早瀬先輩をいつから好きになったのか。
明確な出来事があったわけじゃない。あったわけじゃないけれど、本気になったのはきっと先輩の最後の試合。県大会の準決勝。
強豪相手にあっさりと負けた試合の後。先輩が一番悔しかったはずなのに、泣きじゃくる後輩達にタオルを渡していく後ろ姿。あの日、あの時、私は自分が先輩のことを好きだと自覚した。
恋に恋してた女の子が、恋に落ちた瞬間。
「……何言ってんだか」
我ながら恥ずかしいことを考えてしまった、と笑い声が漏れてしまう。
未だに、センチメンタルな自分が顔を覗かせている。そんな自分を脇に追いやりながら、部活終わりの人気のない昇降口で靴を履き替える。
ローファーが床タイルに落ちる音。日が沈み、蛍光灯のみで照らされる校内の廊下。
校舎から出れば、野球部が校庭を均している姿が見える。その光景を、どこか他人事のように眺め、気合を入れるように「よし」と声を出す。
「あれ、先輩?」
歩き出そうとした瞬間、昇降口からちょうど出てきた荒井君に出会う。私より背が低くて、どこか頼りなくて。部活の時は、いつも空回りして先生に叱られている。そんな、後輩の男の子。
でも、その空回りも、どこか微笑ましくて。
来年には二年生となり、後輩が出来るというのに──なんて、お節介な感想まで抱いてしまう。
「先輩も、今帰りですか!」
「うん、今から帰るところ。荒井君は……部活終わりなのに元気だね」
家で飼っている、ゴールデンレトリバー。私が家に帰ると、玄関で待っているその姿とどこか重なってしまう後輩。
後輩とは言え、男の子に対して失礼だと思うが、どうしても横振りの尻尾が見えてしまう。その姿が、どうしても似合ってしまい、思わず笑いがこぼれる。
「何か面白い事でもあったんですか?」
「ない、ないよ。ない、からっ!」
私の顔を覗き込むように視線を動かす荒井君。
そんな姿がどこか面白くて、とうとう笑いを堪えきれなくなりそうになる。
いつの間にか、先ほどまでの落ち込み気味の感情など消え去り。笑った反動で出た目元の涙を拭い。
話題を変えようと、荒井君へ一つの提案をする。
「確か、荒井君も電車だったよね。駅まで、一緒に帰ろっか」
どうせ帰り道が同じなら、程度の誘い。一人で帰れば、隠れた弱い自分が出てきそうだったから。
そんな思いつきの提案も、荒井君は嬉しそうに答えてくれる。
「ひゃ、はい! 一緒に帰ります! あ、荷物持ちますよ!」
元気で、空回りばっかりして。
見ているこちらが心配になってしまう後輩。でも、今は、この空気感が心地よい。
「選手がマネージャーの荷物持ってどうするの。ほら、歩いた歩いた」
最終下校のチャイムが鳴る。その音に背中を押されるように。
少し先で立ち止まって、こちらを待つ荒井君と共に学校を後にする。
***
「荒井君。あと少しで先輩になるけど、大丈夫?」
学校から駅まで向かう間の繁華街。
横断歩道で立ち止まり、世間話を繰り返す。中身があるような、ないような、そんな世間話。
「はい! ……いえ、僕なんかで大丈夫でしょうか」
「うーん、もう少しシャキッとした方がいいかも」
「こうですか?」
背筋を真っすぐ伸ばす後輩。物理的な話ではなく、精神的な──と言いかけ、口を閉ざす。
内面で、ずっとうじうじしている自分が言えることではない。
むしろ、荒井君は、私なんかよりずっと前を向いているような気がして。
「そうそう。そうやって、シャキッとしてみよ。そうだ。駅まで、私を後輩だと思って接してみてよ」
「せ、先輩をですか!?」
少しからかうように。私は笑い声を殺しながら、荒井君へミッションを与える。
狼狽える姿を横目に、人をからかって、楽しんでいる自分に驚く。
友人の話に適当に合わせ、勉強も、マネージャー活動もなあなあに過ごしていたのに。この瞬間を楽しんでいる自分が、確かにそこにいた。
「せ、先輩を後輩のように……」
私のてきとうな思いつきを、一生懸命に悩む後輩。
