くすんだ色のスカートと上着、目立たないショール、半面だけを隠す簡素な仮面。エリーゼは、どこにでもいる娘にしか見えなかった。
ディオンもまた、上着を裏返し、襟飾りを外し、帽子を替えている。
荷運び人か、舞台裏の下働き。雑多な人波へまぎれるための姿だった。
「謝肉祭の街は、まともに歩く場所じゃないからね。隠れるにはちょうどいい」
予想より早く始まった追跡に、二人は計画を捨てた。便せんに書いた脱出経路は捨てる。正攻法は使えない。
ならば、狂騒そのものへまぎれ込むしかない。
「準備は?」
「万端よ」
「よし。行こう、エリーゼ」
胸の奥に小さく火をともす。エリーゼはうなずき、ディオンの後に続いた。
部屋を出て、裏階段を駆け下りる。
使用人用の通路は薄暗く、屋敷の華やかさが嘘のようだ。遠くで誰かが慌ただしく走り、扉の開閉音が重なる。
裏倉庫の前で、ディオンは足を止める。
外をうかがい、指で合図した。
3、2、1。
扉が開く。
夜気がなだれ込んできた。二人は影のように滑り出る。
裏庭の向こうにはすでに人影があった。
屋敷の塀沿いを見回る灯り。通りに停められた車。気配を殺しているつもりでもわかる、獲物を狩る者の目。
「こっちに」
ディオンがエリーゼの手を引く。
通りへ出た瞬間、景色が一変した。
音楽。笑い声。拍手。
羽飾り、仮面、紙吹雪。
謝肉祭の人波が、街という街を埋め尽くしていた。
ディオンは歩調をゆるめ、エリーゼの腕を自分の腕にからませる。
「顔を上げて、堂々とね」
「簡単に言うのね」
彼はショールの端を直すふりでエリーゼのあごをそっと上げる。
距離が近い。指先がふれただけなのに、熱い。
「もっと俺だけを見て」
「……演技指導?」
「半分ね」
二人は仮面行列の列へ滑り込む。
踊り手たちに混ざり、ゆっくり進む。楽団車の影、巨大な人形の山車、笑いさざめく群衆。緊張も、熱狂の中ではただの興奮にしか見えない。
通りの先で流れが止まった。
新政府の警備兵。
市警とは違う服装の男たち。おそらく復古派の連絡員。
互いに手を結んでいるわけではないのに、今夜に限っては同じ獲物を探している。
次の瞬間、誰かが声を上げた。
「おい、あの女――」
復古派の一人が、エリーゼに顔を向けている。気づかれたのだ。
「走るぞ!」
ディオンが叫ぶ。
二人は即座に路地へ飛び込んだ。
石畳を蹴る靴音。背後に迫る追跡の気配。
祭の音楽がかえって恐ろしく聞こえる。
路地を抜けた先に、小劇場の裏口が見える。
施錠された扉の前で、ディオンはためらいなくしゃがみ込む。
「十秒、かせげるかい」
「十秒?」
「できるだろ」
言い返す暇もない。エリーゼは振り向き、追ってくる足音へ向き直る。
角を曲がってきた男たちに向かい、彼女は怒ったように声を張った。
「何なの!女ひとりに寄ってたかって!無礼にもほどがあるわ!」
男たちが一瞬たじろぐ。
その隙にディオンの指先が鍵穴の中で踊った。
かちり、と乾いた音。
「開いた」
二人は裏口から劇場の中へ転がり込む。
薄暗い舞台裏には、使われなくなった大道具と衣装箱が積まれていた。
ディオンは迷わず奥へ走る。
「こっちへ!」
舞台袖を抜け、奈落脇の狭い通路を駆け、さらにはしごを上る。
追っ手たちの扉を破った音がした。
二人は照明梁の上へ出る。
足場は細く、下には空の舞台が口を開けていた。
「落ちるなよ」
「あなたこそ」
そのまま天窓から屋根へ。
夜風が頬を切る。
謝肉祭の灯りが眼下で揺れていた。
赤、金、青。笑い声と悲鳴めいた歓声。
その上を、二人は影のように走る。
屋根から屋根へ。
瓦を蹴り、飛び越え、煙突の陰をすべる。
エリーゼの息が上がり、何度か転びそうになる。そのたびにディオンが振り返り、手を差し伸べた。
