【名前を呼ぶ日:和side】
お陽様の光は柔らかい飴色をしているのに、冷たい空気は肌を引っ掻くように鋭い。
子供は邪魔だから、と云われなくても判っているわたしと聡真はスーツ姿の大人たちを少し遠目にしながらぼんやりと立ち尽くしていた。
「……ねぇ、どうしてお兄ちゃんが死んじゃったのか、聡真は知ってる?」
誰かに云い付けられたのだろうか。通夜の前日からわたしの傍を離れない白銀色にそっと問う。横に並んではいるが、お互いの視線は遠くの鯨幕へと向いたまま。
「……知らない。オトナの事情だってよ」
素っ気ない声に、ほんの僅かな疑念が沸く。本当に知らないのだとしたら、聡真はこんなに大人しくずっとわたしの傍に居るだろうか?
わたしのお兄ちゃんを実の兄のように慕っていた聡真だ。
真っ直ぐで曖昧さを嫌う聡真の性格上、オトナの事情、だなんて子供騙しの説明で彼が納得しているとは到底思えなかった。
親よりも歳上の大人にさえ平気で突っ掛かって真相を聞き出していそうなものなのに。
そう思いながらも、わたしは「そっか……」とだけ呟いて追随するのはやめておいた。
世の中には知らなくても良いことがある。殊、黒社会の中では尚のこと。年齢はまだ一桁とはいえ、自分は曲がりなりにもヤクザの娘。ある程度の生き方は心得ている。少なくとも『今のわたし』はそれを知る必要がないのだろう。どういう意図があってのことかは判らないけれど。
「俺、」
相変わらず視線を交えないまま、聡真がぽつりと零した。
「俺……アニキみたいな男になる」
静かに握られた手から伝わってくる体温の決意に、うん、と小さく頷く。
なりたい、ではなく、なる、という断言的な云い方は酷く聡真らしい。
「聡真なら、なれるよ」
お世辞でも慰みでもない。聡真とは生まれてすぐからの付き合いだ。生まれた家は違えど、わたしの聡真への信頼は厚い。聡真なら、お兄ちゃんみたいになれる。純粋にそう思っているから、わたしは余計な言葉を付け足すことなく、ただ彼の決意を受け止めるように聡真の手を握り返した。
鯨幕と、晴れ渡った青空のコントラストが目に痛いなと思ったけれど。この網膜を灼く痛みは、きっと忘れてはいけない痛みだ。
これはわたしと聡真が小学校二年生の冬のことだった。
『烏丸組』は都市部の繁華街を広くシマに持つヤクザ。
全国区で見れば中堅規模ではあるが、組織としてはそれなりに歴史を持つ古参組織として名を馳せている。
関東近郊のヤクザの中で烏丸組の名前を知らない者はモグリだと断言しても良い程。
組織内の結束が強く、今のところ内部抗争の気配は発芽前の種ひとつすら見当たらない。
それは偏に歴代の烏丸組組長が持つカリスマ性と、それに惹かれて集まった人間たちの信頼が厚いからこそだ。
伝統と仁義を重んじ続けてきている組の姿勢もまた、組の存続に大きく関わっているだろう。
烏丸和――それがわたしの名前。烏丸組組長の第二子にして長女。ただ、第一子であった十歳上のお兄ちゃんは既に鬼籍に入っている為、実質今のわたしは烏丸組の一人娘だ。
小学校二年生の冬、お兄ちゃんが亡くなった。
以降、周囲から云われることが増えた言葉がある。
「聡真の側から離れないようにしなさい」
聡真は葉取家の一人息子。わたしの父と聡真の父は旧知の仲らしく、葉取家が烏丸組の資金源として重要な立ち位置にあるという理由を抜きにしてもわたし的な関わりは深い。
父同士のみならず、母同士も友好的な関係を築いている為、わたしたちには父母が二人ずつ居るような感覚だ。
両親の仕事の都合で幼い子供を一人がちにするのもどうなのか、という理由もあり、聡真は物心ついた頃から烏丸家に頻繁に出入りしていたし、小学校に上がってからは烏丸家の離れで生活をしているくらいだから両家の親密さは推して知るべし。
聡真はわたしより三ヶ月早い生まれだから、本当にわたしは生まれた時から聡真とほぼずっと一緒に過ごしてきた。
聡真のことをお兄ちゃんのよう、だとは思わないけれど、頼りに出来る存在であることは確かだ。
小さい頃からたまにぼんやりしがちなところがあるわたしの手を引いてくれたのは聡真だった。
実のお兄ちゃん程は優しくないけど、わたしの泣き虫を放置することは絶対しなかった。
「和の側に居てやってくれ、って俺はアニキから任されてんだ。アニキに頼まれたら嫌とか云えねーし」
それは聡真の口癖。
わたしには渋々、みたいな口調でいつもそう云うけれど、聡真はわたしのお兄ちゃんから受けたそれを誇らしそうにもしていた。
信頼の循環。烏丸組の強みはまさにここにあるのだろう。
「おーい、和! まだ支度終わんねーの? 三年生最後の日に遅刻する気かーっ?」
母屋の階段下から聞こえてくる聡真の声。
