翌朝。
「おはようございまーす」
いつもと変わらない声で、ゆかりが店に入ってきた。
バックヤードへ向かおうとして、レジに立つかの子に気づく。
「かの子さん、おはようございます」
「…………」
返事がない。
ゆかりは、一度制服に着替え、また挨拶に向かおうとした。
「……かの子さん?」
かの子がゆっくり顔を上げた。
その目を見て、ゆかりの笑顔が消える。
「よく平気な顔して来られるわね」
「……え?」
「聞こえなかった?」
低い声だった。
いつもの不機嫌な態度とは違う。
「よく平気な顔して、ここに来られるわねって言ったのよ」
「何のことですか?」
ゆかりは本当に分からないような顔をした。
それが、かの子の神経をさらに逆撫でした。
「何のこと?」
かの子が笑った。
「へえ。そういう態度取るんだ」
「だから、何が――」
「昨日よ!」
突然の大声に、店内にいた客が振り返った。
ゆかりの身体が固まる。
「昨日……?」
「とぼけないでよ!」
バックヤードにいた俺にも、かの子さんの声が聞こえた。
何事かと思って店に出る。
「どうしたんですか?」
レジの前で、かの子さんとゆかりが向かい合っていた。
ゆかりの顔色が悪い。
「奏くん……」
俺はゆかりのそばへ行った。
「何かあった?」
「分かんない……急に、かの子さんが」
「分かんない?」
かの子さんが声を上げた。
「まだとぼけるの!?」
「ちょっと、かの子さん」
俺は二人の間へ入った。
「ゆかりが何したんですか?」
「奏くんには関係ないわよ!」
「でも――」
「関係ないって言ってるでしょ!」
その声を聞きつけたのか、奥から真司が出てきた。
「おい、かの子。店で何やってるんだよ!」
かの子の目が真司へ向いた。
空気が変わった。
「……あんた」
「なんだよ」
「昨日、どこにいたの?」
真司の表情がわずかに固まった。
ほんの一瞬だった。
でも、俺には分かった。
「昨日?」
「そうよ」
「仕事終わってから、ちょっと出てただけだろ」
「どこに?」
「なんだよ、急に」
「どこにいたのか聞いてんのよ!」
店内が静まり返る。
客がこっちを見ている。
真司が声を落とした。
「かの子。ここ店だから。あとで話そう」
「あとで?」
かの子が鼻で笑った。
「昨日も帰ってきたの遅かったわよね」
「だから、それは――」
「あの子と一緒だったからでしょ!」
かの子の指が、ゆかりへ向いた。
「……え?」
俺は思わずゆかりを見た。
ゆかりは何も言わない。
「かの子さん、何言って――」
「奏くん!」
俺の言葉を遮って、かの子が叫んだ。
「この子に聞いてみなさいよ!」
「……何を?」
「昨日、うちの旦那と何してたのか!」
胸の奥がざわついた。
俺はゆかりを見る。
「ゆかり……?」
「…………」
「昨日、店長と会ってたの?」
ゆかりは俯いたまま答えない。
その沈黙だけで、何かがおかしいことは分かった。
「ほら!」
かの子が叫ぶ。
「言えないじゃない!」
「かの子、やめろ!」
真司が腕を掴もうとする。
「触らないで!」
かの子さんは、その手を激しく振り払った。
「昨日も言ったでしょ! 私に触らないでって!」
「落ち着けって」
「これが落ち着いていられる!?」
かの子さんの目に涙が浮かんでいた。
怒っている。
でも、それだけじゃない。
「私、見たのよ」
その一言で、真司さんの顔色が変わった。
ゆかりも顔を上げる。
「……何を?」
ゆかりが小さく聞いた。
かの子さんは、ゆかりを睨んだ。
「昨日、真司の車に乗ったでしょ」
ゆかりの唇がわずかに開いた。
「助手席に座って」
さらに。
「二人でキスしてたでしょ!」
「…………」
俺は何も言えなかった。
聞き間違いだと思いたかった。
ゆかりが?
店長と?
