怪盗は二度盗む

「お見事でした」

 低い声が、残響しながら石壁を伝った。

 レオンハルトだった。背後には数名の兵。
 逃げ場のない狭いテラスに絶望が満ちる。

「――途中までは」

 ゆっくり歩み寄ってくる足取りに、焦りはなかった。
 追いつけると最初から知っていた男の歩き方だ。

「囮の白いショール。北門への予告状。空馬車。劇場の屋根。どれも見事でしたよ、怪盗3X」

 ディオンが舌打ちする。

「褒められてる気がしないなあ、少佐」

「実際、だまされた者は大勢います。だがあなたはいつも、見せたい逃走路をわざと派手にする。今回はそれが北門だった」

 レオンハルトは眼光を鋭くした。

「つまり、本命はこの鐘楼だ」

 彼は冷静だった。

 頭上は天使像。眼下には遥か遠いカーニバルの街並み。
 逃げ場はどこにもない。
 ここから落ちれば終わる。

 文字通りの絶体絶命。

「今ならまだ間に合います」

 レオンハルトはエリーゼへ顔を向ける。

「エリーゼ様、こちらへ。あなたは保護できる」

 その言葉に、ディオンの肩がぴくりと震えた。
 怒りか、焦りか、どうにもできない現実を突きつけられた恐れか。

 エリーゼは一歩前へ出る。

「エリーゼ、待て」

 ディオンの声が追う。
 けれど彼女は止まらなかった。

「いいえ」

 まっすぐ、レオンハルトを見る。

「あの夜の返事がまだでしたわね」

 レオンハルトの表情がわずかに動く。

「レオンハルト少佐、契約結婚はお断りします」

 ディオンが息をのんだのがわかった。
 次の瞬間、彼の声が冷たい空気をつんざく。

「馬鹿!」

 エリーゼが振り向く。

「自分だけでも助かれよ!エリーゼ!!」

 怒鳴り声なのに、ほとんど泣いているような、胸に刺さる声だ。

 朝の気配が、川面をうっすら白ませはじめていた。
 世界が少しずつ色を失っていく中で、その声だけははっきりと残った。

 エリーゼは首を振った。

「私は、あなたの保護に入る気はありません。新政府にも、王政復古派にも、くみしない」

 レオンハルトは何も言わない。
 エリーゼはディオンの側へ戻るように立った。レオンハルトをじっと見て眼差しを固くする。

 そしてディオンの手を取った。

「私たちは最後まで共犯でしょう」

 その手は震えていた。

 レオンハルトの視線が、エリーゼからディオンへ移る。

 ディオンはその手を握り返したまま、まっすぐレオンハルトを見返していた。
 その目には敗北も懇願もない。
 折れていない。
 なにひとつとしてあきらめていない目だった。

「レオンハルト少佐」

​ ディオンだ。彼はどこかから、分厚い紙の束を取り出した。
 そしてエリーゼの方を見る。

 新政府軍が政変の夜にした残虐行為の証拠、そしてその実行者たちの名簿。

 エリーゼは固いまなざしでディオンを見返し、ゆっくりうなずいた。

「あんたは頭がいい。だから、これが何かわかるはずだ」

 彼は手の中で、その束をばさりと揺らす。

「まさか、政変の名簿か。
 それをどうするつもりだ!」

 風は謝肉祭の名残の紙片をさらっていく。
 遠くでまだ祭の音楽が鳴っている。中心にある高い鐘楼からは、街にどれだけの人々があふれているか、よく見えた。

「新政府の栄光とやらが、どれだけ血に塗まみれているか全市民がわかる紙切れだ」

 ディオンの声には、狂気すら感じさせる鮮やかな余裕があった。

「これをばらまかれたくなけりゃ、手を引くんだな」

 冗談でも虚勢でもない。ぞっとするほどの本気で怪盗が切る札だった。
 レオンハルトは動かなかった。

――追い込んだのではなく、誘い込まれていたのか。
 ここでこの男を撃てば、名簿は群衆の上へと舞い散る。だが生かして帰せば、少なくともこの手で始末をつける機会はまだ残る、か。

 それに。ちらりと、エリーゼへ視線をやる。頑として折れない、この女の目。

 計算は一瞬で出た。

「……降参だ」

​ 悔しげな声だった。
 拳銃に添えられていた手が、ゆっくりと下がり、やがて彼は両手を軽く上げた。

「私は今、何も見ていない」

 静かな敗北宣言だった。
 ディオンが笑う。

「いい判断だ、少佐」

「だが次に会う時、私は職務を優先します」

 レオンハルトは冷ややかに言って、半歩脇へ退いた。
 道が開く。

 ディオンが笑い、エリーゼを見る。
 エリーゼもうなずく。

 次の瞬間、二人は同時に駆け出した。

 夜明けの風が頬を打つ。
 後ろから銃声は聞こえない。

 エリーゼは一度だけ振り返った。

 レオンハルトは手すりに手を置いていた。
 追ってこなかった。朝の風に吹かれながら、ただ静かに肩を落としている。

 エリーゼは前を向いた。ディオンの手はまだ、離れない。

――助かったのではない。終わったのでもない。
 ここから先が、本当の逃走だ。

 それでも、胸の奥にはっきりとわかるものがあった。

 王女はもう、檻へ戻らない。
 怪盗もまた、その手を離さない。

 夜明けの街を背に、二人の共犯者は走った。
 名前もない未来へ向かって。