この声のお陰でわたしはお兄ちゃんが亡くなってから長く塞ぎ込むことなく外に出られるようになった。
お兄ちゃんが亡くなってすぐの頃。二年生の三学期こそわたしは自分の部屋から出る気になれず、お母さんに何度「しっかりしなさい」と叱られたか判らない。
判ってる。しっかりしなきゃいけないのは判っている。
メソメソしていたってどうにもならないことくらい判っていた。
それでも、それまで当たり前にあった笑顔が、頭を撫でてくれる大きな手が消えてしまった喪失感は日増しに大きくばかり。
お母さんだってお父さんだって悲しいという気持ちはあったに違いないけれど、小学二年生のわたしはまだその悲しい気持ちを上手く処理する術を持ち合わせていなかった。
そんな時に傍に居てくれたのが聡真。
しっかりしろ、とは云わない。
泣くな、とも云いやしない。
ただ傍に居て、自分も悲しい、と背中を合わせてくれた。
もしわたしが男の子だったら、それこそわたしと聡真にもお父さんたちみたいな盟友関係を築く未来があったんじゃないかと思う。
「和は、アニキが一番大事にしてたものが何か知ってるか?」
ある日、膝を抱えていたわたしと背中合わせになっていた聡真がそんなことを呟いた。
「……お兄ちゃんが、一番大事にしてたもの……?」
「そう」
「……わかんない」
「和の笑顔だって云ってた」
「…………」
「アニキが大事にしてるものは、俺も大事にするって約束したんだ……」
だから、と後頭部を後頭部でコツンと軽く小突かれた。
「俺は、お前が一秒でも長く笑ってられるよーにしたい」
「……そうま」
「今日、学校の帰りに駄菓子屋の婆ちゃんに声掛けられた」
突然の話題転換に思わずキョトンとしてしまう。
「駄菓子屋の、お婆ちゃん……?」
床に手をついて体を半分捻ったら、そう、と聡真がわたしの手に小瓶を押し付けてきた。
「烏丸のお嬢ちゃんが気に入ってくれたら今度から仕入れようと思ってる、ってこれ貰った」
「金、平糖……」
小瓶の中には薄い青や紫、白の金平糖が詰まっている。
「それ、光に翳してみ?」
聡真に云われるがまま小瓶を蛍光灯の明かりに翳したわたしの口から、わぁっと感嘆の声が零れた。
「すごいっ、光に当てるとキラキラする! 金平糖の中にお星様がいるみたい!」
何度も小瓶の角度を変えながらその中身を見詰める。金箔や銀箔が練り込まれているらしい金平糖は、ひとつひとつが宵空を小さく固めたみたい。
飽きずにずっとそれを眺めていたら、聡真がわたしの手から小瓶をそっと取り上げた。
「明日、これのお礼云いに学校帰り駄菓子屋寄らねぇ? 駄菓子屋の婆ちゃんも和に会いたがってたし」
あぁ、聡真には勿論だけども、駄菓子屋のお婆ちゃんにも気を遣わせてしまったなぁということに気が付いた。
自分が塞ぎ込むことで、他の誰かに迷惑が掛かるのは本意じゃない。もし迷惑ではないと云われたとしても、不必要に自分のことを気に掛けさせてしまった、という事実は余り好ましくない。
「家族に迷惑を掛ける分には構わない。だけど他の人に迷惑は掛けるのはダメだ。他人の負担になるような甘えた生き方はしちゃいけない」
これはお兄ちゃんからよく云われていたこと。ある意味教訓みたいなものだろうか。
それなら聡真にも? と問うたのは多分幼稚園生の時。
その時お兄ちゃんは少しだけ悩む素振りを見せてから、聡真は家族扱いかなと笑っていた。
だからわたしはついつい聡真に甘えてしまっているけれども。
このままではいけない、という気持ちがにわかに込み上げてきた。
「……うん、行く」
小さい声ながらにも確かな意志を持って頷いたら、聡真はわたしの手に小瓶を戻して頭をポンポンと軽く叩くように撫でてきた。
「んじゃ、明日の朝もいつも通り迎えに来る」
僅かに唇の端を上げて立ち上がった聡真は「明日寝坊すんなよ」と肩を揺らしながら部屋を出て行った。
翌朝、宣言通り母屋の玄関からわたしを呼ぶ聡真の声に手を引かれて一緒に学校へ向かった。
クラスメイトから余計な声掛けがなかったのは大人たちからの配慮か、それとも聡真からクラスメイトへ前触れがあったのかどうかわたしには判らないけど。
穏やかに学校での一日を終えたわたしたちは帰り道に駄菓子屋へ寄った。
古い家独特の、清潔にしていてもどこか埃っぽさが残る匂いをゆっくり吸い込んでから金平糖のお礼を伝えれば、駄菓子屋のお婆ちゃんは目許の皺を深くしてわたしの頭を優しく撫でてくれた。
「あたしゃね、お嬢ちゃんたちの笑顔が見れたらそれだけで元気でいられるんだよ」
悲しいも寂しいも忘れなくて良い。だけどそればっかりになってたらお空の坊も同じように悲しいと寂しいばっかになっちまう。
ずっとお空が泣いてたらお嬢ちゃんもまた悲しくなるだろう?
