哲平の前に、弁護士が座っていた。
「武藤さん。やっていないのなら、やっていないことを前提に話を整理しましょう」
哲平は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「……何回言っても、信じてもらえねえんだよ」
「私には、最初から全部話してください」
哲平が顔を上げる。
「店に入ってから、出るまで。見たものも、したことも、覚えていることを全部です」
「……店長と話をするつもりで、店に行った」
「はい」
「店に入ったら……店長が倒れてた」
哲平の声が小さくなる。
「近くまで行って……死んでるって分かって……」
「それから?」
「怖くなって逃げた」
「誰かを見ましたか?」
哲平は首を横に振った。
「誰も見てねえ」
「店の中で、何か触りましたか?」
哲平は少し考えてから答えた。
「……覚えてない」
弁護士はそれ以上急かさなかった。
「分かりました。思い出せないことを、無理に答える必要はありません」
哲平は両手を握りしめた。
「先生」
「はい」
「俺……ほんとにやってないんだ」
弁護士は哲平を見た。
「分かりました」
「警察は信じてくれねえ」
「警察がどう考えているかと、あなたが何をしたのかは別の話です」
哲平は黙っている。
「やっていないのなら、やっていないことを前提に、一つずつ確認していきましょう」
哲平はしばらく俯いていた。
やがて、小さく頷いた。
「……お願いします」
沖島真司を殺害した疑いで逮捕された哲平は、今も容疑を否認していた。
何度聞かれても、答えは変わらない。
――俺じゃない。
――店長は、俺が行ったときにはもう死んでいた。
それでも、事件について報じるニュースは少しずつ減っていった。
あれほど騒がしかった日々が、嘘だったかのように。
街はいつもの時間を取り戻し始めていた。
「まだ否認してるそうです」
森刑事が資料を机に置いた。
堀田刑事は書類から顔を上げる。
「そうか」
「ずっと同じことを言ってます」
「……ああ」
堀田は再び資料を見る。
森はしばらく黙っていた。
「堀田さん」
「なんだ?」
「本当に……武藤なんでしょうか」
堀田の手が止まる。
少しの沈黙。
「俺たちが決めることじゃない」
「でも――」
「森」
堀田が顔を上げた。
「調べるところまでは、調べた」
森は何も言わなかった。
机の上には、事件の資料が残されていた。
かの子は、一人で部屋を片づけていた。
クローゼットを開ける。
真司の服。
棚には、使われなくなった腕時計。
何気なく手に取る。
「……バカ」
小さな声が漏れた。
裏切られた。
何度も嘘をつかれた。
あの女と別れてほしかった。
怒った。
憎んだ。
殺して自分も死んでやるとまで言った。
それでも――
腕時計を握ったまま、かの子は俯いた。
「……ほんと、バカ」
頬を涙が伝った。
かの子はそれを拭わなかった。
「奏くん」
「ん?」
「今日、どこ行く?」
休日。
待ち合わせ場所で会ったゆかりは、奏の腕に抱きついた。
「決めてなかった」
「奏くんが決めてくれると思ってた」
「俺?」
「うん」
「じゃあ……飯?」
「それだけ?」
「映画」
「そのあと?」
「買い物して帰る」
ゆかりが奏の顔を覗き込む。
「ほんとに?」
「……何だよ」
「行きたいところ、ほかにあるんじゃない?」
「ないけど」
「ふーん」
「何だよ、その顔」
ゆかりが笑う。
「奏くん、顔に出るから」
「出てない」
「出てる」
「出てないって」
「じゃあ今日はホテルなしね」
奏が黙った。
「ほら」
「……ずるいだろ」
「何が?」
「分かってて言ってるだろ」
「何のことかなぁ」
ゆかりは楽しそうに笑いながら、奏の手を握った。
映画を見た。
食事をした。
店を見て回った。
事件の話は、一度もしなかった。
夕方。
駅へ向かって歩いていた二人の足が、いつの間にか止まっていた。
目の前にはホテル。
ゆかりが建物を見上げる。
それから、隣の奏を見る。
「……どうする?」
「俺に聞く?」
「奏くんが決めて」
「さっきホテルなしって言っただろ」
「言ったっけ?」
「言った」
「覚えてない」
「絶対覚えてるだろ」
「ふふっ」
ゆかりが奏の腕を引く。
「行こ」
「結局行くんじゃん」
「嫌?」
わざと上目遣いに奏を見る。
「……嫌じゃない」
「知ってる」
二人は顔を見合わせて笑った。
部屋の灯りは落とされていた。