「つかんで!」
細い隙間を飛び越える時、エリーゼは迷わずその手を取った。
強く引かれ、次の屋根へ着地する。心臓がのど元までせり上がる。
「もう少しだ」
「あなたの“もう少し”って、信用できない」
「今は信用してくれよ」
叫び返す声に、思わず笑いそうになる。
こんな時なのに。
屋根の途中、ディオンは立ち止まり、ふところから一枚のカードを取り出した。
白い紙に、黒いインクで書かれた短い文。
「何をしているの」
「挨拶状だよ」
「こんな時に?」
「こんな時だからだ」
彼はそれを煙突の根元へ目立つよう挟み込む。
さらに白いショールを別の屋根へ放り、下の路地には空の馬車を走らせるための仕掛け糸を引く。
「北門へ流す。連中は派手な方を追いたがるからな」
「二重の偽装?」
「三重でも四重でもね」
数瞬後、遠くで怒号が上がった。白い影が走った、北門だ、と。
追っ手の多くがそちらへ流れていく。
その気配をうかがいながら、ディオンは眉をひそめていた。
「一人だけ、だまされていないな」
「もしかして、レオンハルト少佐……?」
「十中八九な」
空気がひやりと冷える。
二人はさらに進み、鐘楼の裏手へ回り込んだ。
古い石造りの壁面に沿うように、整備用の狭い足場が設けられている。ひとり立つだけでも危うい場所だ。
「ここで息を整えよう」
ディオンに引かれ、エリーゼはその足場へ身を滑り込ませた。
肩と肩が触れる。少しでも体勢を崩せば落ちるほどせまい。
祭の喧騒は続いていた。
遠く近くに追っ手の足音もする。
それなのに、この小さな足場だけが別の時間に切り取られたように静かだった。
エリーゼは胸元を押さえ、荒い呼吸を整える。
「大丈夫かい」
「……たぶん」
「たぶん、ね」
ディオンの息も近い。
闇の中で、祭りの仮面越しに緑の目がこちらを見ている。
エリーゼはその目を見返しながら、ぽつりと言った。
「全部終えたら、書類は燃やそうと思うの」
ディオンは黙って聞いている。
「私は何者でもなくなる」
王女でもなく。
旗印でもなく。
ただ、何も持たない人間になる。そう言ったつもりだった。
ディオンはすぐに首を振った。
「いいや、ちがうね」
低い声が、夜気よりも静かに落ちる。
「やっとエリーゼになるんだ」
顔がひどく熱くなった。
何者かに決められていた自分から、ようやくほどけるのだと。そんなふうに言ってくれる人が、今ここにいる。
ディオンが少しだけ顔を寄せる。
「怖いかい?」
エリーゼは目を伏せ、正直にうなずいた。
「怖いわ」
財産を捨てることも。
王女を終わらせることも。
この先がわからないことも。
けれど、いちばん怖いのはそのどれでもなかった。
「あなたを失うのが」
言ってから自分でも息をのんだ。
夜が止まった気がした。
ディオンも、一瞬、何も言えなかった。
やがて彼はたまらなく嬉しそうに笑う。
「あんたばっかり、先に大事なことを言うんだもんな」
もっと何か言い返したかったのに、のどが詰まってうまく声が出なかった。
その時、靴音が近づく。
ディオンの顔つきが一瞬で戻る。
「行こう」
二人は足場を抜け走った。
たどり着いたのは、街の最も高い場所――古都の象徴である鐘楼だった。
吹き抜ける風が冷たい。
見下ろす街の夜景は、まるで星屑をまき散らしたように美しく、残酷なほど広大だった。
頭上には、街のどこからでも見上げることのできる巨大な黄金の天使像が、冷たい月明かりを受けてたたずんでいる。
その真下、足がすくむほど狭い石のテラスに二人は追い込まれていた。
「袋の鼠だな」
振り返らなくてもわかった。
追いついたのだ。
最後までだまされなかった男が。
ディオンは、ほんのわずかに口元を上げた。
――役者がそろったぜ!
