昨日までの片想い

 家の最寄り駅。
 電車を降り、夕方の人でごった返した駅中を抜けて行く。日が落ち、星すら見える夜空の下、駅前の信号で立ち止まる。
 周りは人混みの雑音で溢れているにも関わらず、頭の中では、学校で聴いた湊の声が反響する。

 ──好きな子がいるんだ。

 大きなため息が、白い息となって遠くに飛んでいく。
 何も考えたくないのに、頭の中では校舎裏の光景が何度も繰り返される。
 それでも、何とか、感情が崩れないようにバランスをとっていたその瞬間。背後から、今、一番聞きたくない声が届く。

「あれ、灯里じゃねーか」

 私の方が先に学校を出たはず。一直線に駅に向かったはず。にも関わらず、後ろを振り向いた先には、笑った湊の姿があった。
 何もなかったかのように、湊は私の隣に立ち信号を待つ。
 いつも心臓がうるさいほど高鳴っていた湊の立ち位置。しかし、それが、今はとても苦しくて。
 駆け出したい。逃げ出したい。
 僅かに乱れる呼吸。
 そんな辛い感情から目を逸らすように。まるで、湊に当たるかのように言葉を発する。

「新藤さんは……いいの」
「……どういうことだよ」

 信号が青になる。
 私の言葉を聞いて、一歩遅れて歩き出す湊。あからさまに何かを隠そうとする答え。
 私があの光景を覗き見していたことはきっと知らない。だから、適当に返せば誤魔化せると思っているのだろう。

「湊から、そういう話、聞いたことなかったけど。新藤さん、可愛いよね」

 珍しく、半歩後ろを歩く湊。そのため、表情を確認することは出来ない。
 二人の間に会話らしい会話は生まれず、駅前の喧噪を抜け、冬の冷たい空気が存在を露わにしていく。
 徐々に点灯していく街灯。その下を、沈黙が続く足取りで歩いていく。
 朝見た街路樹の小さな蕾。それを見て、別れのこの季節を嫌いだと思ったはずなのに。今は、早く時が流れてくれればいいのに、とさえ思う。
 
「灯里」

 湊が私を呼ぶ。
 しかし、私は歩みを止めることはせず。

「灯里、待てよ!」

 目の前に壁が出来る。
 視線を上げ、下から湊の顔を覗く。何かを言いたそうな顔。
 しかし、その表情を見て私の中を駆けていくのは湊の言葉達。

 ──何で俺と灯里が付き合ってることになってんだよ。あり得ねぇだろ。
 ──好きな子がいるんだ。

 悔しいと思った。
 むしゃくしゃもした。
 何より、そんなことを思う自分が一番嫌いになりそうで。
 全ては、行動に移さなかった私が悪い。分かっている。分かっていても、そこまでお利口さんにもなれなくて。

「湊、どいて」

 八つ当たりだと分かっていながら、苛立ちに近い感情をそのまま湊にぶつける。
 一瞬戸惑う表情を浮かべながら、湊も私に反論する。
 
「なんでそんな言い方すんだよ」

 何も理解していない湊。その鈍感さが無性に苛立ちを加速させる。
 大きく息を吸い込み、全てをぶつけてやろうと口を開く。
 
「なんで? そんなの──」

 口を開きかけ、吸い込んだ息を吐きだそうとして、ようやく自覚する。
 私は──私の恋は終わったのだ、と。
 全身から、急に力が抜ける。指先から力が抜け、鞄が足元へ落ちる。

「そっか……これが失恋ってことなんだ……」

 告白をして、フラれてしまった友人に『パフェ奢るから元気だして!』なんて言ったことを思い出す。この感情は、到底、そんな物でどうにかなるとは思えない。
 私は知らなかった。恋が終わるということが、こんなにも辛いということを。
 胸が苦しい。呼吸がうまくできない。今すぐ大きな声を出して泣いてしまいたい。

「灯里?」

 湊の大きな手が向かってくる。
 今までは、その差し出された手がどれほど嬉しかったか。しかし、今はその優しさすら苦しくて。

「やめて。お願いだから、もう、優しくしないで」

 湊から距離を取るため、一歩、二歩と後ずさる。
 今、湊の手を取ってしまえば縋ってしまう気がする。

 私と付き合ってよ──と。

 湊を困らせたいわけじゃない。
 湊が誰かを好きで、その人と付き合いたいと言うなら応援する。
 でも──今は無理だ。失恋の痛みを知ったばかりの私には、誰かの恋を応援できる余裕なんてあるはずない。

