哲平が去ったあとも、ゆかりの身体は震えていた。
俺の服を掴んだまま、なかなか離そうとしない。
「……もう大丈夫だから」
「うん……」
「送ってくよ」
「でも」
「一人で帰らせられないよ」
ゆかりは少し迷ってから、小さく頷いた。
「……ありがとう」
駅までの道を、二人でゆっくり歩いた。
いつもなら何か話しているはずなのに、今日は会話が続かない。
哲平に殴られた頬が痛む。
それでも、隣を歩くゆかりのほうが気になった。
「奏くん」
「ん?」
「痛い?」
「これ?」
頬に触れる。
「大丈夫。たいしたことないよ」
「嘘」
「ほんとだって」
「私のせいだね」
ゆかりが俯く。
「違うよ」
「でも……」
「ゆかりのせいじゃない」
俺は足を止めた。
ゆかりも立ち止まる。
「哲平が勝手にやったことだろ」
「…………」
「だから、そんな顔すんなって」
ゆかりは俺を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「奏くんって、優しいね」
「そうかな」
「うん」
また歩き出す。
しばらくして、ゆかりがぽつりと言った。
「ねえ」
「何?」
「この前の返事……まだしてなかったよね」
胸が大きく鳴った。
「……うん」
「私ね」
ゆかりが立ち止まった。
俺も足を止める。
「奏くんと一緒にいると、安心する」
「…………」
「だから……」
ゆかりは少し恥ずかしそうに笑った。
「私でよかったら、よろしくお願いします」
一瞬、意味が分からなかった。
「……それって」
「言わせるの?」
「いや、だって……」
ゆかりが笑う。
「付き合おうって言ったの、奏くんでしょ?」
「言ったけど」
「じゃあ決まり」
「……ほんとに?」
「うん」
嬉しかった。
頬の痛みなんて、一瞬でどうでもよくなった。
「ゆかり」
「何?」
「……ありがとう」
「何それ」
ゆかりが笑った。
俺も笑った。
その日。
俺とゆかりは、恋人になった。
数日後。
「ゆかり」
聞き覚えのある声に、ゆかりの表情が曇った。
店の外に哲平が立っている。
「……何?」
「ちょっと話そうよ」
「話すことないから」
「この前のことなら謝るって」
「もういい」
「よくないだろ」
哲平がゆかりへ近づく。
「俺、ちゃんと話したいんだよ」
「私は話したくない」
「ゆかり」
「やめて」
俺はレジからその様子を見ていた。
すぐに外へ出る。
「哲平」
「あ?」
俺はゆかりと哲平の間に入った。
「もうやめろよ」
「またお前か」
「嫌がってるだろ」
「お前には関係ねえって言ってんだろ」
「あるよ」
「何が?」
前なら答えられなかった。
でも、今は違う。
俺はゆかりの手を取った。
「俺の彼女に手、出さないでください」
哲平の顔から表情が消えた。
「……彼女?」
「そうだよ」
哲平がゆかりを見る。
「嘘だろ?」
ゆかりは何も言わない。
俺の手も離さなかった。
「……マジなの?」
「うん」
ゆかりが答えた。
「私、奏くんと付き合ってる」
哲平の顔が歪んだ。
「ふざけんなよ」
「哲平」
「何でお前なんだよ!」
いきなり胸ぐらを掴まれた。
「離せよ」
「何でお前なんだよ!」
「俺に言われても――」
拳が飛んできた。
頬に衝撃が走る。
「奏くん!」
「哲平、やめろ!」
「うるせえ!」
哲平がもう一度向かってくる。
俺は腕を掴んだ。
「やめろって!」
「離せ!」
もみ合いになる。
「お前がいなけりゃ!」
「哲平!」
「全部お前のせいだ!」
「やめろ!」
また拳が飛んできた。
俺も押し返す。
そのときだった。
「お前ら何やってんだ!」
真司の声が響いた。
哲平の動きが止まる。
「店の前で何やってる!」
真司が俺たちの間に入った。
「奏、大丈夫か?」
「……はい」
「武藤、お前またか?」
「またって何だよ」
「この前も揉めたんだろ」
哲平が舌打ちする。
真司がゆかりを見る。
「鮎田さん、何があった?」
ゆかりは一瞬迷ったあと、口を開いた。
「哲平くんが……また話そうって」
「それだけじゃねえだろ!」
「武藤は黙ってろ」
真司の声が低くなる。
ゆかりは続けた。
「この前も、無理やりキスされそうになって……奏くんが助けてくれたんです」
「…………」
真司の表情が変わった。
「それで?」