そんな男の子に、また、思いつきで問いかける。
「荒井君はさ……目標、というか。憧れてる人とかいる?」
私が聞かれたら、なんて答えるだろうか。直近の授業で聞いた、耳に残っている偉人でも挙げるかもしれない。
でも、この後輩は、こんな意地悪な質問にも真剣に答えるのだろう。それが分かっていて聞く私は、性格が悪いかもしれない。
半分冗談のつもりで聞いた質問。しかし、荒井君からはすぐに答えが返ってくる。
「僕……早瀬先輩が目標なんです」
「そ、そうなんだ。また、どうして」
思わず、声が上ずってしまう。
予想外の方向から聞こえてしまった、聞きたくない名前。いや、聞きたくない訳ではない。少し……遠ざけたかっただけ。
なかなか変わらない赤信号。それを一緒に待つ荒井君から、私が想っていた人の話が語られる。
「早瀬先輩、凄く優しいんです! 僕、いつも顧問に叱られちゃってるんですけど……部活終わりに、少し練習付き合ってくれたり」
私の知らない先輩の姿。でも、見なくても想像出来てしまう先輩の優しさ。
どこか、先輩の良さを共有出来たみたいで嬉しくて。
名前を聞くだけで苦しかった胸が、僅かに治まっていく。
「あと……これは、少し恥ずかしいですけど。早瀬先輩、カッコイイじゃないですか! 僕も、早瀬先輩みたいにカッコ良くなりたいなぁって」
「カッコ良くなって、女子にモテたいんだ」
「ち、違いますよ!」
顔を赤くし、私の言葉を全力で否定する荒井君。
その姿がどこかおかしくて。私は、隠すことも忘れ、笑ってしまう。
「いいじゃん、いいじゃん。女の子だって、可愛くなりたいって思うもの。男子だってカッコ良くなりたいって思うでしょ」
「せ、先輩も思うんですか?」
「それは──」
もちろん思う。
可愛くなれば、気を引けるかもしれない。
目立てば、私を見てくれるかもしれない。
この帰り道すら、どれほど先輩と一緒に帰りたいと願ったか。そんな無駄になってしまった過去の努力を思い出す。
「先輩?」
冬の十八時過ぎ。空はもう真っ暗で。街の明るさにすら負けない一等星が、夜空に煌めいている。
早瀬先輩が見ていた一等星は、ずっと固定席だったみたいで。
無駄な努力。無駄な足掻き。無駄な──。
「せ、先輩は可愛いです!」
「きゅ、急に何!?」
白い息が、夜空に消えていくのを眺めていると、隣からとんでもない言葉が投げられる。
驚き、横を振り向けば、そんなに顔って赤くなるのか──と感心してしまうほど真っ赤な後輩が立っていた。
「新藤先輩は可愛いです!」
「繰り返さなくていい!」
恥ずかしいはずなのに、私の目を真っすぐ見ながら伝えてくる言葉。
嬉しさなのか、恥ずかしさなのか、私の顔も熱を持ち始め。
少し前まで感じていた、後ろ向きな思考なんて明後日の方に飛んでいき。
「ほ、ほら。信号変わったよ。いこ」
荒井君を置いて、信号を渡っていく。その足取りは、無意識の内に速足となっていて。
顔を触れば、確実に上がっている体温。その事実が、余計に体温を上げていく。
何でただの後輩に、こんな風にさせられているんだ──と、心の内で愚痴を吐いていると、ふと気づく。
「あれ、荒井君?」
隣にも、少し後ろにも。私の心を乱した後輩の姿は見えず。
私と同じように、横断歩道を渡り切った人混み。スーツ姿、制服姿。そんな人混みの流れに逆らいながら、後輩の姿を探す。
周りを見渡し、来た道を見れば、二人で待っていた信号の下に見える見覚えのある姿。
「荒井君、どうしてまだそこに──」
声を大きめに、横断歩道の向こうにいる後輩に声を掛ける。
人混みの列が切れ、向こう側が露わになる。荒井君の隣には、杖を突いた一人の老婆。そして、手には見慣れぬ荷物。
「なんだ。君も、十分カッコ良いじゃん」
いつも、空回りで、叱られてばかりの頼りない後輩は。周りをよく見ている、優しい男の子。
少し見直した後輩への感想。
私は駆け足で、二人のもとへ走り寄る。
