いつものひょうひょうとした声音だが、ディオンの緑の瞳は笑っていない。
外套と、旅行鞄と、整えられた部屋の気配をひとつずつ見ていく。
「……気合の入った準備じゃねえか」
「ノックくらいしたらどうなの」
「怪盗に礼儀を求めるなよ」
軽口だった。
けれど、その場の空気が和らぐことはない。
部屋の中は、彼の気配で満たされてしまう。
「どこへ行く気だ。
昨夜の騒ぎで終わりじゃないって、あんたもわかってるはずだ。なのにこんな時間に抜け出す気か」
「抜け出すなんて嫌な言い方」
「わかった、聞き方を変えよう」
彼の声が少し低くなる。
「あの少佐のところへ行くのか」
エリーゼは黙った。
その一瞬の沈黙だけで、ディオンの目が冷たくなった。低く笑う声が、ひどく苦かった。
「結局、そっちを選ぶんだな」
「まさか」
エリーゼはきっぱりと言った。ディオンが眉を寄せる。
「違うのか?」
「少佐に連絡したのは本当よ」
「どういうことだ?」
「あの人のところへなんて、行かないもの」
ディオンは言葉を失った。探るように彼女を見る。
エリーゼは静かに息を吸った。
「私は、契約結婚に同意していないわ」
それを聞いたディオンの肩からは、明らかに力が抜けていた。
すっかり安心した自分に面食らったのか、緑の瞳がさまよった。
「断るつもりだったの」
「だった、ってことは」
「話さなかったのよ。まだ」
エリーゼはまっすぐ彼を見る。
「レオンハルト少佐は、復古派と新政府派の情報を持っていた。今どこまで危険が迫っているのか、知る必要があったの」
ディオンの表情が険しくなる。
「つまりあの男を利用したのか」
「利用……ええ、そうなるわね」
ためらわずうなずく。
「時間を稼ぎたかったから。こちらが動くための時間を。
契約を断るのは、次の機会にさせてもらったわ」
数秒、沈黙が落ちた。ディオンは呆れた顔で額を押さえる。
――可憐な顔して大胆すぎる!
「……とんでもないな、あんた」
「褒めているの?」
「早とちりしちまったのか」
そう言いながらも、ディオンの声にあった緊張はやわらいでいた。
「そうね。盛大な勘違い」
「傷ついた心の補償は?」
「考えておくわ」
そう返すと、ディオンは小さく鼻で笑った。ほんのわずか。けれどさっきまでより、ずっと彼らしい。
すぐに真顔へ戻る。
「なら、どうして荷物をまとめてる」
その問いに、エリーゼはほんのひと呼吸ぶん黙った。
伝えれば、後戻りはできない。
「ディオンを待っていたの」
たったそれだけの言葉なのに、ディオンの心臓を射抜くには十分だった。
怪盗3Xが、こんなふうに一言で動きを止める。
そんなことがあるのだとエリーゼは初めて知る。
「来てくれると思っていたわ」
夜明け前の淡い光が、二人の間へ静かに落ちていた。
「ひとりで行くつもりなら、もうとっくに出ていたもの」
「……俺を、待ってたって?」
「そう」
「どうして」
「必要だからよ」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。嘘ではない。
でも、それだけではないことを、自分が一番知っている。
「あなたならできることがあるわ」
ディオンは黙って続きを待った。エリーゼは逃げない。
「私は国外へ行くつもりよ」
彼の声が一気に鋭くなる。
「……本気か」
「本気」
エリーゼはうなずいた。
「そのあとにも、あなたの怪盗の力を借りたいわ」
ディオンはエリーゼから目を離せなかった。
「無謀だな」
吐き捨てた。ディオンの声には怒りより先に、恐れがにじんでいた。
「そんなことをしたら、二度と引き返せない」
「引き返すつもりはない」
「追っ手がどれだけつくかわかってるのか」
「わかってる」
「わかってない」
ディオンが一歩、近づいた。
「復古派も新政府も、本気であんたを追うぞ。計画をやり切るまで、逃げ切れるのか」