「そのときも哲平くんが奏くんを殴って……」
「違う! こいつが邪魔するからだろ!」
「だからって殴っていいわけないだろ!」
真司が怒鳴った。
哲平が黙る。
「もういい」
「何が?」
「武藤。お前、今日で辞めろ」
「……は?」
「これ以上、店で問題起こされたら困る」
「ふざけんなよ」
「ふざけてない」
「俺だけが悪いのかよ!」
「少なくとも今、先に手を出したのはお前だろ」
「……クソが」
哲平が俺を見る。
次に、ゆかり。
そして真司。
「全員、俺が悪いみたいな顔しやがって」
「武藤」
「……あんたも同じだろ」
真司の眉が動いた。
「何?」
「人の好きな女に手ぇ出したくせに、偉そうにすんなよ」
「哲平!」
ゆかりが声を上げた。
「もっと言ってやろうか?セックスしまくってたんだろ?!」
哲平は鼻で笑った。
「何だよ。ほんとのことだろ?」
真司の表情が固まる。
俺は意味が分からず、三人を見た。
「何の話……?」
「奏くん」
ゆかりが俺を見る。
「何でもないから」
哲平が笑った。
「何が何でもないんだよ。奏、お前、何にも知らねえんだな」
「何だよ」
「やめて!」
ゆかりの声が響いた。
哲平はしばらく俺を見ていた。
やがて、
「……全員、覚えとけよ」
そう吐き捨て、歩いていった。
その後、通行人が警察に電話をしたらしく、お巡りさんが来た。
俺とゆかりも事情を聞かれた。
真司が奏を見る。
「……奏」
「はい?」
「さっき言ってたけど、お前ら、付き合ってるのか?」
「……はい」
「いつから?」
「最近です」
「そうか」
真司がゆかりを見る。
ゆかりは何も言わなかった。
「…………」
真司はそれ以上、何も聞かなかった。
翌日。
かの子は機嫌よくレジに立っていた。
「真司、これお願い」
「ああ」
「そうだ。帰り、牛乳買ってきて」
「自分で買えよ。ここコンビニだぞ」
「真司が買ってくれたほうが嬉しいの」
「意味分かんねえ」
「いいじゃない」
かの子が笑う。
真司も苦笑した。
そんな二人のやり取りを、ゆかりは黙って聞いていた。
「じゃ、ちょっと集金行ってくるわ」
真司が時計を見る。
「この時間、道混むんだよな」
「そう?」
かの子は笑顔のまま答えた。
「ゆっくり行ってきたらいいじゃない」
「……ああ」
「気をつけてね」
「ああ」
真司は店を出た。
かの子は疑っていない。
真司が自分を選んだ。
そう信じていた。
店を出た真司は、車に乗った。
スマートフォンを取り出す。
しばらく画面を見つめてから、短いメッセージを送った。
―ちゃんと話そう―
ゆかりのスマートフォンが震えた。
画面を見た瞬間、指が止まる。
真司からだった。
―ちゃんと話そう―
「…………」
返事をしないまま、画面を閉じた。
もう、会わないほうがいい。
奏と付き合うと決めた。
そう思っていた。
もう一度、スマートフォンが震える。
―待ってる―
ゆかりは目を閉じた。
それでも――。
数十分後。
具合が悪い。と、早退したゆかりは真司の車の助手席にいた。
「……どこ行くの?」
「話せるところ」
「ここでも話せるでしょ」
「無理だ」
車は走り続ける。
見覚えのある建物が近づいてきた。
「……真司さん」
返事はない。
車はそのまま、ラブホテルの駐車場へ入った。
部屋に入っても、二人の間には距離があった。
「何の話?」
ゆかりが先に口を開いた。
真司は答えず、ゆかりを見ている。
「真司さん?」
「奏と付き合ってんのか」
「…………」
「本当なのか?」
「うん」
真司の表情が曇った。
「何で」
「何でって?」
「俺がいるだろ」
ゆかりは思わず笑った。
「何それ」
「何がおかしいんだよ」
「真司さん、かの子さんを選んだんでしょ?」
「違う」
「何が違うの?」
「それは……」
「ほら」
ゆかりは目を逸らした。
「もう、こういうのやめよう」
「…………」
「奏くんと付き合うって決めたから」
「奏のこと好きなのか?」
「うん」
即答だった。
真司の顔が強張る。
「……俺と奏、どっちが好きなんだよ」
ゆかりは真司を見た。
少しの沈黙。
そして――。
「奏」
真司は何も言わなかった。
「だから、もう帰るね」
ゆかりが立ち上がる。
その腕を真司が掴んだ。
「……離して」
「嫌だ」