そうなったら雨がやまなくなっちまう。お嬢ちゃんが笑っていれば、きっと坊がお空を晴れにしてくれる。
そうしたらあの金平糖みたいにお星さんがキラキラ輝く夜空も見られるからね。
絵本や紙芝居を読み聞かせるような語り口の話はわたしの心にすっと染み込んできた。
「お嬢ちゃんはお月さんみたいだからよ。ひとつでも多くのお星さんを照らしてあげられるお月さんになりな」
あの金平糖を選んだのはそういう理由からだと目を細められ、わたしはコクンと首を縦に振る。
「お婆ちゃん、あの夜色の金平糖、今度はちゃんと買いに来るから!」
「はは、そうかい。そんならお嬢ちゃんがいつ買いに来ても大丈夫なよう仕入れとこうねぇ」
カラカラと弾む声に、約束ね! と差し出した小指には柔らかくて優しい温度が絡まってきた。
この日を切っ掛けに、わたしは『日常』へと戻ることが出来たのだった。
「おい、和! 寝てんのかーっ?」
また聡真の声が階下から聞こえて、自分が一瞬ぼんやりと過去に浸ってしまっていたことに気付く。
わたしが「しっかりしろ」と常々云われる所以はこういうところだ。
「起きてる! 待って! すぐ降りるから!」
慌てて階下に届くような声量で返し、わたしは正座で向き合っていた黒い額縁の中の写真に微笑む。
「お兄ちゃん、行ってきます」
毎朝恒例の挨拶をしてから、わたしは深紅色のランドセルを背負って階段を駆け下りた。
小学三年生から四年生にかけての春休み。
この年の桜はほんの少しだけ遅咲きで、近くの河原の桜並木が本格的にピンク色の霞を広げたのは四月に入ってからだった。
今日お花見しに行こうよ、なんて話をしながら聡真と朝ご飯を食べていたら、着物姿のお母さんが食卓に姿を現した。
お母さんが洋服ではなく着物を纏っているというだけで、瞬時に背筋が伸びた。
割烹料理屋の女将であるお母さんは確かに着物をよく着ているけれど、それは夜お店に出る時の話。
朝に着物を着ている時は何か大事なことがある時だ。
「和、聡真。朝ご飯を終えたら身支度を整えて九時までに椿の間にいらっしゃい」
椿の間、とは、烏丸家の屋敷内では三番目に大きな座敷だ。わたしも聡真も、座敷に呼ばれる機会はまだ多くない。つまり今日九時からはそれこそ大事な何かが行われるのだろう。
わたしと聡真は一瞬視線を交えてから「はい」と畏まった声で返事をした。
「姐さん、服装は? 正装?」
聡真がわたしのお母さんのことを『姐さん』と呼ぶのは組の大人たちの真似らしい。曰く、何かカッコイイから、とのこと。
「正装でなくて構わないわ。けれど、そうね。聡真は長ズボンに襟付きのシャツ、和はワンピースになさい」
成程、わたしたちにとっては半正装、といったところか。
いよいよ背骨に板が添えられる。
チラリと見た壁時計は八時になる少し手前。
わたしと聡真はのんびり食べていた朝ご飯の残りを手早く済ませて食卓を離れた。
自室の箪笥の中から引っ張り出したのは菫色のワンピース。
それにレースの縁飾りが付いた白い靴下を合わせ、鏡の前で丁寧に髪の毛を梳かす。
胸の辺りまである長さの髪の毛は家の名に相応しく烏の濡れ羽色。
部屋の時計は八時三十五分。時間の余裕は充分だ。
椿の間の前に立ったら、聡真もすぐに追い付いてきた。
言葉は発さず、目を合せてからトントンと襖を叩く。
するり、内側から横に滑った襖の向こうには烏丸組内で幹部と呼ばれている大人たち何人かが座敷の中央を挟んで横並びになっていた。
上座には組長であるお父さんの姿こそなかったけれど、お母さんと、その横には見知らぬ子供が姿勢良く正座をしていた。
髪の毛は肩に付くか付かないかくらいの長さだけれど、服装が聡真と似ているからきっと男の子なのだろう。
あの子は一体?