「だからあなたが必要なの」
エリーゼがそう言うと、ディオンはぴたりと黙った。
「逃げるためじゃないわ」
ゆっくりと言葉を置く。
「終わらせるために」
ディオンの視線が、痛いほどまっすぐだった。エリーゼはゆっくり言葉を置いていく。
「書類がある限り、誰かが争う。財産がある限り、誰かがそれを狙う。私が生きている限り、誰かが私をかつぎ上げようとする」
ハーロウ卿の疲れ切った顔が浮かぶ。血を流した警備員。おびえる使用人。炎に照らされた書類の束。
「私は、みんなを守りたい」
もう迷いなく言葉が出た。
「私が終わらせる」
ディオンはしばらく黙っていた。やがて、深く息を吐く。
「……ぶっとんでるな!あんた」
「そうかしら」
「そうだよ」
切ない苦笑。あきれだけでなく、あらがいきれない愛しさがにじんでいる。
「少佐の結婚を断って、代わりに怪盗に、国を敵に回す相談か」
「そうよ」
「それで?」
緑の瞳がまっすぐにエリーゼをとらえる。
「俺に何をしろって?」
エリーゼは彼を見返した。
この先の言葉で、自分の未来も、彼の未来も変わるかもしれない。
それでも、言わなくてはならない。
「ディオン、依頼したいの」
ディオンは次の言葉を息を止めて待っていた。
「私を、新政府からも」
エリーゼは一歩、彼へ近づいた。
「王政復古派からも盗んで」
静寂が落ちた。
ディオンは瞬きすらしなかった。言葉の意味が落ちていくのを、じっと受け止めている。
「……国を相手にあんたを盗めってことだな」
「そのとおりよ」
「無茶にもほどがある」
「あなたにしかできない依頼でしょう?」
その返しに、ディオンはとうとう声を立てて笑った。
あきれと、歓喜と、どうしようもない喜びが混ざった笑いだった。
「最高だな、王女様」
そう言って彼は数歩で距離を詰める。迷わず、けれど乱暴ではなく、エリーゼの手を取った。
「いいぜ」
低い声が落ちる。
「だったら今度は宝石じゃない。あんたごといただく」
その手の熱に、エリーゼの胸が動く。逃げたいとは思わなかった。
「ただし条件がある」
「なに?」
「勝手に一人で消えるな」
エリーゼの視界にその真剣な表情が焼き付くようだった。
「俺はあんたを守る。でも、死地へ行かせるために盗むんじゃない」
いつになく切迫した声だった。
「最後までやるんなら、最後まで共犯だ」
共犯。
契約結婚よりも、ずっと危うくて、ずっと甘い響きだった。
「わかった」
「本当に?」
「最後まで共犯ね」
エリーゼがうなずくと、ディオンはようやく満足そうに息をついた。
「よし。なら時間がない」
彼は手を離し、すぐに部屋の机へ向かう。
卓上にあった便せんを裏返し、ペンを取り上げると、さらさらと線を引き始めた。
「まずはルートを三つ作る。正規の街道は使わない。港も一度は囮を置く。少佐の連中も復古派も、屋敷から真っ直ぐ外へ出ると思うはずだ」
「この短時間でそこまで考えたの?」
「怪盗をなめるな」
振り返ったディオンの口元には、久しぶりにいつもの不敵な笑みが戻っていた。
「派手にやるぞ。追う気を消してやる」
エリーゼはその横顔を見つめる。
本当に、この男となら。
危険で、無茶で、戻れなくて、それでも。
選ぶ道を、最後まで進めるかもしれない。
「ディオン」
「ん?」
「来てくれて、ありがとう」
ペン先が一瞬だけ止まった。
彼はすぐには振り向かない。けれど、低くこぼれた声はやわらかかった。
「言っただろ」
「え?」
「あんたの一番大事なものをいただくって」
そう言って振り返ったディオンは、得意そうに笑った。
「約束は守る主義なんだよ」
エリーゼもようやく笑う。
窓の外では、夜がゆっくりと明けていく。
もう後戻りはできない。けれど不思議と、恐怖より先に心を満たしているものがあった。
それが希望なのか、共犯の熱なのか、まだ名前はつけられない。