カーテンの隙間から、夕方の光がわずかに差し込んでいる。
何度目かのキスを交わして、ゆかりが笑った。
「奏くん」
「ん?」
「最初のころより、慣れたね」
奏の動きが止まる。
「……それ言う?」
「だって」
「比較されてるみたいで嫌なんだけど」
「誰と?」
「…………」
ゆかりが吹き出した。
「ふふっ、冗談だよ」
「笑うなよ」
「ごめん」
そう言いながら、まだ笑っている。
「全然反省してないだろ」
「してるって」
奏はゆかりを抱き寄せた。
「じゃあ、もう喋るな」
「なんで?」
「また変なこと言うから」
「じゃあ――」
ゆかりは奏の首に腕を回した。
「喋れないようにして」
「……後悔すんなよ」
「しないよ」
二人の唇が重なった。
一度離れて、また重なる。
ゆかりの指が奏の髪に触れる。
奏は何も言わず、もう一度ゆかりを抱き寄せた。
やがて、二人は、お互いの服を脱がせ始めた。
どのくらい時間が経ったのだろう。
乱れたシーツの中で、ゆかりは奏の胸に頬を乗せていた。
「……疲れた」
奏が笑う。
「またそれ?」
「だって」
「今回は俺のせいじゃないだろ」
「奏くんのせい」
「なんでだよ」
「頑張ったから」
「ゆかりもだろ」
「私は知らない」
「ずるっ」
ゆかりが笑う。
奏はその髪を指で梳いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ゆかりの指が、奏の胸元をゆっくりとなぞっている。
「……くすぐったい」
「いいじゃん」
「眠くなる」
「寝たら?」
奏が横目でゆかりを見る。
「前みたいに?」
「ふふっ」
「もう寝ないからな」
「なんで?」
「起きたら、また『そんなに寝てない』とか言われるから」
ゆかりが小さく笑った。
「根に持ってる?ホントのこと言ったのに?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、ごめんって」
笑いながらゆかりが言う。
「ほんとかよ」
奏は笑いながら、ゆかりの額にキスをした。
ゆかりが顔を上げる。
「もう一回」
「何が?」
「今の」
奏は今度は頬にキスをする。
「そこじゃない」
「じゃあ、ここ?」
反対の頬。
「違う」
「わがままだな」
「早く」
奏が笑った。
そして、ゆかりの唇にキスをした。
「……これ?」
「正解」
「最初から言えよ」
「言ったらつまんないじゃん」
ゆかりは満足そうに、もう一度奏の胸に頬を寄せた。
そして、また2人の逢瀬が始まる。
「奏くん?さっき疲れたって、あん、そこダメ、かな、で……」
奏は、返事をしない、自分の欲望のままゆかりの身体を激しく抱く。
「ハァハァ、気持ちよかった。ゆかりとだったら、何回でもやれる」
満足げの奏の独り言。
「奏くん」
「ん?」
「これからも、いろんなところ行こうね」
「いいよ」
「またプラネタリウムも」
「気に入ったんだ?」
「うん」
「じゃあ今度は、本物の星も見に行こう」
ゆかりが顔を上げた。
「覚えてたの?」
「当たり前だろ」
「いつ?」
「いつがいい?」
ゆかりは少し考える。
「いつでも」
「じゃあ、そのうちな」
「うん」
奏はゆかりを抱き寄せた。
「これから時間なんて、いくらでもあるだろ」
「……そうだね」
ゆかりが笑った。
「いっぱいあるね」
「うん」
二人は、もう一度キスをした。
ホテルを出たころには、外は暗くなっていた。
奏が周囲を見回す。
ゆかりが笑う。
「何してるの?」
「刑事いないかなって」
「まだ気にしてるの?」
「そりゃ気にするだろ」
「今日は大丈夫だよ」
「なんで分かるんだよ」
「なんとなく」
「信用できない」
「ひどい」
ゆかりが奏の腕に抱きつく。
二人は駅まで歩いた。
改札の前。
「じゃあね」
「うん」
「着いたら連絡して」
「奏くんもね」
「分かった」
ゆかりが少し背伸びをして、奏の頬にキスをした。
「またね」
「……ここでやる?」
「誰も見てないよ」
「そういう問題じゃないだろ」
ゆかりは笑いながら手を振った。
「バイバイ」
「またな」
二人は別々の改札へ向かった。
その夜。
奏からメッセージが届いた。
―今日は楽しかった―
ゆかりはベッドに寝転びながら返信する。
―私も―
すぐに次のメッセージ。
―次どこ行く?―
ゆかりは少し考えてから文字を打つ。
―どこでもいいよ―
―奏くんと一緒なら―
送信。
すぐに既読がついた。
