陽菜子の誕生日は、穏やかな晴れの日だった。
約束どおり二人でケーキを選んでから、神崎の部屋へ向かった。
玄関に入ると、いつもより少しだけ華やかな景色が目に入る。
テーブルの上に、小さな花束が飾られていた。
「可愛い……。」
淡いピンクと白の花。
陽菜子が顔を寄せると、隣の神崎が静かに息をついた。
「よかったです。」
「選んでくれたの?」
「はい。」
「ありがとう。すごく好き。」
振り向いて伝えると、神崎は目を伏せた。
「……まだ、最初なんですが。」
「え?」
「いえ。何でもありません。」
コートを受け取る耳が赤い。
陽菜子は笑いながら、もう一度花束へ目を向けた。
夕食には、陽菜子が以前、美味しいと言った料理が並んだ。
サラダにスープ、それから、初めてこの部屋で食べたカルボナーラ。
「覚えててくれたんだ。」
「もちろんです。」
「これ、また食べたいと思ってたの。」
神崎の口元が、わずかに緩んだ。
食事のあと、ケーキと一緒に出てきたのは、白と深い青のマグカップだった。
陽菜子は思わず顔を上げる。
「この前の……。」
「はい。誕生日のプレゼントに。」
白い方が、陽菜子の前に置かれる。
「こちらに置いておいても、ご自宅へ持って帰っていただいても。好きな方で使ってください。」
陽菜子はカップの持ち手に指をかけた。
あの日、ガラス越しに見たときよりも、ずっと温かく感じる。
「ここに置いておいてもいい?」
神崎が頷く。
「いつ来ても、使えるようにしておきます。」
並んだ二つのカップを見ながら、陽菜子は微笑んだ。
「来る楽しみが増えちゃった。」
神崎は何か言いかけて、口を閉じた。
そのまま一度、ゆっくりと息を吸う。
陽菜子は、数日前の約束を思い出した。
誕生日に、お伝えしたいことがあります。
今日の彼は、いつも以上に丁寧だった。
皿を運ぶときも、お茶を淹れるときも、ときどき何かを確かめるように陽菜子を見る。
「……紅夜くん。」
呼びかけると、彼が顔を上げた。
「話したいことって、何?」
*
食器を片づけたあと、二人でソファに座った。
さっきまで食卓を挟んでいたのに、隣に座った途端、陽菜子まで緊張してしまう。
神崎は膝の上で手を組んでいた。
その指先に、わずかに力が入っている。
陽菜子はそっと、彼の手に触れた。
「そんなに緊張しなくても……。」
「すみません。何度も、考えてきたんですが。」
「うん。」
「陽菜子さんを前にすると、用意した言葉が、うまく出てこなくて。」
こんなときにも、仕事中の彼を思い出してしまった。
大勢の前で話すときも、難しい説明をするときも、迷いなく言葉を選ぶ人なのに。
陽菜子は手を離さず、続きを待った。
神崎が、触れていた手を包み込む。
「俺は、陽菜子さんが喜んでくださるなら、それだけでいいと思っていました。」
低く、静かな声だった。
「食事に付き合っていただけるだけでも、話をしていただけるだけでも、十分だったはずなんです。」
陽菜子は頷いた。
以前、名前も知らない誰かから届いていた差し入れ。
短い言葉しか書かれていない付箋。
あの頃から、彼はずっと自分を気にかけてくれていた。
「でも、一緒にいる時間が増えるたびに、帰したくなくなりました。」
包まれた手に、少しだけ力がこもる。
「今日あったことを、明日ではなく、その日のうちに聞きたいです。疲れて帰ってきたときに、無理に笑わなくてもいい場所を、一緒に作りたい。」
陽菜子の喉の奥が、熱くなった。
神崎は一度言葉を切り、まっすぐに彼女を見る。
「……俺が疲れたときも、隣にいてほしいです。」
その言葉が、何より嬉しかった。
何でもしてくれる人だった。
陽菜子のためならと、いつも自分のことを後回しにしてしまう人だった。
その彼が初めて、こんなふうに、自分を必要としてくれた。