思わずまた聡真と顔を見合せてしまう。
「和、聡真」
お母さんの真面目な声に名前を呼ばれ、すぐに座敷の真ん中に並べてある座布団の上にそれぞれ正座する。
この場に必要な人間はこれで揃ったのか、お母さんが凛とした声を真っ直ぐ投げてきた。
「和、聡真。この子はアキラ。歳はあなたたちと同じ、次から四年生よ」
お母さんの台詞に繋げるよう、その隣に居る男の子が静かに口を開く。
「鷺沼英良、です」
音程こそ確かにまだ同年代のそれだったけれど、彼の名乗りに感情の抑揚は見えなかった。
「英良には暫くこの家で一緒に過ごしてもらうことになったの。くれぐれも仲良くなさいね」
「よろしくお願いします」
畳に手をつき頭を下げた男の子――英良――に倣うよう、わたしと聡真も頭を下げる。
「さて、この場に一部の幹部方々をお呼び立てした理由は英良に関しての周知事項をお伝えする為です。この子はわたしの古い知り合いからお預かりした子です。組長の意向により、今この瞬間から英良へも和と聡真に準ずる接し方をして頂けますようご承知おきください」
丁寧な云い方だけれど、それはお願い、ではなく組長代理としての確かな命令。
スーツ姿の大人たちが声を揃えて短く返事をし、頭を下げた。
「当面、英良には聡真と同じ部屋で暮らしてもらいます。聡真、何か異論は?」
「ありません」
聡真の返事が余りにもハッキリとした声だったから、わたしは聡真の返事が実は半拍遅れたことに気付かなかった。
「ではこの場はこれにて解散と致します」
お母さんの締めの言葉に大人たちはまた揃って頭を下げてから、静かに立ち上がり座敷を出て行った。
「聡真には少し話したいことがあります。和は英良を茶の間へ案内してあげなさい」
大人たちが退室していく中、暗にこの場に残れと告げられた聡真は正座をしたまま。
わたしはそっと立ち上がって英良の目の前まで歩んだ。
「行こ」
手を差し出したら、英良は一瞬光のない目でわたしを見てから小さく頷き腰を上げた。
並んで立つと、ほんの少しだけ上にある視線の高さは聡真と同じくらいか。
チラリとお母さんを見たら、視線が速やかな退室を促してくるものだから。わたしは英良の手を取って椿の間を出た。
椿の間から茶の間へと歩きながら、英良の横顔を覗く。肩位まである髪の毛はわたしと同じ黒だけど、ほんの少し色の雰囲気が違う。喩えるのなら、英良の髪は書道で使う墨みたいな黒色だ。
「ねぇ? 髪の毛、伸ばしてるの?」
「え……?」
わたしの問い掛けが意外だったのか、英良は一瞬目をぱちくりさせた。
「男の子で髪長い子、あんまり知らないから」
何か理由あるの? と更に問えば、英良はゆっくり頭を左右に揺らした。
「特別な理由はないよ」
「ふぅん……」
「男のクセに、とか思う?」
そんな風に問われ、今までそう云われたことがあるのかな……と何とはなしに思う。でもそうじゃない。
「ううん、違うの。書道の墨みたいで綺麗だなって思っただけ。だから長い方が良いと思う。似合ってるし! わたし、書道の墨の真っ黒さって綺麗だけどカッコ良くも感じるから、凄く好き!」
あと墨を磨ってる時の匂いも好き、と笑ったら、英良は少しだけ間を空けてから、珍しいね……と肩を揺らした。
「真っ黒だねって云われることはあるけど……書道の墨みたい、っていうのは初めて云われた」
書道やってるの? と訊かれたところで、茶の間に着いた。
「うん。ほら、あれ。壁に飾ってあるヤツ、この前のお正月に表彰されたの」
茶の間の片隅に積んである座布団を引っ張って英良に渡しながら、奥の壁へと視線を投げる。
一般的に認知されているサイズの半紙を縦に何枚か並べた位の縦長な半紙に書いてあるのは『仲間と共に』という文字。
「へぇ……上手だね」
わたしが座布団の上に座るまで立って待っていた英良の声音におもねるような色はなかった。
それは凄く些細なことだけれど、わたしにとっては嬉しい反応。
同年代の子に特別扱いをされるのはあまり好きじゃない。
「あ、正座じゃなくて大丈夫だよ」
座布団に腰を落として足を伸ばしながら、わたしは隣で正座する英良の膝を指差す。
「さっきみたいな時は正座してなきゃだけど、普段は足崩してて大丈夫」
「ありがとう。でも大丈夫。正座の方が落ち着くんだ」
ふふと微笑む英良は少しだけ大人っぽく感じた。
「ねぇ、同い歳なんだよね? 何月生まれ?」
六月とか、八月とか、そんな感じかなぁなんて直観的な予想は大外れ。
「二月だよ」
「早生まれなの? 意外!」
「そう? 二月三日が誕生日」
「豆撒きの日だ!」
反射的にそう返してから、二月三日かぁ……と天井を仰ぐ。
「じゃあ、春を連れてくる人だね」
「……春を連れて……?」
どういう意味? と首を傾げる英良に、だって節分でしょ? と人差し指を立てる。
「冬と春の境目の日だから、春を連れてくる人」
「なるほど……」
「春はポカポカしててキラキラしてるからわたし、大好き」
そう云いながら笑顔を浮かべたら、英良も小さく笑った。
「じゃあ、お嬢はまさに春の人、かな?」
「……春の人……?」
今度はわたしが首を傾げながらその意味を問おうとしたところで、廊下からパタパタと足音。
「あ、聡真だ」
聞き慣れた足音に反応した直後、予測通り聡真が茶の間に飛び込んで来たから、わたしと英良二人でのお喋りはそこでそのまま終わってしまった。
春は出会いの季節、とはよく云ったもので。
この『春を連れてくる人』との出会いはわたしにとってまさに『運命的』なものだった。
お陽様の光は柔らかい飴色をしているのに、冷たい空気は肌を引っ掻くように鋭い。
子供は邪魔だから、と云われなくても判っているわたしと聡真はスーツ姿の大人たちを少し遠目にしながらぼんやりと立ち尽くしていた。
「……ねぇ、どうしてお兄ちゃんが死んじゃったのか、聡真は知ってる?」
誰かに云い付けられたのだろうか。通夜の前日からわたしの傍を離れない白銀色にそっと問う。横に並んではいるが、お互いの視線は遠くの鯨幕へと向いたまま。
「……知らない。オトナの事情だってよ」
素っ気ない声に、ほんの僅かな疑念が沸く。本当に知らないのだとしたら、聡真はこんなに大人しくずっとわたしの傍に居るだろうか?