「嘘……だろ?」
気づいたら声が出ていた。
ゆかりは俺を見た。
「奏くん……」
否定してほしかった。
違うって。
かの子さんの勘違いだって。
でも、ゆかりは何も言わなかった。
「何よ、その顔!」
かの子がゆかりへ詰め寄る。
「私の前では何にもありませんみたいな顔して! 裏で何やってんのよ!」
「…………」
「前から気に入らなかったのよ! あんたにだけベタベタベタベタ! ちょっと顔が可愛いからって!」
「かの子!」
「うるさい!」
かの子が真司を睨みつける。
「この子、十九でしょ!? あんた三十四よ! 何やってんのよ!」
真司は答えなかった。
ゆかりが、ぎゅっと拳を握った。
「……私だけが悪いみたいに言わないでください」
かの子さんの表情が止まった。
「……何ですって?」
「私だけが悪いんじゃないです」
「ゆかり」
真司が止めようとする。
けれど、ゆかりは真司を見た。
そして――。
「真司さんは、奥さんと別れるって言ってます」
「おい!」
真司の声が響いた。
俺は息を呑んだ。
かの子は動かなかった。
「…………何?」
さっきまでの怒鳴り声が嘘のような、小さな声だった。
ゆかりも引かなかった。
「真司さん、言ったよね?」
「今ここで話すことじゃない」
「言ったよね?」
「ゆかり!」
かの子がゆっくり真司を見る。
「……別れる?」
「かの子、違う。とにかく落ち着いて――」
「何が違うの?」
「話を聞けって」
「何が違うのよ!!」
かの子の叫び声が店内に響いた。
そのとき。
「すみません!」
俺は思わず声を張った。
三人が俺を見る。
俺自身、何を言えばいいのか分からなかった。
胸が苦しかった。
ゆかりが店長と付き合っていた。
しかも不倫。
正直、ショックだった。
それでも。
目の前でゆかりが責められているのを、黙って見ていることはできなかった。
「ここ、お店です」
かの子さんが俺を睨む。
「だから何?」
「お客さんも見てます。話すなら……せめて裏で」
「奏くん、あんたね――」
「ゆかりだけ責めるのは違うと思います」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
ゆかりが俺を見る。
「店長だって同じじゃないですか」
「奏」
真司が低い声で俺を呼んだ。
怖かった。
でも、引きたくなかった。
「俺、昨日まで何も知りませんでした。でも……ゆかり一人だけが悪いみたいに言われるのは、おかしいです」
「奏くん……」
ゆかりの声が震えていた。
俺はゆかりの前に立った。
好きだった。
いや。
今だって好きだ。
だからこそ、知りたくなかった。
こんなこと。
それでも――。
困っているゆかりを放っておくなんて、俺にはできなかった。
少し離れた場所で、一部始終を見ていた男がいた。
哲平だった。
哲平は、ゆかりの前に立つ奏をじっと見ていた。
ゆかりを庇うように立つ、奏の背中。
その姿をしばらく見つめたあと――。
哲平の口元が、ゆっくりと歪んだ。
そして、ニヤリと笑った。
「おはようございまーす」
いつもと変わらない声で、ゆかりが店に入ってきた。
バックヤードへ向かおうとして、レジに立つかの子に気づく。
「かの子さん、おはようございます」
「…………」
返事がない。
ゆかりは、一度制服に着替え、また挨拶に向かおうとした。
「……かの子さん?」
かの子がゆっくり顔を上げた。
その目を見て、ゆかりの笑顔が消える。
「よく平気な顔して来られるわね」
「……え?」
「聞こえなかった?」
低い声だった。
いつもの不機嫌な態度とは違う。
「よく平気な顔して、ここに来られるわねって言ったのよ」
「何のことですか?」
ゆかりは本当に分からないような顔をした。
それが、かの子の神経をさらに逆撫でした。
「何のこと?」
かの子が笑った。
「へえ。そういう態度取るんだ」
「だから、何が――」
「昨日よ!」
突然の大声に、店内にいた客が振り返った。
ゆかりの身体が固まる。
「昨日……?」
「とぼけないでよ!」
バックヤードにいた俺にも、かの子さんの声が聞こえた。
何事かと思って店に出る。
「どうしたんですか?」
レジの前で、かの子さんとゆかりが向かい合っていた。
ゆかりの顔色が悪い。
「奏くん……」
俺はゆかりのそばへ行った。
「何かあった?」
「分かんない……急に、かの子さんが」
「分かんない?」
かの子さんが声を上げた。
「まだとぼけるの!?」
「ちょっと、かの子さん」
俺は二人の間へ入った。
「ゆかりが何したんですか?」
「奏くんには関係ないわよ!」
「でも――」
「関係ないって言ってるでしょ!」
その声を聞きつけたのか、奥から真司が出てきた。
「おい、かの子。店で何やってるんだよ!」
かの子の目が真司へ向いた。
空気が変わった。
「……あんた」
「なんだよ」
「昨日、どこにいたの?」