ゆかりはスマートフォンを胸の上に置いた。
そして、静かに目を閉じた。
何事もない夜だった。
「武藤さん。やっていないのなら、やっていないことを前提に話を整理しましょう」
哲平は俯いたまま、しばらく何も言わなかった。
「……何回言っても、信じてもらえねえんだよ」
「私には、最初から全部話してください」
哲平が顔を上げる。
「店に入ってから、出るまで。見たものも、したことも、覚えていることを全部です」
「……店長と話をするつもりで、店に行った」
「はい」
「店に入ったら……店長が倒れてた」
哲平の声が小さくなる。
「近くまで行って……死んでるって分かって……」
「それから?」
「怖くなって逃げた」
「誰かを見ましたか?」
哲平は首を横に振った。
「誰も見てねえ」
「店の中で、何か触りましたか?」
哲平は少し考えてから答えた。
「……覚えてない」
弁護士はそれ以上急かさなかった。
「分かりました。思い出せないことを、無理に答える必要はありません」
哲平は両手を握りしめた。
「先生」
「はい」
「俺……ほんとにやってないんだ」
弁護士は哲平を見た。
「分かりました」
「警察は信じてくれねえ」
「警察がどう考えているかと、あなたが何をしたのかは別の話です」
哲平は黙っている。
「やっていないのなら、やっていないことを前提に、一つずつ確認していきましょう」
哲平はしばらく俯いていた。
やがて、小さく頷いた。
「……お願いします」
沖島真司を殺害した疑いで逮捕された哲平は、今も容疑を否認していた。
何度聞かれても、答えは変わらない。
――俺じゃない。
――店長は、俺が行ったときにはもう死んでいた。
それでも、事件について報じるニュースは少しずつ減っていった。
あれほど騒がしかった日々が、嘘だったかのように。
街はいつもの時間を取り戻し始めていた。
「まだ否認してるそうです」
森刑事が資料を机に置いた。
堀田刑事は書類から顔を上げる。
「そうか」
「ずっと同じことを言ってます」
「……ああ」
堀田は再び資料を見る。
森はしばらく黙っていた。
「堀田さん」
「なんだ?」
「本当に……武藤なんでしょうか」
堀田の手が止まる。
少しの沈黙。
「俺たちが決めることじゃない」
「でも――」
「森」
堀田が顔を上げた。
「調べるところまでは、調べた」
森は何も言わなかった。
机の上には、事件の資料が残されていた。
かの子は、一人で部屋を片づけていた。
クローゼットを開ける。
真司の服。
棚には、使われなくなった腕時計。
何気なく手に取る。
「……バカ」
小さな声が漏れた。
裏切られた。
何度も嘘をつかれた。
あの女と別れてほしかった。
怒った。
憎んだ。
殺して自分も死んでやるとまで言った。
それでも――
腕時計を握ったまま、かの子は俯いた。
「……ほんと、バカ」
頬を涙が伝った。
かの子はそれを拭わなかった。
「奏くん」
「ん?」
「今日、どこ行く?」
休日。
待ち合わせ場所で会ったゆかりは、奏の腕に抱きついた。
「決めてなかった」
「奏くんが決めてくれると思ってた」
「俺?」
「うん」
「じゃあ……飯?」
「それだけ?」
「映画」
「そのあと?」
「買い物して帰る」
ゆかりが奏の顔を覗き込む。
「ほんとに?」
「……何だよ」
「行きたいところ、ほかにあるんじゃない?」
「ないけど」
「ふーん」
「何だよ、その顔」
ゆかりが笑う。
「奏くん、顔に出るから」
「出てない」
「出てる」
「出てないって」
「じゃあ今日はホテルなしね」
奏が黙った。
「ほら」
「……ずるいだろ」
「何が?」
「分かってて言ってるだろ」
「何のことかなぁ」
ゆかりは楽しそうに笑いながら、奏の手を握った。
映画を見た。
食事をした。
店を見て回った。
事件の話は、一度もしなかった。
夕方。
駅へ向かって歩いていた二人の足が、いつの間にか止まっていた。
目の前にはホテル。
ゆかりが建物を見上げる。
それから、隣の奏を見る。
「……どうする?」
「俺に聞く?」
「奏くんが決めて」
「さっきホテルなしって言っただろ」
「言ったっけ?」
「言った」
「覚えてない」
「絶対覚えてるだろ」
「ふふっ」
ゆかりが奏の腕を引く。
「行こ」
「結局行くんじゃん」
「嫌?」
わざと上目遣いに奏を見る。
「……嫌じゃない」
「知ってる」
二人は顔を見合わせて笑った。
部屋の灯りは落とされていた。