わたしのお兄ちゃんを実の兄のように慕っていた聡真だ。
真っ直ぐで曖昧さを嫌う聡真の性格上、オトナの事情、だなんて子供騙しの説明で彼が納得しているとは到底思えなかった。
親よりも歳上の大人にさえ平気で突っ掛かって真相を聞き出していそうなものなのに。
そう思いながらも、わたしは「そっか……」とだけ呟いて追随するのはやめておいた。
世の中には知らなくても良いことがある。殊、黒社会の中では尚のこと。年齢はまだ一桁とはいえ、自分は曲がりなりにもヤクザの娘。ある程度の生き方は心得ている。少なくとも『今のわたし』はそれを知る必要がないのだろう。どういう意図があってのことかは判らないけれど。
「俺、」
相変わらず視線を交えないまま、聡真がぽつりと零した。
「俺……アニキみたいな男になる」
静かに握られた手から伝わってくる体温の決意に、うん、と小さく頷く。
なりたい、ではなく、なる、という断言的な云い方は酷く聡真らしい。
「聡真なら、なれるよ」
お世辞でも慰みでもない。聡真とは生まれてすぐからの付き合いだ。生まれた家は違えど、わたしの聡真への信頼は厚い。聡真なら、お兄ちゃんみたいになれる。純粋にそう思っているから、わたしは余計な言葉を付け足すことなく、ただ彼の決意を受け止めるように聡真の手を握り返した。
鯨幕と、晴れ渡った青空のコントラストが目に痛いなと思ったけれど。この網膜を灼く痛みは、きっと忘れてはいけない痛みだ。
これはわたしと聡真が小学校二年生の冬のことだった。
『烏丸組』は都市部の繁華街を広くシマに持つヤクザ。
全国区で見れば中堅規模ではあるが、組織としてはそれなりに歴史を持つ古参組織として名を馳せている。
関東近郊のヤクザの中で烏丸組の名前を知らない者はモグリだと断言しても良い程。
組織内の結束が強く、今のところ内部抗争の気配は発芽前の種ひとつすら見当たらない。
それは偏に歴代の烏丸組組長が持つカリスマ性と、それに惹かれて集まった人間たちの信頼が厚いからこそだ。
伝統と仁義を重んじ続けてきている組の姿勢もまた、組の存続に大きく関わっているだろう。
烏丸和――それがわたしの名前。烏丸組組長の第二子にして長女。ただ、第一子であった十歳上のお兄ちゃんは既に鬼籍に入っている為、実質今のわたしは烏丸組の一人娘だ。
小学校二年生の冬、お兄ちゃんが亡くなった。
以降、周囲から云われることが増えた言葉がある。
「聡真の側から離れないようにしなさい」
聡真は葉取家の一人息子。わたしの父と聡真の父は旧知の仲らしく、葉取家が烏丸組の資金源として重要な立ち位置にあるという理由を抜きにしてもわたし的な関わりは深い。
父同士のみならず、母同士も友好的な関係を築いている為、わたしたちには父母が二人ずつ居るような感覚だ。
両親の仕事の都合で幼い子供を一人がちにするのもどうなのか、という理由もあり、聡真は物心ついた頃から烏丸家に頻繁に出入りしていたし、小学校に上がってからは烏丸家の離れで生活をしているくらいだから両家の親密さは推して知るべし。
聡真はわたしより三ヶ月早い生まれだから、本当にわたしは生まれた時から聡真とほぼずっと一緒に過ごしてきた。
聡真のことをお兄ちゃんのよう、だとは思わないけれど、頼りに出来る存在であることは確かだ。
小さい頃からたまにぼんやりしがちなところがあるわたしの手を引いてくれたのは聡真だった。
実のお兄ちゃん程は優しくないけど、わたしの泣き虫を放置することは絶対しなかった。
「和の側に居てやってくれ、って俺はアニキから任されてんだ。アニキに頼まれたら嫌とか云えねーし」
それは聡真の口癖。
わたしには渋々、みたいな口調でいつもそう云うけれど、聡真はわたしのお兄ちゃんから受けたそれを誇らしそうにもしていた。
信頼の循環。烏丸組の強みはまさにここにあるのだろう。
「おーい、和! まだ支度終わんねーの? 三年生最後の日に遅刻する気かーっ?」
母屋の階段下から聞こえてくる聡真の声。
この声のお陰でわたしはお兄ちゃんが亡くなってから長く塞ぎ込むことなく外に出られるようになった。
お兄ちゃんが亡くなってすぐの頃。二年生の三学期こそわたしは自分の部屋から出る気になれず、お母さんに何度「しっかりしなさい」と叱られたか判らない。
判ってる。しっかりしなきゃいけないのは判っている。