真司の表情がわずかに固まった。
ほんの一瞬だった。
でも、俺には分かった。
「昨日?」
「そうよ」
「仕事終わってから、ちょっと出てただけだろ」
「どこに?」
「なんだよ、急に」
「どこにいたのか聞いてんのよ!」
店内が静まり返る。
客がこっちを見ている。
真司が声を落とした。
「かの子。ここ店だから。あとで話そう」
「あとで?」
かの子が鼻で笑った。
「昨日も帰ってきたの遅かったわよね」
「だから、それは――」
「あの子と一緒だったからでしょ!」
かの子の指が、ゆかりへ向いた。
「……え?」
俺は思わずゆかりを見た。
ゆかりは何も言わない。
「かの子さん、何言って――」
「奏くん!」
俺の言葉を遮って、かの子が叫んだ。
「この子に聞いてみなさいよ!」
「……何を?」
「昨日、うちの旦那と何してたのか!」
胸の奥がざわついた。
俺はゆかりを見る。
「ゆかり……?」
「…………」
「昨日、店長と会ってたの?」
ゆかりは俯いたまま答えない。
その沈黙だけで、何かがおかしいことは分かった。
「ほら!」
かの子が叫ぶ。
「言えないじゃない!」
「かの子、やめろ!」
真司が腕を掴もうとする。
「触らないで!」
かの子さんは、その手を激しく振り払った。
「昨日も言ったでしょ! 私に触らないでって!」
「落ち着けって」
「これが落ち着いていられる!?」
かの子さんの目に涙が浮かんでいた。
怒っている。
でも、それだけじゃない。
「私、見たのよ」
その一言で、真司さんの顔色が変わった。
ゆかりも顔を上げる。
「……何を?」
ゆかりが小さく聞いた。
かの子さんは、ゆかりを睨んだ。
「昨日、真司の車に乗ったでしょ」
ゆかりの唇がわずかに開いた。
「助手席に座って」
さらに。
「二人でキスしてたでしょ!」
「…………」
俺は何も言えなかった。
聞き間違いだと思いたかった。
ゆかりが?
店長と?
「嘘……だろ?」
気づいたら声が出ていた。
ゆかりは俺を見た。
「奏くん……」
否定してほしかった。
違うって。
かの子さんの勘違いだって。
でも、ゆかりは何も言わなかった。
「何よ、その顔!」
かの子がゆかりへ詰め寄る。
「私の前では何にもありませんみたいな顔して! 裏で何やってんのよ!」
「…………」
「前から気に入らなかったのよ! あんたにだけベタベタベタベタ! ちょっと顔が可愛いからって!」
「かの子!」
「うるさい!」
かの子が真司を睨みつける。
「この子、十九でしょ!? あんた三十四よ! 何やってんのよ!」
真司は答えなかった。
ゆかりが、ぎゅっと拳を握った。
「……私だけが悪いみたいに言わないでください」
かの子さんの表情が止まった。
「……何ですって?」
「私だけが悪いんじゃないです」
「ゆかり」
真司が止めようとする。
けれど、ゆかりは真司を見た。
そして――。
「真司さんは、奥さんと別れるって言ってます」
「おい!」
真司の声が響いた。
俺は息を呑んだ。
かの子は動かなかった。
「…………何?」
さっきまでの怒鳴り声が嘘のような、小さな声だった。
ゆかりも引かなかった。
「真司さん、言ったよね?」
「今ここで話すことじゃない」
「言ったよね?」
「ゆかり!」
かの子がゆっくり真司を見る。
「……別れる?」
「かの子、違う。とにかく落ち着いて――」
「何が違うの?」
「話を聞けって」
「何が違うのよ!!」
かの子の叫び声が店内に響いた。
そのとき。
「すみません!」
俺は思わず声を張った。
三人が俺を見る。
俺自身、何を言えばいいのか分からなかった。
胸が苦しかった。
ゆかりが店長と付き合っていた。
しかも不倫。
正直、ショックだった。
それでも。
目の前でゆかりが責められているのを、黙って見ていることはできなかった。
「ここ、お店です」
かの子さんが俺を睨む。
「だから何?」
「お客さんも見てます。話すなら……せめて裏で」
「奏くん、あんたね――」
「ゆかりだけ責めるのは違うと思います」
自分でも驚くほど、はっきり言えた。
ゆかりが俺を見る。
「店長だって同じじゃないですか」
「奏」
真司が低い声で俺を呼んだ。
怖かった。
でも、引きたくなかった。
「俺、昨日まで何も知りませんでした。でも……ゆかり一人だけが悪いみたいに言われるのは、おかしいです」
「奏くん……」
ゆかりの声が震えていた。
俺はゆかりの前に立った。
好きだった。
いや。
今だって好きだ。
だからこそ、知りたくなかった。
こんなこと。
それでも――。
困っているゆかりを放っておくなんて、俺にはできなかった。
少し離れた場所で、一部始終を見ていた男がいた。
哲平だった。
哲平は、ゆかりの前に立つ奏をじっと見ていた。
ゆかりを庇うように立つ、奏の背中。
その姿をしばらく見つめたあと――。
哲平の口元が、ゆっくりと歪んだ。
そして、ニヤリと笑った。