明確な出来事があったわけじゃない。あったわけじゃないけれど、本気になったのはきっと先輩の最後の試合。県大会の準決勝。
強豪相手にあっさりと負けた試合の後。先輩が一番悔しかったはずなのに、泣きじゃくる後輩達にタオルを渡していく後ろ姿。あの日、あの時、私は自分が先輩のことを好きだと自覚した。
恋に恋してた女の子が、恋に落ちた瞬間。
「……何言ってんだか」
我ながら恥ずかしいことを考えてしまった、と笑い声が漏れてしまう。
未だに、センチメンタルな自分が顔を覗かせている。そんな自分を脇に追いやりながら、部活終わりの人気のない昇降口で靴を履き替える。
ローファーが床タイルに落ちる音。日が沈み、蛍光灯のみで照らされる校内の廊下。
校舎から出れば、野球部が校庭を均している姿が見える。その光景を、どこか他人事のように眺め、気合を入れるように「よし」と声を出す。
「あれ、先輩?」
歩き出そうとした瞬間、昇降口からちょうど出てきた荒井君に出会う。私より背が低くて、どこか頼りなくて。部活の時は、いつも空回りして先生に叱られている。そんな、後輩の男の子。
でも、その空回りも、どこか微笑ましくて。
来年には二年生となり、後輩が出来るというのに──なんて、お節介な感想まで抱いてしまう。
「先輩も、今帰りですか!」
「うん、今から帰るところ。荒井君は……部活終わりなのに元気だね」
家で飼っている、ゴールデンレトリバー。私が家に帰ると、玄関で待っているその姿とどこか重なってしまう後輩。
後輩とは言え、男の子に対して失礼だと思うが、どうしても横振りの尻尾が見えてしまう。その姿が、どうしても似合ってしまい、思わず笑いがこぼれる。
「何か面白い事でもあったんですか?」
「ない、ないよ。ない、からっ!」
私の顔を覗き込むように視線を動かす荒井君。
そんな姿がどこか面白くて、とうとう笑いを堪えきれなくなりそうになる。
いつの間にか、先ほどまでの落ち込み気味の感情など消え去り。笑った反動で出た目元の涙を拭い。
話題を変えようと、荒井君へ一つの提案をする。
「確か、荒井君も電車だったよね。駅まで、一緒に帰ろっか」
どうせ帰り道が同じなら、程度の誘い。一人で帰れば、隠れた弱い自分が出てきそうだったから。
そんな思いつきの提案も、荒井君は嬉しそうに答えてくれる。
「ひゃ、はい! 一緒に帰ります! あ、荷物持ちますよ!」
元気で、空回りばっかりして。
見ているこちらが心配になってしまう後輩。でも、今は、この空気感が心地よい。
「選手がマネージャーの荷物持ってどうするの。ほら、歩いた歩いた」
最終下校のチャイムが鳴る。その音に背中を押されるように。
少し先で立ち止まって、こちらを待つ荒井君と共に学校を後にする。
***
「荒井君。あと少しで先輩になるけど、大丈夫?」
学校から駅まで向かう間の繁華街。
横断歩道で立ち止まり、世間話を繰り返す。中身があるような、ないような、そんな世間話。
「はい! ……いえ、僕なんかで大丈夫でしょうか」
「うーん、もう少しシャキッとした方がいいかも」
「こうですか?」
背筋を真っすぐ伸ばす後輩。物理的な話ではなく、精神的な──と言いかけ、口を閉ざす。
内面で、ずっとうじうじしている自分が言えることではない。
むしろ、荒井君は、私なんかよりずっと前を向いているような気がして。
「そうそう。そうやって、シャキッとしてみよ。そうだ。駅まで、私を後輩だと思って接してみてよ」
「せ、先輩をですか!?」
少しからかうように。私は笑い声を殺しながら、荒井君へミッションを与える。
狼狽える姿を横目に、人をからかって、楽しんでいる自分に驚く。
友人の話に適当に合わせ、勉強も、マネージャー活動もなあなあに過ごしていたのに。この瞬間を楽しんでいる自分が、確かにそこにいた。
「せ、先輩を後輩のように……」
私のてきとうな思いつきを、一生懸命に悩む後輩。
