第百十三話「対等の意味」
「一緒に、来てほしい」
凛にそう頼まれたのは、数日前のことだった。
珍しく、歯切れの悪い言い方だった。
理由を、深くは聞かなかった。
けれど、簡単な話ではないのだろうと、なんとなく察していた。
凛の実家に向かう道中、口数が少なかった。
隣を歩く凛の横顔にも、いつもの余裕はなかった。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと、緊張してるだけ」
その「ちょっと」が、思っていたよりずっと重そうに聞こえた。
玄関を開けると、凛の母が迎えてくれた。
「初めまして。上代玲依です」
黒崎という名は、もう名乗らなかった。
大学に入ってからずっと名乗ってきた名前だったけれど、今日だけは、それを脱ぎたかった。
凛の家族にだけは、取り繕わない本当の自分で会いたいと思った。
深く頭を下げた。
母の目が、こちらを一瞬で見定めるように動いたのが分かった。
「どうぞ、上がって」
言葉自体は丁寧だった。
けれど、その奥に、簡単には開かない何かがあることを、肌で感じた。
食卓に着いても、しばらくは当たり障りのない会話が続いた。
仕事のこと、育った場所のこと。
母の受け答えは、丁寧で、けれど淡々としていた。
温度のある歓迎とは、少し違う。
「凛から、聞いたと思うけど」
不意に、母が切り出した。
「あの子、この三年、あなたに合わせるために、無理してたそうね」
心臓が、跳ねた。
「バイトを詰め込んで、身なりを整えて。生活費のためじゃなくて、あなたに見劣りしたくないから」
言葉が、出なかった。
凛から話は聞いていた。
けれど、母親の口から語られると、また違う重みで胸に迫ってくる。
「申し訳ありません」
咄嗟に、頭を下げた。
「謝ってほしいわけじゃないの」
母の声は、静かだった。
「あなたが悪いとは、思ってない」
顔を上げると、母が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「ただ、知りたいの。あなたと凛は、本当に対等でいられるのか」
核心を突く問いだった。
「育ちも、環境も、全然違う。あなたにとっては当たり前のことが、あの子には当たり前じゃない。そういう差を、埋められるの?」
答えを、探した。
けれど、綺麗な言葉を並べるだけでは、この人の不安は消えないと分かっていた。
「差があることは、否定できません」
正直に、そう答えた。
「でも、埋めようとするんじゃなくて。お互いの違うところを、そのまま受け止めたいと思ってます」
「言葉では、なんとでも言えるでしょう」
厳しい返しだった。
けれど、その厳しさに、逃げるつもりはなかった。
「凛さんが、実家暮らしだと嘘をついていたことにも、気づけませんでした」
静かに、続けた。
「対等でいたいと言いながら、私は、凛さんの本当の生活を、長い間知らずにいました」
母の表情が、わずかに動いた。
「それでも、これからは、ちゃんと見ていきたいと思っています」
沈黙が、しばらく続いた。
「実は、報告したいことがもう二つあって」
凛が、静かに口を開いた。
「就職先、玲依のお父さんの会社に決まった。それと、もう一緒に住み始めてる」
母の顔が、はっきりと曇った。
「仕事も、住むところも。全部、あなたの世界に入っていくのね」
その一言に、返す言葉が見つからなかった。
「不安にさせてしまって、申し訳ありません」
頭を下げることしか、今はできなかった。
母は、それ以上何も言わなかった。
ただ、複雑な表情のまま、こちらを見つめていた。
帰り道、二人とも、しばらく無言だった。
「ごめん」
凛が、ぽつりと言った。
「ううん」
首を振った。
「まだ、何も終わってない。これから、ちゃんと向き合っていくだけだから」
そう言いながらも、母の言葉の重みは、まだ胸の奥に残っていた。
「一緒に、来てほしい」
凛にそう頼まれたのは、数日前のことだった。
珍しく、歯切れの悪い言い方だった。
理由を、深くは聞かなかった。
けれど、簡単な話ではないのだろうと、なんとなく察していた。
凛の実家に向かう道中、口数が少なかった。
隣を歩く凛の横顔にも、いつもの余裕はなかった。
「大丈夫?」
「うん。ちょっと、緊張してるだけ」
その「ちょっと」が、思っていたよりずっと重そうに聞こえた。
玄関を開けると、凛の母が迎えてくれた。
「初めまして。上代玲依です」
黒崎という名は、もう名乗らなかった。
大学に入ってからずっと名乗ってきた名前だったけれど、今日だけは、それを脱ぎたかった。
凛の家族にだけは、取り繕わない本当の自分で会いたいと思った。
深く頭を下げた。
母の目が、こちらを一瞬で見定めるように動いたのが分かった。
「どうぞ、上がって」
言葉自体は丁寧だった。
けれど、その奥に、簡単には開かない何かがあることを、肌で感じた。
食卓に着いても、しばらくは当たり障りのない会話が続いた。
仕事のこと、育った場所のこと。
母の受け答えは、丁寧で、けれど淡々としていた。
温度のある歓迎とは、少し違う。
「凛から、聞いたと思うけど」
不意に、母が切り出した。
「あの子、この三年、あなたに合わせるために、無理してたそうね」
心臓が、跳ねた。
「バイトを詰め込んで、身なりを整えて。生活費のためじゃなくて、あなたに見劣りしたくないから」
言葉が、出なかった。
凛から話は聞いていた。
けれど、母親の口から語られると、また違う重みで胸に迫ってくる。
「申し訳ありません」
咄嗟に、頭を下げた。
「謝ってほしいわけじゃないの」
母の声は、静かだった。
「あなたが悪いとは、思ってない」
顔を上げると、母が真っ直ぐにこちらを見ていた。
「ただ、知りたいの。あなたと凛は、本当に対等でいられるのか」
核心を突く問いだった。
「育ちも、環境も、全然違う。あなたにとっては当たり前のことが、あの子には当たり前じゃない。そういう差を、埋められるの?」
答えを、探した。
けれど、綺麗な言葉を並べるだけでは、この人の不安は消えないと分かっていた。
「差があることは、否定できません」
正直に、そう答えた。
「でも、埋めようとするんじゃなくて。お互いの違うところを、そのまま受け止めたいと思ってます」
「言葉では、なんとでも言えるでしょう」
厳しい返しだった。
けれど、その厳しさに、逃げるつもりはなかった。
「凛さんが、実家暮らしだと嘘をついていたことにも、気づけませんでした」
静かに、続けた。
「対等でいたいと言いながら、私は、凛さんの本当の生活を、長い間知らずにいました」
母の表情が、わずかに動いた。
「それでも、これからは、ちゃんと見ていきたいと思っています」
沈黙が、しばらく続いた。
「実は、報告したいことがもう二つあって」
凛が、静かに口を開いた。
「就職先、玲依のお父さんの会社に決まった。それと、もう一緒に住み始めてる」
母の顔が、はっきりと曇った。
「仕事も、住むところも。全部、あなたの世界に入っていくのね」
その一言に、返す言葉が見つからなかった。
「不安にさせてしまって、申し訳ありません」
頭を下げることしか、今はできなかった。
母は、それ以上何も言わなかった。
ただ、複雑な表情のまま、こちらを見つめていた。
帰り道、二人とも、しばらく無言だった。
「ごめん」
凛が、ぽつりと言った。
「ううん」
首を振った。
「まだ、何も終わってない。これから、ちゃんと向き合っていくだけだから」
そう言いながらも、母の言葉の重みは、まだ胸の奥に残っていた。