「真司さん」
「離さない」
強く引き寄せられた。
「ちょっと……」
「奏になんか渡さない」
「何言ってるの?」
「俺はお前を離さない」
「だったら、どうして――」
言葉を遮るように、真司が唇を重ねた。
ゆかりは顔を背けた。
「やめて」
真司の動きが止まる。
「……奏と付き合ってるの」
「分かってる」
「だったら」
「分かってるよ」
真司は苦しそうにゆかりを見た。
「でも無理なんだよ」
「…………」
「お前が他の男のものになるなんて、考えたくない」
初めて聞く言葉だった。
いつも待ってくれと言うだけだった男が。
いつも自分から追いかけなければ、離れていきそうだった男が。
今は、自分を離さないと言っている。
「……ずるいよ」
ゆかりが呟いた。
「今さら、そんなこと言うの?」
「悪い」
「ずっと待ってたのに」
「分かってる」
「分かってないよ」
「分かってる」
真司がゆかりを抱きしめた。
「離して」
そう言った声は、さっきより弱かった。
「……ゆかり」
真司がもう一度、ゆっくり顔を近づける。
今度は、ゆかりも顔を背けなかった。
唇が重なる。
それでも以前とは違った。
真司が求めるほど、ゆかりは求めていない。
真司が抱きしめるほど、ゆかりの腕には力が入らない。
それ以上、ゆかりは何も言わなかった。
真司の腕の中で、ただ目を閉じた。
一瞬だけ――。
奏の顔が浮かんだ。
それでも。
ゆかりは真司から離れなかった。
二時間後。
ゆかりは黙って服を整えていた。
真司がベッドからその背中を見る。
「ゆかり」
「何?」
「また連絡する」
「……うん」
以前なら、その言葉を待っていた。
次はいつ会えるのか。
いつ離婚するのか。
何度も聞いた。
今日は、何も聞かなかった。
ゆかりがバッグを手に取る。
「じゃあ、帰るね」
「待って、奏とセックスしたのか?」
ゆかりが振り返る。
真司はまっすぐ、ゆかりを見ていた。
「奏とは別れろ」
ゆかりの表情が止まる。
「…………」
「別れてくれ」
ゆかりはしばらく真司を見つめた。
そして静かに答えた。
「それはできない」
ドアが閉まる。
一人残された真司は、何も言わずクッションを、壁に投げつけた。
俺の服を掴んだまま、なかなか離そうとしない。
「……もう大丈夫だから」
「うん……」
「送ってくよ」
「でも」
「一人で帰らせられないよ」
ゆかりは少し迷ってから、小さく頷いた。
「……ありがとう」
駅までの道を、二人でゆっくり歩いた。
いつもなら何か話しているはずなのに、今日は会話が続かない。
哲平に殴られた頬が痛む。
それでも、隣を歩くゆかりのほうが気になった。
「奏くん」
「ん?」
「痛い?」
「これ?」
頬に触れる。
「大丈夫。たいしたことないよ」
「嘘」
「ほんとだって」
「私のせいだね」
ゆかりが俯く。
「違うよ」
「でも……」
「ゆかりのせいじゃない」
俺は足を止めた。
ゆかりも立ち止まる。
「哲平が勝手にやったことだろ」
「…………」
「だから、そんな顔すんなって」
ゆかりは俺を見つめた。
そして、少しだけ笑った。
「奏くんって、優しいね」
「そうかな」
「うん」
また歩き出す。
しばらくして、ゆかりがぽつりと言った。
「ねえ」
「何?」
「この前の返事……まだしてなかったよね」
胸が大きく鳴った。
「……うん」
「私ね」
ゆかりが立ち止まった。
俺も足を止める。
「奏くんと一緒にいると、安心する」
「…………」
「だから……」
ゆかりは少し恥ずかしそうに笑った。
「私でよかったら、よろしくお願いします」
一瞬、意味が分からなかった。
「……それって」
「言わせるの?」
「いや、だって……」
ゆかりが笑う。
「付き合おうって言ったの、奏くんでしょ?」
「言ったけど」
「じゃあ決まり」
「……ほんとに?」
「うん」
嬉しかった。
頬の痛みなんて、一瞬でどうでもよくなった。
「ゆかり」
「何?」
「……ありがとう」
「何それ」
ゆかりが笑った。
俺も笑った。
その日。
俺とゆかりは、恋人になった。
数日後。
「ゆかり」
聞き覚えのある声に、ゆかりの表情が曇った。
店の外に哲平が立っている。
「……何?」
「ちょっと話そうよ」
「話すことないから」
「この前のことなら謝るって」
「もういい」