そんな男の子に、また、思いつきで問いかける。
「荒井君はさ……目標、というか。憧れてる人とかいる?」
私が聞かれたら、なんて答えるだろうか。直近の授業で聞いた、耳に残っている偉人でも挙げるかもしれない。
でも、この後輩は、こんな意地悪な質問にも真剣に答えるのだろう。それが分かっていて聞く私は、性格が悪いかもしれない。
半分冗談のつもりで聞いた質問。しかし、荒井君からはすぐに答えが返ってくる。
「僕……早瀬先輩が目標なんです」
「そ、そうなんだ。また、どうして」
思わず、声が上ずってしまう。
予想外の方向から聞こえてしまった、聞きたくない名前。いや、聞きたくない訳ではない。少し……遠ざけたかっただけ。
なかなか変わらない赤信号。それを一緒に待つ荒井君から、私が想っていた人の話が語られる。
「早瀬先輩、凄く優しいんです! 僕、いつも顧問に叱られちゃってるんですけど……部活終わりに、少し練習付き合ってくれたり」
私の知らない先輩の姿。でも、見なくても想像出来てしまう先輩の優しさ。
どこか、先輩の良さを共有出来たみたいで嬉しくて。
名前を聞くだけで苦しかった胸が、僅かに治まっていく。
「あと……これは、少し恥ずかしいですけど。早瀬先輩、カッコイイじゃないですか! 僕も、早瀬先輩みたいにカッコ良くなりたいなぁって」
「カッコ良くなって、女子にモテたいんだ」
「ち、違いますよ!」
顔を赤くし、私の言葉を全力で否定する荒井君。
その姿がどこかおかしくて。私は、隠すことも忘れ、笑ってしまう。
「いいじゃん、いいじゃん。女の子だって、可愛くなりたいって思うもの。男子だってカッコ良くなりたいって思うでしょ」
「せ、先輩も思うんですか?」
「それは──」
もちろん思う。
可愛くなれば、気を引けるかもしれない。
目立てば、私を見てくれるかもしれない。
この帰り道すら、どれほど先輩と一緒に帰りたいと願ったか。そんな無駄になってしまった過去の努力を思い出す。
「先輩?」
冬の十八時過ぎ。空はもう真っ暗で。街の明るさにすら負けない一等星が、夜空に煌めいている。
早瀬先輩が見ていた一等星は、ずっと固定席だったみたいで。
無駄な努力。無駄な足掻き。無駄な──。
「せ、先輩は可愛いです!」
「きゅ、急に何!?」
白い息が、夜空に消えていくのを眺めていると、隣からとんでもない言葉が投げられる。
驚き、横を振り向けば、そんなに顔って赤くなるのか──と感心してしまうほど真っ赤な後輩が立っていた。
「新藤先輩は可愛いです!」
「繰り返さなくていい!」
恥ずかしいはずなのに、私の目を真っすぐ見ながら伝えてくる言葉。
嬉しさなのか、恥ずかしさなのか、私の顔も熱を持ち始め。
少し前まで感じていた、後ろ向きな思考なんて明後日の方に飛んでいき。
「ほ、ほら。信号変わったよ。いこ」
荒井君を置いて、信号を渡っていく。その足取りは、無意識の内に速足となっていて。
顔を触れば、確実に上がっている体温。その事実が、余計に体温を上げていく。
何でただの後輩に、こんな風にさせられているんだ──と、心の内で愚痴を吐いていると、ふと気づく。
「あれ、荒井君?」
隣にも、少し後ろにも。私の心を乱した後輩の姿は見えず。
私と同じように、横断歩道を渡り切った人混み。スーツ姿、制服姿。そんな人混みの流れに逆らいながら、後輩の姿を探す。
周りを見渡し、来た道を見れば、二人で待っていた信号の下に見える見覚えのある姿。
「荒井君、どうしてまだそこに──」
声を大きめに、横断歩道の向こうにいる後輩に声を掛ける。
人混みの列が切れ、向こう側が露わになる。荒井君の隣には、杖を突いた一人の老婆。そして、手には見慣れぬ荷物。
「なんだ。君も、十分カッコ良いじゃん」
いつも、空回りで、叱られてばかりの頼りない後輩は。周りをよく見ている、優しい男の子。
少し見直した後輩への感想。
私は駆け足で、二人のもとへ走り寄る。

