉で、全部がわかった気がした。
二人とも、同じところに立っている。
一緒にいたい。
でも一緒にいることで、相手から奪ってしまうものがある。
だから、この夜がこんなにも甘い。
エリーゼはふいに手を伸ばし、ディオンの服の袖をつかんだ。
子どものような仕草だと思った。けれどやめられなかった。
「少しだけ」
「ん?」
「もう少しだけ、このままでいて」
ディオンは何も言わず、ただエリーゼを抱き寄せた。
強すぎない腕だった。
閉じ込めるためではなく、そこにいると確かめるための抱擁。
エリーゼもそっと彼の肩に額を預ける。
鼓動が聞こえる。あたたかい。生きている。
失いたくないと、どうしようもなく思った。
夜は静かに更け、やがて窓の外に淡い光が差しはじめた。
朝がきた。
宿を出る頃には、空は薄い青と金のあわい色に染まりつつあった。
冷えた空気の中、街道の先には小さな停車場が見える。ここから先、別々の道をとると、昨夜のうちに二人で決めていた。
わかっていたはずなのに、実際にその場所へ立つと、足が前へ出ない。
停車場にはまだ人影もまばらだった。
朝靄の中、線路の向こうが白くにじんでいる。
「ここで十分だ」
ディオンが言う。
いつもの軽い調子に戻したつもりなのだろう。けれど少しだけ無理をしているのがわかった。
「ええ」
エリーゼもうなずいた。
でも、それ以上の言葉が出てこない。
何か言わなければならないのに。
引き止めたいわけじゃない。
でも、このまま何でもない顔で別れるなんてできそうになかった。
やがてエリーゼは、かすかに笑って言った。
「私は怪盗じゃないから、ディオンを盗めない」
ディオンが息を止める。
その一瞬の沈黙だけで、自分がどれほど本音をこぼしてしまったのか知った。
顔が熱くなる。けれど、もう引っ込められない。
「だから」
エリーゼは続ける。
「行って。あなたの好きなように」
ディオンはしばらく何も言わなかった。
それから、どうしようもなくやさしい目で笑う。
「……あんたは本当に」
「なに?」
「最後まで、反則だな」
そう言って、一歩だけ近づく。
指先がエリーゼの髪に触れ、名残を惜しむみたいにそっと離れた。
「たまには会いに行くよ」
軽い口調だった。
冗談みたいに。
でも、その言葉の中に約束より深いものがあると、エリーゼにはわかった。
「たまに?」
「毎日だとありがたみがないだろ」
「意外とケチね」
「怪盗は希少価値が大事なんだ」
笑って返そうとして、うまくできなかった。
代わりに、エリーゼは小さく頷く。
「……待ってる、とは言わないわ」
「言わなくていい」
「でも」
「うん」
「来たら、きっとわかると思う」
ディオンの目が、少しだけ見開かれる。
それから彼は、たまらないものを見るように笑った。
「十分だ」
遠くで始発を知らせるベルが鳴る。
その音が、二人に残された時間の終わりを告げていた。
ディオンが先に身を引く。
踵を返し、朝靄の向こうへ歩き出す。その背中は軽やかなはずなのに、どこか少しだけ重く見えた。
エリーゼはその背を見送る。
呼び止めない。
呼び止めたら、本当に盗んでしまいたくなる気がした。
数歩進んだところで、ディオンがふと振り返った。
「エリーゼ」
「なに?」
「ちゃんと、自分の未来を盗れよ」
胸がいっぱいになって、返事が遅れた。
「……ええ」
「今度は誰にも盗ませるな」
「そうするわ」
ディオンは満足そうに笑うと、今度こそ背を向けた。
その姿が朝の白い靄の中へ溶けていく。
やがて見えなくなっても、エリーゼはしばらくその場を動けなかった。
失ったわけではない。
終わったわけでもない。
ただ、同じ道を歩かなかっただけだ。
それでも胸は痛んだし、こんな痛みを抱えたまま生きていくのだろうと思った。
けれど不思議と、それは絶望ではなかった。
名前のない未来が、白く朝の向こうにひらけている。
エリーゼはそっと息を吸い、顔を上げた。
もう王女ではない。
誰かの旗でもなく、誰かの檻にもいない。
それでも確かに、愛した時間があった。
その記憶を胸の奥に抱いたまま、エリーゼは自分の道へと歩き出した。
白い未来へ向かって。

