そこにあったはずの愛

番外編9話「傘の中の距離」

昼過ぎから降り出した雨が、夕方になっても止まなかった。

 

『傘、持ってきてないでしょ』

 

凛にメッセージを送ると、すぐに既読がついた。

 

『バレた』

『大学出たとこ』

 

短い返信に、思わず笑ってしまった。

 

車で、迎えに行くことにした。

 

 

大学の正門前に車を停めると、軒下で、雨宿りする凛の姿がすぐに見つかった。

濡れないように、鞄を頭にかぶっている。

その格好が、あまりに間抜けで、また笑ってしまった。

 

 

助手席の窓を開けて、声をかけた。

 

「乗って」

 

「玲依」

 

こちらに気づいて、駆け寄ってくる。

 

「迎えに来てくれたの」

 

「濡れて帰ったら、風邪ひくでしょ」

 

「ありがとう」

 

素直な礼に、なぜか、こちらが照れてしまった。

 

 

マンションの駐車場に着いても、雨脚は弱まらなかった。

 

「傘、持ってきたから」

 

一本の傘を、二人で差して、エントランスまで歩く。

 

「くっつかないと、濡れるよ」

 

言われるまま、体を寄せた。

 

肩が、触れ合う距離。

雨音の中、傘を叩く音だけが、やけに大きく聞こえた。

 

 

「傘、俺が持つよ」

 

「いい。私が持ってきたんだから」

 

「じゃあ、半分こ」

 

柄の部分に、凛の手が重なってきた。

 

 

指先が触れる。

その些細な接触だけで、心臓が、静かに音を立てた。

 

 

歩き出してすぐ、風が吹いて、傘が、こちら側に傾いた。

 

「あ」

 

肩が、雨に濡れる。

 

「玲依、そっち濡れてる」

 

「凛が、こっちに傾けすぎ」

 

「だって」

 

言いかけて、凛が、少し口ごもった。

 

「玲依が濡れるくらいなら、俺が濡れた方がマシだし」

 

 

その一言に、頬が、じわりと熱くなった。

 

「そんなの、私だって同じこと思ってる」

 

「じゃあ、両方濡れよう。それが一番、公平でしょ」

 

 

くだらない理屈に、思わず笑った。

 

けれど、繋がった手の力は、緩まなかった。

 

 

部屋に着く頃には、二人とも、肩の辺りがしっとりと濡れていた。

 

「くしゅ」

 

小さなくしゃみが、隣から聞こえた。

 

「風邪ひいちゃったかも」

 

「大丈夫。玲依が、あったかいから」

 

濡れた前髪から、水滴が落ちる。

その顔で、平然とそんなことを言うから、困る。

 

 

「先、シャワー浴びて」

 

「玲依から、どうぞ」

 

「いいから、早く」

 

背中を押して、浴室に押し込んだ。

扉が閉まる直前、凛が、悪戯っぽく笑ったのが見えた。

 

 

凛のあと、自分もシャワーを浴びて、リビングに戻った。

 

ソファに座った凛は、髪がまだ、湿ったままだった。

 

「乾かしてないの」

 

「面倒で、後回しにしてた」

 

呆れながら、ドライヤーを手に取った。

 

 

「こっち来て」

 

隣に座らせて、髪を乾かしてあげることにした。

 

 

温風が、髪をなびかせる。

指を通すたび、凛が、気持ちよさそうに目を細めた。

 

「玲依、優しいね」

 

「これくらい、普通でしょ」

 

「普通じゃないよ。俺、こんな風にしてもらったこと、あんまりないから」

 

 

ぽつりと落とされた一言に、手が、一瞬止まった。

 

三年前まで、誰かにこんな風に、無防備な自分を委ねることさえ、なかったはずの人。

その事実に、胸の奥が、きゅっと締めつけられた。

 

 

「これからは、何度でもしてあげる」

 

静かに、そう告げた。

 

 

凛が、こちらを見た。

真っ直ぐな目だった。

 

「玲依」

 

「なに」

 

「好きすぎて、困る」

 

 

不意打ちのような一言に、ドライヤーを持つ手が、また止まった。

 

「なんで急に」

 

「今、思ったから」

 

 

真っ直ぐな言葉に、返す言葉が見つからなかった。

 

代わりに、そっと、抱きついた。

 

 

「私も」

 

小さく、耳元で囁いた。

 

「困るくらい、好き」

 

 

腕の中で、凛が、小さく笑う気配がした。

 

「反則じゃん、それ」

 

「そっちが先に言ったんでしょ」

 

 

そのまま、しばらく、抱き合ったままでいた。

 

窓の外、雨音だけが、静かに響いていた。

 

 

濡れた髪も、冷えた体も、今はもう、どうでもよかった。

 

こんな些細な雨の日でさえ、こんなにも満たされてしまうことが、少しおかしくて、けれど、たまらなく愛おしかった。