メソメソしていたってどうにもならないことくらい判っていた。
それでも、それまで当たり前にあった笑顔が、頭を撫でてくれる大きな手が消えてしまった喪失感は日増しに大きくばかり。
お母さんだってお父さんだって悲しいという気持ちはあったに違いないけれど、小学二年生のわたしはまだその悲しい気持ちを上手く処理する術を持ち合わせていなかった。
そんな時に傍に居てくれたのが聡真。
しっかりしろ、とは云わない。
泣くな、とも云いやしない。
ただ傍に居て、自分も悲しい、と背中を合わせてくれた。
もしわたしが男の子だったら、それこそわたしと聡真にもお父さんたちみたいな盟友関係を築く未来があったんじゃないかと思う。
「和は、アニキが一番大事にしてたものが何か知ってるか?」
ある日、膝を抱えていたわたしと背中合わせになっていた聡真がそんなことを呟いた。
「……お兄ちゃんが、一番大事にしてたもの……?」
「そう」
「……わかんない」
「和の笑顔だって云ってた」
「…………」
「アニキが大事にしてるものは、俺も大事にするって約束したんだ……」
だから、と後頭部を後頭部でコツンと軽く小突かれた。
「俺は、お前が一秒でも長く笑ってられるよーにしたい」
「……そうま」
「今日、学校の帰りに駄菓子屋の婆ちゃんに声掛けられた」
突然の話題転換に思わずキョトンとしてしまう。
「駄菓子屋の、お婆ちゃん……?」
床に手をついて体を半分捻ったら、そう、と聡真がわたしの手に小瓶を押し付けてきた。
「烏丸のお嬢ちゃんが気に入ってくれたら今度から仕入れようと思ってる、ってこれ貰った」
「金、平糖……」
小瓶の中には薄い青や紫、白の金平糖が詰まっている。
「それ、光に翳してみ?」
聡真に云われるがまま小瓶を蛍光灯の明かりに翳したわたしの口から、わぁっと感嘆の声が零れた。
「すごいっ、光に当てるとキラキラする! 金平糖の中にお星様がいるみたい!」
何度も小瓶の角度を変えながらその中身を見詰める。金箔や銀箔が練り込まれているらしい金平糖は、ひとつひとつが宵空を小さく固めたみたい。
飽きずにずっとそれを眺めていたら、聡真がわたしの手から小瓶をそっと取り上げた。
「明日、これのお礼云いに学校帰り駄菓子屋寄らねぇ? 駄菓子屋の婆ちゃんも和に会いたがってたし」
あぁ、聡真には勿論だけども、駄菓子屋のお婆ちゃんにも気を遣わせてしまったなぁということに気が付いた。
自分が塞ぎ込むことで、他の誰かに迷惑が掛かるのは本意じゃない。もし迷惑ではないと云われたとしても、不必要に自分のことを気に掛けさせてしまった、という事実は余り好ましくない。
「家族に迷惑を掛ける分には構わない。だけど他の人に迷惑は掛けるのはダメだ。他人の負担になるような甘えた生き方はしちゃいけない」
これはお兄ちゃんからよく云われていたこと。ある意味教訓みたいなものだろうか。
それなら聡真にも? と問うたのは多分幼稚園生の時。
その時お兄ちゃんは少しだけ悩む素振りを見せてから、聡真は家族扱いかなと笑っていた。
だからわたしはついつい聡真に甘えてしまっているけれども。
このままではいけない、という気持ちがにわかに込み上げてきた。
「……うん、行く」
小さい声ながらにも確かな意志を持って頷いたら、聡真はわたしの手に小瓶を戻して頭をポンポンと軽く叩くように撫でてきた。
「んじゃ、明日の朝もいつも通り迎えに来る」
僅かに唇の端を上げて立ち上がった聡真は「明日寝坊すんなよ」と肩を揺らしながら部屋を出て行った。
翌朝、宣言通り母屋の玄関からわたしを呼ぶ聡真の声に手を引かれて一緒に学校へ向かった。
クラスメイトから余計な声掛けがなかったのは大人たちからの配慮か、それとも聡真からクラスメイトへ前触れがあったのかどうかわたしには判らないけど。
穏やかに学校での一日を終えたわたしたちは帰り道に駄菓子屋へ寄った。
古い家独特の、清潔にしていてもどこか埃っぽさが残る匂いをゆっくり吸い込んでから金平糖のお礼を伝えれば、駄菓子屋のお婆ちゃんは目許の皺を深くしてわたしの頭を優しく撫でてくれた。
「あたしゃね、お嬢ちゃんたちの笑顔が見れたらそれだけで元気でいられるんだよ」
悲しいも寂しいも忘れなくて良い。だけどそればっかりになってたらお空の坊も同じように悲しいと寂しいばっかになっちまう。
ずっとお空が泣いてたらお嬢ちゃんもまた悲しくなるだろう?