カーテンの隙間から、夕方の光がわずかに差し込んでいる。
何度目かのキスを交わして、ゆかりが笑った。
「奏くん」
「ん?」
「最初のころより、慣れたね」
奏の動きが止まる。
「……それ言う?」
「だって」
「比較されてるみたいで嫌なんだけど」
「誰と?」
「…………」
ゆかりが吹き出した。
「ふふっ、冗談だよ」
「笑うなよ」
「ごめん」
そう言いながら、まだ笑っている。
「全然反省してないだろ」
「してるって」
奏はゆかりを抱き寄せた。
「じゃあ、もう喋るな」
「なんで?」
「また変なこと言うから」
「じゃあ――」
ゆかりは奏の首に腕を回した。
「喋れないようにして」
「……後悔すんなよ」
「しないよ」
二人の唇が重なった。
一度離れて、また重なる。
ゆかりの指が奏の髪に触れる。
奏は何も言わず、もう一度ゆかりを抱き寄せた。
やがて、二人は、お互いの服を脱がせ始めた。
どのくらい時間が経ったのだろう。
乱れたシーツの中で、ゆかりは奏の胸に頬を乗せていた。
「……疲れた」
奏が笑う。
「またそれ?」
「だって」
「今回は俺のせいじゃないだろ」
「奏くんのせい」
「なんでだよ」
「頑張ったから」
「ゆかりもだろ」
「私は知らない」
「ずるっ」
ゆかりが笑う。
奏はその髪を指で梳いた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
ゆかりの指が、奏の胸元をゆっくりとなぞっている。
「……くすぐったい」
「いいじゃん」
「眠くなる」
「寝たら?」
奏が横目でゆかりを見る。
「前みたいに?」
「ふふっ」
「もう寝ないからな」
「なんで?」
「起きたら、また『そんなに寝てない』とか言われるから」
ゆかりが小さく笑った。
「根に持ってる?ホントのこと言ったのに?」
「ちょっとだけ」
「じゃあ、ごめんって」
笑いながらゆかりが言う。
「ほんとかよ」
奏は笑いながら、ゆかりの額にキスをした。
ゆかりが顔を上げる。
「もう一回」
「何が?」
「今の」
奏は今度は頬にキスをする。
「そこじゃない」
「じゃあ、ここ?」
反対の頬。
「違う」
「わがままだな」
「早く」
奏が笑った。
そして、ゆかりの唇にキスをした。
「……これ?」
「正解」
「最初から言えよ」
「言ったらつまんないじゃん」
ゆかりは満足そうに、もう一度奏の胸に頬を寄せた。
そして、また2人の逢瀬が始まる。
「奏くん?さっき疲れたって、あん、そこダメ、かな、で……」
奏は、返事をしない、自分の欲望のままゆかりの身体を激しく抱く。
「ハァハァ、気持ちよかった。ゆかりとだったら、何回でもやれる」
満足げの奏の独り言。
「奏くん」
「ん?」
「これからも、いろんなところ行こうね」
「いいよ」
「またプラネタリウムも」
「気に入ったんだ?」
「うん」
「じゃあ今度は、本物の星も見に行こう」
ゆかりが顔を上げた。
「覚えてたの?」
「当たり前だろ」
「いつ?」
「いつがいい?」
ゆかりは少し考える。
「いつでも」
「じゃあ、そのうちな」
「うん」
奏はゆかりを抱き寄せた。
「これから時間なんて、いくらでもあるだろ」
「……そうだね」
ゆかりが笑った。
「いっぱいあるね」
「うん」
二人は、もう一度キスをした。
ホテルを出たころには、外は暗くなっていた。
奏が周囲を見回す。
ゆかりが笑う。
「何してるの?」
「刑事いないかなって」
「まだ気にしてるの?」
「そりゃ気にするだろ」
「今日は大丈夫だよ」
「なんで分かるんだよ」
「なんとなく」
「信用できない」
「ひどい」
ゆかりが奏の腕に抱きつく。
二人は駅まで歩いた。
改札の前。
「じゃあね」
「うん」
「着いたら連絡して」
「奏くんもね」
「分かった」
ゆかりが少し背伸びをして、奏の頬にキスをした。
「またね」
「……ここでやる?」
「誰も見てないよ」
「そういう問題じゃないだろ」
ゆかりは笑いながら手を振った。
「バイバイ」
「またな」
二人は別々の改札へ向かった。
その夜。
奏からメッセージが届いた。
―今日は楽しかった―
ゆかりはベッドに寝転びながら返信する。
―私も―
すぐに次のメッセージ。
―次どこ行く?―
ゆかりは少し考えてから文字を打つ。
―どこでもいいよ―
―奏くんと一緒なら―
送信。
すぐに既読がついた。
ゆかりはスマートフォンを胸の上に置いた。
そして、静かに目を閉じた。
何事もない夜だった。