「来年も、再来年も、その先も。誕生日だけではなくて、何でもない日を、陽菜子さんと一緒に過ごしたいです。」
神崎の指先が震えていた。
陽菜子は、その手を両手で握った。
「陽菜子さん。」
名前を呼ぶ声が、わずかにかすれる。
「俺と、結婚してください。」
部屋の中が、静かになった。
何か答えようとすると、先に涙がこぼれた。
神崎の顔に、一瞬で不安が浮かぶ。
「……陽菜子さん。」
「うん。」
それだけでは足りないと分かっているのに、胸がいっぱいで、言葉が続かない。
陽菜子は一度頷いてから、彼の目を見た。
「私も、一緒にいたい。」
神崎が動きを止めた。
「嬉しい日も、疲れた日も。紅夜くんが帰ってきたら、おかえりって言いたい。」
涙を拭おうとした彼の手に、自分の手を重ねる。
「私でよければ、よろしくお願いします。」
彼は、すぐには何も言わなかった。
ただ、陽菜子を見つめたまま唇を引き結び、何かを必死にこらえている。
その目元が赤くなっていくのを見て、陽菜子は泣きながら笑ってしまった。
「紅夜くん?」
「……少し、待ってください。」
「うん。」
「今、抱きしめたら、しばらく離せません。」
陽菜子の胸が、きゅっと鳴った。
自分から距離を詰めて、彼の背中へ腕を回す。
「いいよ。今日は、まだ帰らないから。」
神崎の息が止まった。
それから、壊れものに触れるような腕が背中に回り、少しずつ強くなる。
「……本当に、俺でいいんですか。」
肩口に落ちた声は、頼りないほど小さかった。
陽菜子は彼の背中を撫でた。
「紅夜くんが、いいんだよ。」
抱きしめる腕が止まり、深い息が髪を揺らした。
「……ありがとうございます。」
「こちらこそ。」
しばらくして、神崎がようやく身体を離した。
赤くなった目元を見られるのが恥ずかしいのか、少し視線を落としたまま口を開く。
「指輪は、一緒に選んでいただけますか。」
「うん。一緒に選びたい。」
「はい。」
その返事があまりに嬉しそうで、陽菜子はまた笑った。
神崎の手が頬に触れる。
唇が重なったのは、どちらからともなくだった。
そっと触れて離れたあとも、彼はすぐ近くで陽菜子を見つめていた。
「……今日も、世界一可愛いです。」
「泣いた顔なのに?」
「はい。困るくらい。」
真剣な答えに、とうとう声を立てて笑ってしまった。
神崎も、少しだけ笑った。
大きな口元から、見慣れた八重歯が覗く。
陽菜子はその頬に手を添えた。
「大好きだよ、ちくわくん。」
彼が目を閉じ、額を陽菜子の肩に預けた。
「……今、それは。」
「だめだった?」
「嬉しすぎて、顔を上げられません。」
陽菜子は笑いながら、赤茶色の髪を優しく撫でた。
会社では冷静で、誰もが頼りにする営業トップ。
その彼が今、自分の肩に顔を埋めて、幸せを持て余している。
「……顔、見せて?」
神崎はゆっくり顔を上げた。
目元も耳も赤いまま、それでも陽菜子を見る眼差しは、どこまでも優しかった。
「こんな状態で言っても、頼りないかもしれませんが。」
「うん。」
「一生、大切にします。」
陽菜子は、頬に添えられた彼の手に自分の手を重ねた。
「私にも、大切にさせてね。」
神崎の顔が、またくしゃりと歪む。
「……陽菜子さんには、一生敵いませんね。」
そう言って笑う彼に、陽菜子から唇を重ねた。
テーブルには、白と深い青のマグカップが二つ。
これから少しずつ、二人で使うものが増えていく。
別れ際の「またね」が、いつか同じ玄関で交わす「ただいま」に変わる。
そんな毎日を、この人と重ねていきたい。
「大好きだよ。」
すぐ近くで囁くと、彼は眩しそうに目を細めた。
「……愛しています、陽菜子さん。」
返事の代わりに、もう一度抱きしめた。
背中に回された腕は温かくて、陽菜子もそっと目を閉じる。
冷徹営業トップは、私の限界オタクでした。
そしてこれからは、一生をともにする、大切な家族になります。



