番外編7話 あの子は知らない」
そのカフェに、足を運ぶのは、久しぶりだった。
契約が始まってから、あえて避けていた場所だった。
凛の日常を、実生活を、垣間見てしまうような気がして。
見てしまえば、この関係の建前が、崩れてしまう気がしていた。
けれど、今は違う。
恋人同士になった今なら、行ってもいいはずだった。
サプライズで、凛を驚かせようと思った。
そう思いつくと、自然と、足取りが軽くなった。
カフェの前に着いて、少し息を整える。
ガラス越しに、中の様子を窺った。
カウンターの中に、凛がいた。
いつもの、軽やかな笑顔。
けれど、その笑顔は、こちらに向けられたものじゃなかった。
若い女性客と、楽しげに話し込んでいる。
凛は、ただの接客として対応しているだけなのだろう。
その仕草には、何の他意もなさそうだった。
けれど、女性客の方は、違った。
頬を赤らめ、身を乗り出すように、凛に話しかけている。
その視線の熱量に、見覚えがあった。
三年前、自分もまた、あんな風に、凛を見ていたのかもしれない。
足が、止まった。
知らないところで、凛は、こんな風に見られ続けてきたのだろうか。
自分の知らない場所で、誰かに好意を寄せられ、笑いかけられ。
その事実に、初めて、はっきりとした形の不安が押し寄せてきた。
何を、安心しきっていたのだろう。
気持ちが通じ合ったからといって、この先もずっと、凛が自分だけを見てくれる保証など、どこにもなかった。
その当たり前の現実を、突きつけられた気がした。
中に入る勇気が、失われていった。
踵を返して、その場を離れようとした。
「玲依さんっ」
背後から、声がした。
驚いて振り返ると、凛が、店から飛び出してきていた。
息を切らしながら、腕を掴まれる。
「どうしたの、急に」
心配そうな声。
その顔を見た瞬間、抑えていたものが、溢れそうになった。
目に、涙が滲んでいるのが、自分でも分かった。
凛が、その涙に気づいて、一瞬、言葉を失った。
けれど、すぐに、何かを悟ったような表情になった。
強く、抱き寄せられた。
腕の中に、すっぽりと収められる。
「見たんだ、さっきの」
耳元で、静かな声がした。
答えられずにいると、続きの言葉が落ちてきた。
「俺には、玲依さんしかいない」
いつもの、軽い調子じゃなかった。
真剣な声。
嘘や誤魔化しの、微塵もない声だった。
「他の誰と話しても、意味なんてない。ただの接客だし、それ以上でも以下でもない」
淡々と、けれど確かな言葉が、続いていく。
「俺が見てるのは、ずっと、玲依さんだけ」
その言葉に、張り詰めていたものが、少しずつ緩んでいった。
涙が、頬を伝う。
「ごめん、変なこと考えて」
小さく、そう謝った。
「変じゃないよ」
凛が、優しく、背中を撫でた。
「玲依さんが、そんな風に思ってくれるの、俺は嬉しいけど」
その言葉に、少し驚いて顔を上げた。
「嬉しい?」
「うん。それだけ、俺のこと、真剣に考えてくれてるってことだから」
いたずらっぽく笑うその顔に、ようやく、笑みがこぼれた。
「調子いいこと言って」
「本当のことだよ」
腕の中で、しばらく、そのまま身を委ねた。
まだ、完全に不安が消えたわけじゃない。
けれど、この腕の中にいる限り、大丈夫だと思えた。
「今日、サプライズで来てくれたんでしょ」
「うん」
「じゃあ、中入って。みんなに紹介するから」
その言葉に、目を丸くした。
「いいの?」
「当たり前でしょ。俺の、大事な人だから」
差し出された手を、そっと握った。
さっきまでの不安が、少しずつ、確かな安心に変わっていくのを感じながら、凛と一緒に、カフェの中へと足を踏み入れた。
そのカフェに、足を運ぶのは、久しぶりだった。
契約が始まってから、あえて避けていた場所だった。
凛の日常を、実生活を、垣間見てしまうような気がして。
見てしまえば、この関係の建前が、崩れてしまう気がしていた。
けれど、今は違う。
恋人同士になった今なら、行ってもいいはずだった。
サプライズで、凛を驚かせようと思った。
そう思いつくと、自然と、足取りが軽くなった。
カフェの前に着いて、少し息を整える。
ガラス越しに、中の様子を窺った。
カウンターの中に、凛がいた。
いつもの、軽やかな笑顔。
けれど、その笑顔は、こちらに向けられたものじゃなかった。
若い女性客と、楽しげに話し込んでいる。
凛は、ただの接客として対応しているだけなのだろう。
その仕草には、何の他意もなさそうだった。
けれど、女性客の方は、違った。
頬を赤らめ、身を乗り出すように、凛に話しかけている。
その視線の熱量に、見覚えがあった。
三年前、自分もまた、あんな風に、凛を見ていたのかもしれない。
足が、止まった。
知らないところで、凛は、こんな風に見られ続けてきたのだろうか。
自分の知らない場所で、誰かに好意を寄せられ、笑いかけられ。
その事実に、初めて、はっきりとした形の不安が押し寄せてきた。
何を、安心しきっていたのだろう。
気持ちが通じ合ったからといって、この先もずっと、凛が自分だけを見てくれる保証など、どこにもなかった。
その当たり前の現実を、突きつけられた気がした。
中に入る勇気が、失われていった。
踵を返して、その場を離れようとした。
「玲依さんっ」
背後から、声がした。
驚いて振り返ると、凛が、店から飛び出してきていた。
息を切らしながら、腕を掴まれる。
「どうしたの、急に」
心配そうな声。
その顔を見た瞬間、抑えていたものが、溢れそうになった。
目に、涙が滲んでいるのが、自分でも分かった。
凛が、その涙に気づいて、一瞬、言葉を失った。
けれど、すぐに、何かを悟ったような表情になった。
強く、抱き寄せられた。
腕の中に、すっぽりと収められる。
「見たんだ、さっきの」
耳元で、静かな声がした。
答えられずにいると、続きの言葉が落ちてきた。
「俺には、玲依さんしかいない」
いつもの、軽い調子じゃなかった。
真剣な声。
嘘や誤魔化しの、微塵もない声だった。
「他の誰と話しても、意味なんてない。ただの接客だし、それ以上でも以下でもない」
淡々と、けれど確かな言葉が、続いていく。
「俺が見てるのは、ずっと、玲依さんだけ」
その言葉に、張り詰めていたものが、少しずつ緩んでいった。
涙が、頬を伝う。
「ごめん、変なこと考えて」
小さく、そう謝った。
「変じゃないよ」
凛が、優しく、背中を撫でた。
「玲依さんが、そんな風に思ってくれるの、俺は嬉しいけど」
その言葉に、少し驚いて顔を上げた。
「嬉しい?」
「うん。それだけ、俺のこと、真剣に考えてくれてるってことだから」
いたずらっぽく笑うその顔に、ようやく、笑みがこぼれた。
「調子いいこと言って」
「本当のことだよ」
腕の中で、しばらく、そのまま身を委ねた。
まだ、完全に不安が消えたわけじゃない。
けれど、この腕の中にいる限り、大丈夫だと思えた。
「今日、サプライズで来てくれたんでしょ」
「うん」
「じゃあ、中入って。みんなに紹介するから」
その言葉に、目を丸くした。
「いいの?」
「当たり前でしょ。俺の、大事な人だから」
差し出された手を、そっと握った。
さっきまでの不安が、少しずつ、確かな安心に変わっていくのを感じながら、凛と一緒に、カフェの中へと足を踏み入れた。

