そこにあったはずの愛

番外編11話「シッ」

ここ最近、凛の顔色が優れなかった。

 

就職準備と大学の課題、それにバイトが重なっているのは知っていた。

けれど、いつもより明らかに、動きに元気がない。

 

 

「大丈夫? ちゃんと寝てる?」

 

夕食の支度をしながら、そう聞いた。

 

「平気平気」

 

軽い返事。

けれど、目の下の色が、平気には見えなかった。

 

 

「無理してない? しんどかったら、今日は早く休んで」

 

「大丈夫だって」

 

「本当に? さっきから、あくび何回もしてるし」

 

「玲依さん」

 

「食欲は? ちゃんと食べれてる? 最近、痩せた気がする」

 

「玲依さん」

 

 

呼ばれたことにも気づかず、まだ続けようとした。

 

「あと、肩とか凝ってない? マッサージ、」

 

「シッ」

 

唇に、不意に指が押し当てられた。

 

言葉が、そこで止まった。

 

凛の人差し指が、そっと、唇に触れている。

 

低く、囁くような声だった。

 

 

いつもの、軽い調子とは違う。

どこか、悪戯っぽくて、けれど有無を言わせない響きがあった。

 

 

指を押し当てられたまま、動けなくなった。

 

「心配、してくれてるのは分かるけど」

 

凛が、少し身を屈めてくる。

 

「今は、それより」

 

 

指を離さないまま、凛の顔が、近づいてきた。

 

自分の唇を、押し当てた指先に、そっと寄せていく。

 

触れるか触れないか、その一瞬の距離で、心臓が、大きく跳ねた。

 

 

指が、すっと引かれた。

 

代わりに、唇が、重なった。

 

 

最初は、触れるだけの、優しいキスだった。

 

けれど、すぐに、深くなっていく。

 

角度を変えて、また重なる。

吐息が、混じり合う。

 

 

頬に、手が添えられた。

輪郭をなぞるように、指先が、肌の上を滑っていく。

 

その優しさとは裏腹に、口づけは、次第に余裕をなくしていった。

 

 

背中に、ゆっくりと腕が回される。

引き寄せられて、体温が、より近くなった。

 

 

唇の隙間から、微かな声が漏れた。

自分のものなのか、凛のものなのか、もう分からなかった。

 

 

角度を変えるたび、深さが増していく。

触れ合う舌先に、思考が、蕩けるように溶けていった。

 

 

どれくらい、そうしていただろう。

 

ようやく唇が離れた時、二人とも、微かに息を切らしていた。

 

 

額を、そっと合わせられる。

 

近すぎる距離で、視線が絡んだ。

 

 

「心配、しなくていいから」

 

囁くような声だった。

 

「疲れてるのは、本当だけど。玲依といる時間は、ちゃんと休めてるから」

 

 

その言葉に、胸の奥が、じんわりと温かくなった。

 

「ずるい」

 

「何が」

 

「そうやって、いつも丸め込むの」

 

 

凛が、小さく笑った。

 

「丸め込んでるつもりはないけど」

 

「絶対、分かっててやってる」

 

 

言い返しながらも、もう一度、額を寄せた。

 

さっきまでの心配が、少しずつ、別の温度に変わっていく。

 

 

「今度からは」

 

小さく、そう告げた。

 

「その手、使わないでよ」

 

「なんで」

 

「反則だから」

 

 

凛が、悪戯っぽく笑って、また、唇を寄せてきた。

 

「反則、もう一回する?」

 

 

答える代わりに、目を閉じた。

 

疲れているはずの凛の腕の中で、心配していたはずの自分の方が、すっかり甘やかされていた。