「よくないだろ」
哲平がゆかりへ近づく。
「俺、ちゃんと話したいんだよ」
「私は話したくない」
「ゆかり」
「やめて」
俺はレジからその様子を見ていた。
すぐに外へ出る。
「哲平」
「あ?」
俺はゆかりと哲平の間に入った。
「もうやめろよ」
「またお前か」
「嫌がってるだろ」
「お前には関係ねえって言ってんだろ」
「あるよ」
「何が?」
前なら答えられなかった。
でも、今は違う。
俺はゆかりの手を取った。
「俺の彼女に手、出さないでください」
哲平の顔から表情が消えた。
「……彼女?」
「そうだよ」
哲平がゆかりを見る。
「嘘だろ?」
ゆかりは何も言わない。
俺の手も離さなかった。
「……マジなの?」
「うん」
ゆかりが答えた。
「私、奏くんと付き合ってる」
哲平の顔が歪んだ。
「ふざけんなよ」
「哲平」
「何でお前なんだよ!」
いきなり胸ぐらを掴まれた。
「離せよ」
「何でお前なんだよ!」
「俺に言われても――」
拳が飛んできた。
頬に衝撃が走る。
「奏くん!」
「哲平、やめろ!」
「うるせえ!」
哲平がもう一度向かってくる。
俺は腕を掴んだ。
「やめろって!」
「離せ!」
もみ合いになる。
「お前がいなけりゃ!」
「哲平!」
「全部お前のせいだ!」
「やめろ!」
また拳が飛んできた。
俺も押し返す。
そのときだった。
「お前ら何やってんだ!」
真司の声が響いた。
哲平の動きが止まる。
「店の前で何やってる!」
真司が俺たちの間に入った。
「奏、大丈夫か?」
「……はい」
「武藤、お前またか?」
「またって何だよ」
「この前も揉めたんだろ」
哲平が舌打ちする。
真司がゆかりを見る。
「鮎田さん、何があった?」
ゆかりは一瞬迷ったあと、口を開いた。
「哲平くんが……また話そうって」
「それだけじゃねえだろ!」
「武藤は黙ってろ」
真司の声が低くなる。
ゆかりは続けた。
「この前も、無理やりキスされそうになって……奏くんが助けてくれたんです」
「…………」
真司の表情が変わった。
「それで?」
「そのときも哲平くんが奏くんを殴って……」
「違う! こいつが邪魔するからだろ!」
「だからって殴っていいわけないだろ!」
真司が怒鳴った。
哲平が黙る。
「もういい」
「何が?」
「武藤。お前、今日で辞めろ」
「……は?」
「これ以上、店で問題起こされたら困る」
「ふざけんなよ」
「ふざけてない」
「俺だけが悪いのかよ!」
「少なくとも今、先に手を出したのはお前だろ」
「……クソが」
哲平が俺を見る。
次に、ゆかり。
そして真司。
「全員、俺が悪いみたいな顔しやがって」
「武藤」
「……あんたも同じだろ」
真司の眉が動いた。
「何?」
「人の好きな女に手ぇ出したくせに、偉そうにすんなよ」
「哲平!」
ゆかりが声を上げた。
「もっと言ってやろうか?セックスしまくってたんだろ?!」
哲平は鼻で笑った。
「何だよ。ほんとのことだろ?」
真司の表情が固まる。
俺は意味が分からず、三人を見た。
「何の話……?」
「奏くん」
ゆかりが俺を見る。
「何でもないから」
哲平が笑った。
「何が何でもないんだよ。奏、お前、何にも知らねえんだな」
「何だよ」
「やめて!」
ゆかりの声が響いた。
哲平はしばらく俺を見ていた。
やがて、
「……全員、覚えとけよ」
そう吐き捨て、歩いていった。
その後、通行人が警察に電話をしたらしく、お巡りさんが来た。
俺とゆかりも事情を聞かれた。
真司が奏を見る。
「……奏」
「はい?」
「さっき言ってたけど、お前ら、付き合ってるのか?」
「……はい」
「いつから?」
「最近です」
「そうか」
真司がゆかりを見る。
ゆかりは何も言わなかった。
「…………」
真司はそれ以上、何も聞かなかった。
翌日。
かの子は機嫌よくレジに立っていた。
「真司、これお願い」
「ああ」
「そうだ。帰り、牛乳買ってきて」
「自分で買えよ。ここコンビニだぞ」
「真司が買ってくれたほうが嬉しいの」
「意味分かんねえ」
「いいじゃない」
かの子が笑う。
真司も苦笑した。
そんな二人のやり取りを、ゆかりは黙って聞いていた。
「じゃ、ちょっと集金行ってくるわ」
真司が時計を見る。
「この時間、道混むんだよな」
「そう?」