そうなったら雨がやまなくなっちまう。お嬢ちゃんが笑っていれば、きっと坊がお空を晴れにしてくれる。
そうしたらあの金平糖みたいにお星さんがキラキラ輝く夜空も見られるからね。
絵本や紙芝居を読み聞かせるような語り口の話はわたしの心にすっと染み込んできた。
「お嬢ちゃんはお月さんみたいだからよ。ひとつでも多くのお星さんを照らしてあげられるお月さんになりな」
あの金平糖を選んだのはそういう理由からだと目を細められ、わたしはコクンと首を縦に振る。
「お婆ちゃん、あの夜色の金平糖、今度はちゃんと買いに来るから!」
「はは、そうかい。そんならお嬢ちゃんがいつ買いに来ても大丈夫なよう仕入れとこうねぇ」
カラカラと弾む声に、約束ね! と差し出した小指には柔らかくて優しい温度が絡まってきた。
この日を切っ掛けに、わたしは『日常』へと戻ることが出来たのだった。
「おい、和! 寝てんのかーっ?」
また聡真の声が階下から聞こえて、自分が一瞬ぼんやりと過去に浸ってしまっていたことに気付く。
わたしが「しっかりしろ」と常々云われる所以はこういうところだ。
「起きてる! 待って! すぐ降りるから!」
慌てて階下に届くような声量で返し、わたしは正座で向き合っていた黒い額縁の中の写真に微笑む。
「お兄ちゃん、行ってきます」
毎朝恒例の挨拶をしてから、わたしは深紅色のランドセルを背負って階段を駆け下りた。
小学三年生から四年生にかけての春休み。
この年の桜はほんの少しだけ遅咲きで、近くの河原の桜並木が本格的にピンク色の霞を広げたのは四月に入ってからだった。
今日お花見しに行こうよ、なんて話をしながら聡真と朝ご飯を食べていたら、着物姿のお母さんが食卓に姿を現した。
お母さんが洋服ではなく着物を纏っているというだけで、瞬時に背筋が伸びた。
割烹料理屋の女将であるお母さんは確かに着物をよく着ているけれど、それは夜お店に出る時の話。
朝に着物を着ている時は何か大事なことがある時だ。
「和、聡真。朝ご飯を終えたら身支度を整えて九時までに椿の間にいらっしゃい」
椿の間、とは、烏丸家の屋敷内では三番目に大きな座敷だ。わたしも聡真も、座敷に呼ばれる機会はまだ多くない。つまり今日九時からはそれこそ大事な何かが行われるのだろう。
わたしと聡真は一瞬視線を交えてから「はい」と畏まった声で返事をした。
「姐さん、服装は? 正装?」
聡真がわたしのお母さんのことを『姐さん』と呼ぶのは組の大人たちの真似らしい。曰く、何かカッコイイから、とのこと。
「正装でなくて構わないわ。けれど、そうね。聡真は長ズボンに襟付きのシャツ、和はワンピースになさい」
成程、わたしたちにとっては半正装、といったところか。
いよいよ背骨に板が添えられる。
チラリと見た壁時計は八時になる少し手前。
わたしと聡真はのんびり食べていた朝ご飯の残りを手早く済ませて食卓を離れた。
自室の箪笥の中から引っ張り出したのは菫色のワンピース。
それにレースの縁飾りが付いた白い靴下を合わせ、鏡の前で丁寧に髪の毛を梳かす。
胸の辺りまである長さの髪の毛は家の名に相応しく烏の濡れ羽色。
部屋の時計は八時三十五分。時間の余裕は充分だ。
椿の間の前に立ったら、聡真もすぐに追い付いてきた。
言葉は発さず、目を合せてからトントンと襖を叩く。
するり、内側から横に滑った襖の向こうには烏丸組内で幹部と呼ばれている大人たち何人かが座敷の中央を挟んで横並びになっていた。
上座には組長であるお父さんの姿こそなかったけれど、お母さんと、その横には見知らぬ子供が姿勢良く正座をしていた。
髪の毛は肩に付くか付かないかくらいの長さだけれど、服装が聡真と似ているからきっと男の子なのだろう。
あの子は一体?
