冷徹営業トップは私の限界オタクでした~恋人編~

昼休み。

陽菜子と神崎は、会社から少し離れたカフェに来ていた。

向かい合って席に座ったものの、なぜか朝から妙に落ち着かない。

理由は分かっている。

昨夜のことを思い出してしまうからだ。

陽菜子はメニューを眺めながら、ちらりと神崎を見る。

目が合った。

「……っ」

慌ててメニューへ視線を戻す。

昨夜、あの顔がすぐ目の前にあった。

そう思った瞬間、また頬が熱くなった。

「陽菜子さん。」

「は、はい!」

「……そんなに意識されると、俺も意識してしまいます。」

「ご、ごめんなさい……」

「謝らないでください。むしろ嬉しいです。」

神崎はそう言ってから、口元を手で覆った。

「俺とのキスを思い出して照れている陽菜子さん……尊い。」

「紅夜くん?」

「聞こえるように言いました。」

「なんでですか……」

「陽菜子さんが尊いという事実は、きちんとご本人にもお伝えしておきたいので。」

「もう……」

まったく悪びれる様子のない神崎に、陽菜子は思わず笑った。

それから料理が運ばれてくる頃には、二人とも少しずついつもの調子を取り戻していた。

水族館で見た魚の話。
次はどこへ行こうかという話。
会社であったちょっとした出来事。

そんな他愛もない話をしているうちに、陽菜子はふと思った。

付き合う前にも、二人で食事をしたことはある。

けれど、今は違う。

目の前にいる人は、自分の恋人なのだ。

それがなんだか嬉しくて、陽菜子は小さく笑った。

「……どうしました?」

「いえ。なんだか幸せだなって思って。」

神崎の動きが止まった。

「……はい?」

「こうして一緒にお昼を食べられるのも嬉しいですし、朝も会社に来れば紅夜くんに会えますし。」

陽菜子は何気なく続ける。

「同じ会社でよかったですね。」

神崎の動きが止まった。

「……はい?」

「だって、会社に来れば紅夜くんに会えますから。」

「ぐっ……」

神崎は胸元をぎゅっと押さえ、声を飲み込んだ。

「紅夜くん?」

「……大丈夫です。今、なんとか耐えました。」

「何にですか?」

「陽菜子さんの可愛さにです。」

「もう……」

陽菜子が照れたように笑う。
神崎は再び胸元を押さえた。

「……っ、追撃はやめてください。」

「何もしてませんよ?」

「存在してくださっているだけで十分な攻撃力です。」

「それ、褒めてます?」

「最大級に。」

やっぱり紅夜くんは紅夜くんだ。
恋人になっても、この人は変わらない。
それが陽菜子には、なんだか嬉しかった。

昼休みを終え、二人は会社へ戻った。

エレベーターを降りたところで、神崎は営業部へ、陽菜子は経理部へ向かう。

「では、春宮さん。また後で。」

会社へ戻った途端、呼び方も元通りだ。
陽菜子は少しだけ寂しくなった。
二人きりのときは『陽菜子さん』なのに。

会社では『春宮さん』。

自分だって同じように『神崎さん』と呼ばなくてはいけない。

二人が付き合っていることは、あの一件以来、営業部ではすっかり知られている。
けれど、会社全体に公表しているわけではなく、経理部をはじめ他部署にはまだほとんど知られていなかった。

「はい。神崎さんもお仕事頑張ってください。」

「ありがとうございます。」

神崎が営業部へ向かって歩き出す。
その背中を見送ってから、陽菜子も経理部へ戻ろうとした。

「あ。」

ふと、神崎が社員証を落としたことに気づく。

「紅夜くん!」

呼んだ瞬間。
神崎の足が止まった。
陽菜子も止まった。
廊下を歩いていた数人の社員が、こちらを見る。

「…………」

「…………」

やってしまった。
会社では神崎さん。
そう決めていたのに。
神崎がゆっくりと振り返る。

「ご、ごめんなさい。神崎さん。これ、落としましたよ。」

陽菜子は慌てて社員証を拾い、神崎へ差し出した。

「ありがとうございます。」

神崎はいつもの落ち着いた声で受け取った。
表情もいつも通り。
完璧な営業マンの顔だ。

よかった。

陽菜子がほっとした、そのとき。
神崎が小さな声で呟いた。

「……もう一度お願いします。」

「え?」

「今の。」

「今のって……」

「紅夜くん、のところです。」

「会社ですよ?」

「分かっています。」

神崎の耳が赤い。

「ですが、不意打ちは保存できません。」

「保存……?」

「もう一度聞けば記憶に刻めるかと。」

「しません。」

「そんな……」

「会社では神崎さんです。」

「……はい。」

明らかにしょんぼりしている。
さっきまで完璧な営業マンの顔をしていたのに。
陽菜子は思わず笑ってしまった。

「じゃあ、帰るときに。」

「……!」

神崎の顔が上がった。

「帰るときは、紅夜くんって呼びますね。」

「…………」

「神崎さん?」

神崎は片手で顔を覆った。

「……午後も頑張れます。」

「よかったです。」

「むしろ今日一日どころか、今週いっぱい働けます。」

「無理はしないでくださいね。」

「はい。春宮さん。」

会社では『春宮さん』と『神崎さん』。
二人きりになれば、『陽菜子さん』と『紅夜くん』。

付き合う前と変わらない毎日の中に、二人だけに分かるものが少しずつ増えていく。
陽菜子は、それがなんだかくすぐったくて。
でも、とても嬉しかった。