確かなのは、夜明けとともに二人の契約が始まったということだけだった。
外套と、旅行鞄と、整えられた部屋の気配をひとつずつ見ていく。
「……気合の入った準備じゃねえか」
「ノックくらいしたらどうなの」
「怪盗に礼儀を求めるなよ」
軽口だった。
けれど、その場の空気が和らぐことはない。
部屋の中は、彼の気配で満たされてしまう。
「どこへ行く気だ。
昨夜の騒ぎで終わりじゃないって、あんたもわかってるはずだ。なのにこんな時間に抜け出す気か」
「抜け出すなんて嫌な言い方」
「わかった、聞き方を変えよう」
彼の声が少し低くなる。
「あの少佐のところへ行くのか」
エリーゼは黙った。
その一瞬の沈黙だけで、ディオンの目が冷たくなった。低く笑う声が、ひどく苦かった。
「結局、そっちを選ぶんだな」
「まさか」
エリーゼはきっぱりと言った。ディオンが眉を寄せる。
「違うのか?」
「少佐に連絡したのは本当よ」
「どういうことだ?」
「あの人のところへなんて、行かないもの」
ディオンは言葉を失った。探るように彼女を見る。
エリーゼは静かに息を吸った。
「私は、契約結婚に同意していないわ」
それを聞いたディオンの肩からは、明らかに力が抜けていた。
すっかり安心した自分に面食らったのか、緑の瞳がさまよった。
「断るつもりだったの」
「だった、ってことは」
「話さなかったのよ。まだ」
エリーゼはまっすぐ彼を見る。
「レオンハルト少佐は、復古派と新政府派の情報を持っていた。今どこまで危険が迫っているのか、知る必要があったの」
ディオンの表情が険しくなる。
「つまりあの男を利用したのか」
「利用……ええ、そうなるわね」
ためらわずうなずく。
「時間を稼ぎたかったから。こちらが動くための時間を。
契約を断るのは、次の機会にさせてもらったわ」
数秒、沈黙が落ちた。ディオンは呆れた顔で額を押さえる。
――可憐な顔して大胆すぎる!
「……とんでもないな、あんた」
「褒めているの?」
「早とちりしちまったのか」
そう言いながらも、ディオンの声にあった緊張はやわらいでいた。
「そうね。盛大な勘違い」
「傷ついた心の補償は?」
「考えておくわ」
そう返すと、ディオンは小さく鼻で笑った。ほんのわずか。けれどさっきまでより、ずっと彼らしい。
すぐに真顔へ戻る。
「なら、どうして荷物をまとめてる」
その問いに、エリーゼはほんのひと呼吸ぶん黙った。
伝えれば、後戻りはできない。
「ディオンを待っていたの」
たったそれだけの言葉なのに、ディオンの心臓を射抜くには十分だった。
怪盗3Xが、こんなふうに一言で動きを止める。
そんなことがあるのだとエリーゼは初めて知る。
「来てくれると思っていたわ」
夜明け前の淡い光が、二人の間へ静かに落ちていた。
「ひとりで行くつもりなら、もうとっくに出ていたもの」
「……俺を、待ってたって?」
「そう」
「どうして」
「必要だからよ」
言ってから、少しだけ胸が痛んだ。嘘ではない。
でも、それだけではないことを、自分が一番知っている。
「あなたならできることがあるわ」
ディオンは黙って続きを待った。エリーゼは逃げない。
「私は国外へ行くつもりよ」
彼の声が一気に鋭くなる。
「……本気か」
「本気」
エリーゼはうなずいた。
「そのあとにも、あなたの怪盗の力を借りたいわ」
ディオンはエリーゼから目を離せなかった。
「無謀だな」
吐き捨てた。ディオンの声には怒りより先に、恐れがにじんでいた。
「そんなことをしたら、二度と引き返せない」
「引き返すつもりはない」
「追っ手がどれだけつくかわかってるのか」
「わかってる」
「わかってない」
ディオンが一歩、近づいた。
「復古派も新政府も、本気であんたを追うぞ。計画をやり切るまで、逃げ切れるのか」
「だからあなたが必要なの」
エリーゼがそう言うと、ディオンはぴたりと黙った。