「お、おい。灯里。どうしたんだよ」
「……お願い。今は、今だけは優しくしないで。優しくしようとしないで。何なら、また、私を否定してくれていいから」

 朝みたいに『あり得ない』と否定して欲しいと、よく分からない感情すら生まれる。
 でも、優しくされるより何倍も良いと言い切れる。
 湊は、今までの付き合いの中で、見た事ないほど困った表情を浮かべている。
 そりゃそうだろう。『私を否定しろ』なんて、逆の立場なら私だって困惑する。
 
「ごめん。湊からしたら、意味わからない事言ってるのは分かってる。でも、今は放っておいて。週明けの……月曜日には、大丈夫だから」

 土日を挟めば、この感情とも向き合える。
 そんな希望的観測を掲げながら、さらに一歩、また一歩と湊から距離を取る。

「私、今日、向こうから帰るから。突然なんだよ、って感じだよね。説明は出来ないけど、ほんとごめんね」

 戸惑い、言葉が詰まっている湊を置いて、言葉をまくし立てる。
 固まっている湊に背を向け、その場を後にしようと歩き出す。しかし、踏み出した瞬間、手首が強く握られる。
 見なくても分かる。湊の手。大きな、そして、私よりも体温が高い湊の体温。

 嬉しいはずなのに。今日の朝までの私なら、湊の隣を歩くだけで喜んでいたはずなのに。
 今は、湊の気配が。体温が。声が、ただただ苦しい。

「灯里」

 名前を呼ばれる。それだけで、憂鬱な登校時間も楽しい時間になったのに。

「俺が何かしたなら謝る。だから、話をさせてくれ」

 湊の優しい声。学校でのめんどくそうな声じゃない、私を気に掛けるような声音。
 抑えようとした気持ちが。閉じ込めようとした感情が。手首から伝わる体温で溶かされていく。
 それでも、唇を強く噛みしめ自分に言い聞かせる。この感情は、日の光を浴びせてはいけないのだ、と。

「湊、離して」
「俺が灯里を否定したってどういう事だよ。いつ、俺が灯里を──」

 目元に浮かぶ涙。湊に背を向けながら、こぼれないように昇りかけた月を見るふりをして上を向く。
 私は湊の言葉を遮って力強く返す。

「私と付き合ってるか聞かれた時、湊は『あり得ない』って言った。だから私は──」

 ──だから私は、もう諦めたの。

 そう言おうとした言葉を、今度は湊に遮られる。

「そりゃそうだろ。俺が、灯里と付き合うなんて……」
「うん。だよね。だから……今はこの手を離して」

 本当は『あり得ない』を否定して欲しかった。でも、そんな都合の良い言葉が出てくることはなくて。
 下唇を強く噛みしめ、震える唇を誤魔化す。
 唇が痛い。湊に、強く握られた手首が痛い。あるはずのない、心が痛い。

「そんな私と、幼馴染とは言え、小学校から付き合ってくれてありがとね。でも、もういいから」

 もう、私と一緒にいなくていいから。もう、湊の好きな人と歩いていいから。
 言葉を重ねる度、心の痛みが増す。
 今の私は、うまく笑えているだろうか。湊に顔を見れらて、大丈夫な表情をしているだろうか。
 私の言葉を聞き、緩む湊の手。その手を振る払い、湊に背を向けながら違う道へと向かう。

「あ、灯里!」

 背後で、湊の大きな声が響く。
 私は歩みを止めることはせず、湊の言葉を無視していく。

「『あり得ない』ってのは、灯里を否定したわけじゃなくて! ただ……俺が言いたかったのは──」

 湊が好きな子ってのは、いったいどんな子なのだろうか。
 その子と並んで笑う湊を、私は笑って送り出せるだろうか。
 隣に誰もいなくなったこの道を、私は今まで通りに歩けるだろうか。

 頭の中で繰り返される、これからのこと。隣にあった温もりが消え、伸ばした手は空を掴む近い将来。
 だから……だから、私はこの季節が嫌いなのだ。
 そんな自嘲を浮かべ、重い足取りながらもゆっくりと一歩一歩と──。

 「俺は……授業に着いて行くのは精一杯で! 昔から何度も灯里に心配もさせて!」

 ──でも、頑張って赤点取らないように勉強してるじゃん。
 ──心配させるなんて、お互い様じゃん。
 
 「灯里と違って、自分のことすら碌に出来ない俺が……ずっと先を歩くお前と、半人前の俺が、いくら付き合いたいと思ったって……そんなの『あり得ない』だろ!」

 音が消える。突然告げれた湊の本音。
 私は堪えようとしていた涙も忘れて、肩で息をしている湊へ振り返る──。