思わずまた聡真と顔を見合せてしまう。
「和、聡真」
お母さんの真面目な声に名前を呼ばれ、すぐに座敷の真ん中に並べてある座布団の上にそれぞれ正座する。
この場に必要な人間はこれで揃ったのか、お母さんが凛とした声を真っ直ぐ投げてきた。
「和、聡真。この子はアキラ。歳はあなたたちと同じ、次から四年生よ」
お母さんの台詞に繋げるよう、その隣に居る男の子が静かに口を開く。
「鷺沼英良、です」
音程こそ確かにまだ同年代のそれだったけれど、彼の名乗りに感情の抑揚は見えなかった。
「英良には暫くこの家で一緒に過ごしてもらうことになったの。くれぐれも仲良くなさいね」
「よろしくお願いします」
畳に手をつき頭を下げた男の子――英良――に倣うよう、わたしと聡真も頭を下げる。
「さて、この場に一部の幹部方々をお呼び立てした理由は英良に関しての周知事項をお伝えする為です。この子はわたしの古い知り合いからお預かりした子です。組長の意向により、今この瞬間から英良へも和と聡真に準ずる接し方をして頂けますようご承知おきください」
丁寧な云い方だけれど、それはお願い、ではなく組長代理としての確かな命令。
スーツ姿の大人たちが声を揃えて短く返事をし、頭を下げた。
「当面、英良には聡真と同じ部屋で暮らしてもらいます。聡真、何か異論は?」
「ありません」
聡真の返事が余りにもハッキリとした声だったから、わたしは聡真の返事が実は半拍遅れたことに気付かなかった。
「ではこの場はこれにて解散と致します」
お母さんの締めの言葉に大人たちはまた揃って頭を下げてから、静かに立ち上がり座敷を出て行った。
「聡真には少し話したいことがあります。和は英良を茶の間へ案内してあげなさい」
大人たちが退室していく中、暗にこの場に残れと告げられた聡真は正座をしたまま。
わたしはそっと立ち上がって英良の目の前まで歩んだ。
「行こ」
手を差し出したら、英良は一瞬光のない目でわたしを見てから小さく頷き腰を上げた。
並んで立つと、ほんの少しだけ上にある視線の高さは聡真と同じくらいか。
チラリとお母さんを見たら、視線が速やかな退室を促してくるものだから。わたしは英良の手を取って椿の間を出た。
椿の間から茶の間へと歩きながら、英良の横顔を覗く。肩位まである髪の毛はわたしと同じ黒だけど、ほんの少し色の雰囲気が違う。喩えるのなら、英良の髪は書道で使う墨みたいな黒色だ。
「ねぇ? 髪の毛、伸ばしてるの?」
「え……?」
わたしの問い掛けが意外だったのか、英良は一瞬目をぱちくりさせた。
「男の子で髪長い子、あんまり知らないから」
何か理由あるの? と更に問えば、英良はゆっくり頭を左右に揺らした。
「特別な理由はないよ」
「ふぅん……」
「男のクセに、とか思う?」
そんな風に問われ、今までそう云われたことがあるのかな……と何とはなしに思う。でもそうじゃない。
「ううん、違うの。書道の墨みたいで綺麗だなって思っただけ。だから長い方が良いと思う。似合ってるし! わたし、書道の墨の真っ黒さって綺麗だけどカッコ良くも感じるから、凄く好き!」
あと墨を磨ってる時の匂いも好き、と笑ったら、英良は少しだけ間を空けてから、珍しいね……と肩を揺らした。
「真っ黒だねって云われることはあるけど……書道の墨みたい、っていうのは初めて云われた」
書道やってるの? と訊かれたところで、茶の間に着いた。
「うん。ほら、あれ。壁に飾ってあるヤツ、この前のお正月に表彰されたの」
茶の間の片隅に積んである座布団を引っ張って英良に渡しながら、奥の壁へと視線を投げる。
一般的に認知されているサイズの半紙を縦に何枚か並べた位の縦長な半紙に書いてあるのは『仲間と共に』という文字。
「へぇ……上手だね」
わたしが座布団の上に座るまで立って待っていた英良の声音におもねるような色はなかった。
それは凄く些細なことだけれど、わたしにとっては嬉しい反応。
同年代の子に特別扱いをされるのはあまり好きじゃない。
「あ、正座じゃなくて大丈夫だよ」
座布団に腰を落として足を伸ばしながら、わたしは隣で正座する英良の膝を指差す。
「さっきみたいな時は正座してなきゃだけど、普段は足崩してて大丈夫」
「ありがとう。でも大丈夫。正座の方が落ち着くんだ」
ふふと微笑む英良は少しだけ大人っぽく感じた。
「ねぇ、同い歳なんだよね? 何月生まれ?」
六月とか、八月とか、そんな感じかなぁなんて直観的な予想は大外れ。
「二月だよ」
「早生まれなの? 意外!」
「そう? 二月三日が誕生日」
「豆撒きの日だ!」
反射的にそう返してから、二月三日かぁ……と天井を仰ぐ。
「じゃあ、春を連れてくる人だね」
「……春を連れて……?」
どういう意味? と首を傾げる英良に、だって節分でしょ? と人差し指を立てる。
「冬と春の境目の日だから、春を連れてくる人」
「なるほど……」
「春はポカポカしててキラキラしてるからわたし、大好き」
そう云いながら笑顔を浮かべたら、英良も小さく笑った。
「じゃあ、お嬢はまさに春の人、かな?」
「……春の人……?」
今度はわたしが首を傾げながらその意味を問おうとしたところで、廊下からパタパタと足音。
「あ、聡真だ」
聞き慣れた足音に反応した直後、予測通り聡真が茶の間に飛び込んで来たから、わたしと英良二人でのお喋りはそこでそのまま終わってしまった。
春は出会いの季節、とはよく云ったもので。
この『春を連れてくる人』との出会いはわたしにとってまさに『運命的』なものだった。