かの子は笑顔のまま答えた。
「ゆっくり行ってきたらいいじゃない」
「……ああ」
「気をつけてね」
「ああ」
真司は店を出た。
かの子は疑っていない。
真司が自分を選んだ。
そう信じていた。
店を出た真司は、車に乗った。
スマートフォンを取り出す。
しばらく画面を見つめてから、短いメッセージを送った。
―ちゃんと話そう―
ゆかりのスマートフォンが震えた。
画面を見た瞬間、指が止まる。
真司からだった。
―ちゃんと話そう―
「…………」
返事をしないまま、画面を閉じた。
もう、会わないほうがいい。
奏と付き合うと決めた。
そう思っていた。
もう一度、スマートフォンが震える。
―待ってる―
ゆかりは目を閉じた。
それでも――。
数十分後。
具合が悪い。と、早退したゆかりは真司の車の助手席にいた。
「……どこ行くの?」
「話せるところ」
「ここでも話せるでしょ」
「無理だ」
車は走り続ける。
見覚えのある建物が近づいてきた。
「……真司さん」
返事はない。
車はそのまま、ラブホテルの駐車場へ入った。
部屋に入っても、二人の間には距離があった。
「何の話?」
ゆかりが先に口を開いた。
真司は答えず、ゆかりを見ている。
「真司さん?」
「奏と付き合ってんのか」
「…………」
「本当なのか?」
「うん」
真司の表情が曇った。
「何で」
「何でって?」
「俺がいるだろ」
ゆかりは思わず笑った。
「何それ」
「何がおかしいんだよ」
「真司さん、かの子さんを選んだんでしょ?」
「違う」
「何が違うの?」
「それは……」
「ほら」
ゆかりは目を逸らした。
「もう、こういうのやめよう」
「…………」
「奏くんと付き合うって決めたから」
「奏のこと好きなのか?」
「うん」
即答だった。
真司の顔が強張る。
「……俺と奏、どっちが好きなんだよ」
ゆかりは真司を見た。
少しの沈黙。
そして――。
「奏」
真司は何も言わなかった。
「だから、もう帰るね」
ゆかりが立ち上がる。
その腕を真司が掴んだ。
「……離して」
「嫌だ」
「真司さん」
「離さない」
強く引き寄せられた。
「ちょっと……」
「奏になんか渡さない」
「何言ってるの?」
「俺はお前を離さない」
「だったら、どうして――」
言葉を遮るように、真司が唇を重ねた。
ゆかりは顔を背けた。
「やめて」
真司の動きが止まる。
「……奏と付き合ってるの」
「分かってる」
「だったら」
「分かってるよ」
真司は苦しそうにゆかりを見た。
「でも無理なんだよ」
「…………」
「お前が他の男のものになるなんて、考えたくない」
初めて聞く言葉だった。
いつも待ってくれと言うだけだった男が。
いつも自分から追いかけなければ、離れていきそうだった男が。
今は、自分を離さないと言っている。
「……ずるいよ」
ゆかりが呟いた。
「今さら、そんなこと言うの?」
「悪い」
「ずっと待ってたのに」
「分かってる」
「分かってないよ」
「分かってる」
真司がゆかりを抱きしめた。
「離して」
そう言った声は、さっきより弱かった。
「……ゆかり」
真司がもう一度、ゆっくり顔を近づける。
今度は、ゆかりも顔を背けなかった。
唇が重なる。
それでも以前とは違った。
真司が求めるほど、ゆかりは求めていない。
真司が抱きしめるほど、ゆかりの腕には力が入らない。
それ以上、ゆかりは何も言わなかった。
真司の腕の中で、ただ目を閉じた。
一瞬だけ――。
奏の顔が浮かんだ。
それでも。
ゆかりは真司から離れなかった。
二時間後。
ゆかりは黙って服を整えていた。
真司がベッドからその背中を見る。
「ゆかり」
「何?」
「また連絡する」
「……うん」
以前なら、その言葉を待っていた。
次はいつ会えるのか。
いつ離婚するのか。
何度も聞いた。
今日は、何も聞かなかった。
ゆかりがバッグを手に取る。
「じゃあ、帰るね」
「待って、奏とセックスしたのか?」
ゆかりが振り返る。
真司はまっすぐ、ゆかりを見ていた。
「奏とは別れろ」
ゆかりの表情が止まる。
「…………」
「別れてくれ」
ゆかりはしばらく真司を見つめた。
そして静かに答えた。
「それはできない」
ドアが閉まる。
一人残された真司は、何も言わずクッションを、壁に投げつけた。