「逃げるためじゃないわ」
ゆっくりと言葉を置く。
「終わらせるために」
ディオンの視線が、痛いほどまっすぐだった。エリーゼはゆっくり言葉を置いていく。
「書類がある限り、誰かが争う。財産がある限り、誰かがそれを狙う。私が生きている限り、誰かが私をかつぎ上げようとする」
ハーロウ卿の疲れ切った顔が浮かぶ。血を流した警備員。おびえる使用人。炎に照らされた書類の束。
「私は、みんなを守りたい」
もう迷いなく言葉が出た。
「私が終わらせる」
ディオンはしばらく黙っていた。やがて、深く息を吐く。
「……ぶっとんでるな!あんた」
「そうかしら」
「そうだよ」
切ない苦笑。あきれだけでなく、あらがいきれない愛しさがにじんでいる。
「少佐の結婚を断って、代わりに怪盗に、国を敵に回す相談か」
「そうよ」
「それで?」
緑の瞳がまっすぐにエリーゼをとらえる。
「俺に何をしろって?」
エリーゼは彼を見返した。
この先の言葉で、自分の未来も、彼の未来も変わるかもしれない。
それでも、言わなくてはならない。
「ディオン、依頼したいの」
ディオンは次の言葉を息を止めて待っていた。
「私を、新政府からも」
エリーゼは一歩、彼へ近づいた。
「王政復古派からも盗んで」
静寂が落ちた。
ディオンは瞬きすらしなかった。言葉の意味が落ちていくのを、じっと受け止めている。
「……国を相手にあんたを盗めってことだな」
「そのとおりよ」
「無茶にもほどがある」
「あなたにしかできない依頼でしょう?」
その返しに、ディオンはとうとう声を立てて笑った。
あきれと、歓喜と、どうしようもない喜びが混ざった笑いだった。
「最高だな、王女様」
そう言って彼は数歩で距離を詰める。迷わず、けれど乱暴ではなく、エリーゼの手を取った。
「いいぜ」
低い声が落ちる。
「だったら今度は宝石じゃない。あんたごといただく」
その手の熱に、エリーゼの胸が動く。逃げたいとは思わなかった。
「ただし条件がある」
「なに?」
「勝手に一人で消えるな」
エリーゼの視界にその真剣な表情が焼き付くようだった。
「俺はあんたを守る。でも、死地へ行かせるために盗むんじゃない」
いつになく切迫した声だった。
「最後までやるんなら、最後まで共犯だ」
共犯。
契約結婚よりも、ずっと危うくて、ずっと甘い響きだった。
「わかった」
「本当に?」
「最後まで共犯ね」
エリーゼがうなずくと、ディオンはようやく満足そうに息をついた。
「よし。なら時間がない」
彼は手を離し、すぐに部屋の机へ向かう。
卓上にあった便せんを裏返し、ペンを取り上げると、さらさらと線を引き始めた。
「まずはルートを三つ作る。正規の街道は使わない。港も一度は囮を置く。少佐の連中も復古派も、屋敷から真っ直ぐ外へ出ると思うはずだ」
「この短時間でそこまで考えたの?」
「怪盗をなめるな」
振り返ったディオンの口元には、久しぶりにいつもの不敵な笑みが戻っていた。
「派手にやるぞ。追う気を消してやる」
エリーゼはその横顔を見つめる。
本当に、この男となら。
危険で、無茶で、戻れなくて、それでも。
選ぶ道を、最後まで進めるかもしれない。
「ディオン」
「ん?」
「来てくれて、ありがとう」
ペン先が一瞬だけ止まった。
彼はすぐには振り向かない。けれど、低くこぼれた声はやわらかかった。
「言っただろ」
「え?」
「あんたの一番大事なものをいただくって」
そう言って振り返ったディオンは、得意そうに笑った。
「約束は守る主義なんだよ」
エリーゼもようやく笑う。
窓の外では、夜がゆっくりと明けていく。
もう後戻りはできない。けれど不思議と、恐怖より先に心を満たしているものがあった。
それが希望なのか、共犯の熱なのか、まだ名前はつけられない。
確かなのは、夜明けとともに二人の契約が始まったということだけだった。