ディオンもまた、上着を裏返し、襟飾りを外し、帽子を替えている。
荷運び人か、舞台裏の下働き。雑多な人波へまぎれるための姿だった。
「謝肉祭の街は、まともに歩く場所じゃないからね。隠れるにはちょうどいい」
予想より早く始まった追跡に、二人は計画を捨てた。便せんに書いた脱出経路は捨てる。正攻法は使えない。
ならば、狂騒そのものへまぎれ込むしかない。
「準備は?」
「万端よ」
「よし。行こう、エリーゼ」
胸の奥に小さく火をともす。エリーゼはうなずき、ディオンの後に続いた。
部屋を出て、裏階段を駆け下りる。
使用人用の通路は薄暗く、屋敷の華やかさが嘘のようだ。遠くで誰かが慌ただしく走り、扉の開閉音が重なる。
裏倉庫の前で、ディオンは足を止める。
外をうかがい、指で合図した。
3、2、1。
扉が開く。
夜気がなだれ込んできた。二人は影のように滑り出る。
裏庭の向こうにはすでに人影があった。
屋敷の塀沿いを見回る灯り。通りに停められた車。気配を殺しているつもりでもわかる、獲物を狩る者の目。
「こっちに」
ディオンがエリーゼの手を引く。
通りへ出た瞬間、景色が一変した。
音楽。笑い声。拍手。
羽飾り、仮面、紙吹雪。
謝肉祭の人波が、街という街を埋め尽くしていた。
ディオンは歩調をゆるめ、エリーゼの腕を自分の腕にからませる。
「顔を上げて、堂々とね」
「簡単に言うのね」
彼はショールの端を直すふりでエリーゼのあごをそっと上げる。
距離が近い。指先がふれただけなのに、熱い。
「もっと俺だけを見て」
「……演技指導?」
「半分ね」
二人は仮面行列の列へ滑り込む。
踊り手たちに混ざり、ゆっくり進む。楽団車の影、巨大な人形の山車、笑いさざめく群衆。緊張も、熱狂の中ではただの興奮にしか見えない。
通りの先で流れが止まった。
新政府の警備兵。
市警とは違う服装の男たち。おそらく復古派の連絡員。
互いに手を結んでいるわけではないのに、今夜に限っては同じ獲物を探している。
次の瞬間、誰かが声を上げた。
「おい、あの女――」
復古派の一人が、エリーゼに顔を向けている。気づかれたのだ。
「走るぞ!」
ディオンが叫ぶ。
二人は即座に路地へ飛び込んだ。
石畳を蹴る靴音。背後に迫る追跡の気配。
祭の音楽がかえって恐ろしく聞こえる。
路地を抜けた先に、小劇場の裏口が見える。
施錠された扉の前で、ディオンはためらいなくしゃがみ込む。
「十秒、かせげるかい」
「十秒?」
「できるだろ」
言い返す暇もない。エリーゼは振り向き、追ってくる足音へ向き直る。
角を曲がってきた男たちに向かい、彼女は怒ったように声を張った。
「何なの!女ひとりに寄ってたかって!無礼にもほどがあるわ!」
男たちが一瞬たじろぐ。
その隙にディオンの指先が鍵穴の中で踊った。
かちり、と乾いた音。
「開いた」
二人は裏口から劇場の中へ転がり込む。
薄暗い舞台裏には、使われなくなった大道具と衣装箱が積まれていた。
ディオンは迷わず奥へ走る。
「こっちへ!」
舞台袖を抜け、奈落脇の狭い通路を駆け、さらにはしごを上る。
追っ手たちの扉を破った音がした。
二人は照明梁の上へ出る。
足場は細く、下には空の舞台が口を開けていた。
「落ちるなよ」
「あなたこそ」
そのまま天窓から屋根へ。
夜風が頬を切る。
謝肉祭の灯りが眼下で揺れていた。
赤、金、青。笑い声と悲鳴めいた歓声。
その上を、二人は影のように走る。
屋根から屋根へ。
瓦を蹴り、飛び越え、煙突の陰をすべる。
エリーゼの息が上がり、何度か転びそうになる。そのたびにディオンが振り返り、手を差し伸べた。
「つかんで!」
細い隙間を飛び越える時、エリーゼは迷わずその手を取った。
強く引かれ、次の屋根へ着地する。心臓がのど元までせり上がる。
「もう少しだ」
「あなたの“もう少し”って、信用できない」
「今は信用してくれよ」
叫び返す声に、思わず笑いそうになる。
こんな時なのに。
屋根の途中、ディオンは立ち止まり、ふところから一枚のカードを取り出した。
白い紙に、黒いインクで書かれた短い文。
「何をしているの」
「挨拶状だよ」
「こんな時に?」
「こんな時だからだ」
彼はそれを煙突の根元へ目立つよう挟み込む。
さらに白いショールを別の屋根へ放り、下の路地には空の馬車を走らせるための仕掛け糸を引く。
「北門へ流す。連中は派手な方を追いたがるからな」
「二重の偽装?」
「三重でも四重でもね」
数瞬後、遠くで怒号が上がった。白い影が走った、北門だ、と。
追っ手の多くがそちらへ流れていく。
その気配をうかがいながら、ディオンは眉をひそめていた。
「一人だけ、だまされていないな」
「もしかして、レオンハルト少佐……?」
「十中八九な」
空気がひやりと冷える。
二人はさらに進み、鐘楼の裏手へ回り込んだ。
古い石造りの壁面に沿うように、整備用の狭い足場が設けられている。ひとり立つだけでも危うい場所だ。
「ここで息を整えよう」
ディオンに引かれ、エリーゼはその足場へ身を滑り込ませた。
肩と肩が触れる。少しでも体勢を崩せば落ちるほどせまい。
祭の喧騒は続いていた。
遠く近くに追っ手の足音もする。
それなのに、この小さな足場だけが別の時間に切り取られたように静かだった。
エリーゼは胸元を押さえ、荒い呼吸を整える。
「大丈夫かい」
「……たぶん」
「たぶん、ね」
ディオンの息も近い。
闇の中で、祭りの仮面越しに緑の目がこちらを見ている。
エリーゼはその目を見返しながら、ぽつりと言った。
「全部終えたら、書類は燃やそうと思うの」
ディオンは黙って聞いている。
「私は何者でもなくなる」
王女でもなく。
旗印でもなく。
ただ、何も持たない人間になる。そう言ったつもりだった。
ディオンはすぐに首を振った。
「いいや、ちがうね」
低い声が、夜気よりも静かに落ちる。
「やっとエリーゼになるんだ」
顔がひどく熱くなった。
何者かに決められていた自分から、ようやくほどけるのだと。そんなふうに言ってくれる人が、今ここにいる。
ディオンが少しだけ顔を寄せる。
「怖いかい?」
エリーゼは目を伏せ、正直にうなずいた。
「怖いわ」
財産を捨てることも。
王女を終わらせることも。
この先がわからないことも。
けれど、いちばん怖いのはそのどれでもなかった。
「あなたを失うのが」
言ってから自分でも息をのんだ。
夜が止まった気がした。
ディオンも、一瞬、何も言えなかった。
やがて彼はたまらなく嬉しそうに笑う。
「あんたばっかり、先に大事なことを言うんだもんな」
もっと何か言い返したかったのに、のどが詰まってうまく声が出なかった。
その時、靴音が近づく。
ディオンの顔つきが一瞬で戻る。
「行こう」
二人は足場を抜け走った。
たどり着いたのは、街の最も高い場所――古都の象徴である鐘楼だった。
吹き抜ける風が冷たい。
見下ろす街の夜景は、まるで星屑をまき散らしたように美しく、残酷なほど広大だった。
頭上には、街のどこからでも見上げることのできる巨大な黄金の天使像が、冷たい月明かりを受けてたたずんでいる。
その真下、足がすくむほど狭い石のテラスに二人は追い込まれていた。
「袋の鼠だな」
振り返らなくてもわかった。
追いついたのだ。
最後までだまされなかった男が。
ディオンは、ほんのわずかに口元を上げた。
――役者がそろったぜ!

