そこにあったはずの愛

第百十二話「三年間の理由」

実家に帰るのは、久しぶりだった。

 

今日は、ちゃんと話そうと決めていた。

そう思うと、玄関のドアを開ける手が、少しだけ重かった。

 

 

「おかえり」

 

母が、台所から顔を出す。

エプロン姿は、昔から変わらない。

 

「久しぶりだね。痩せてない?」

 

「そんなことないよ」

 

いつものやり取り。

けれど今日は、その何気なさが、かえって緊張を煽った。

 

 

食卓につくと、母が味噌汁をよそってくれる。

湯気の向こうで、母の顔を、しばらく見つめていた。

 

「どうしたの、そんな顔して」

 

「別に」

 

誤魔化すように、味噌汁を口に運んだ。

 

 

しばらく、他愛のない会話が続いた。

大学の様子、就活の進み具合。

 

母は、聞き上手だった。

急かさず、こちらのペースに合わせてくれる。

 

 

「そういえば」

 

箸を置いて、母が不意に言った。

 

「あんた、この三年、帰ってくる度に疲れた顔してたよね」

 

胸が、小さく跳ねた。

 

「学校とバイトだけには、見えなかったけど」

 

 

言葉に、詰まった。

 

母の目は、責めるものじゃなかった。

ただ、静かに、答えを待っている。

 

 

「ずっと、気づいてたの」

 

「母親だもの」

 

短い返事に、これまで黙って見守ってきた重みが滲んでいた。

 

 

覚悟を決めて、口を開いた。

 

「実は、付き合ってる人がいる」

 

母の眉が、わずかに動いた。

 

「三年前から」

 

「三年も、黙ってたの」

 

「ごめん」

 

素直に、頭を下げた。

 

 

「その人、玲依っていうんだけど」

 

名前を口にすると、少し気持ちが軽くなった気がした。

 

「疲れてたのは、その子のせい?」

 

「せいっていうか」

 

言葉を選びながら、続けた。

 

「玲依、すごく綺麗で、聡明で。育ちも、俺とは全然違う人で」

 

「それで?」

 

「見劣りしたくなくて。身なりだけは、ちゃんとしていたくて」

 

 

母の表情が、次第に変わっていった。

驚きから、理解へ。

そして、痛みへ。

 

「だから、疲れてたの」

 

頷くしかなかった。

 

「生活費のためじゃなくて、見た目のために、あんた体壊しそうになってたってこと?」

 

 

母の声が、少しだけ震えていた。

 

「そんなことのために」

 

言葉が、途中で止まる。

 

視線が、テーブルの木目に落ちていった。

 

「母さんが、もっと稼げてれば」

 

「違う」

 

咄嗟に、遮った。

 

「母さんのせいじゃない。俺が勝手にやってただけだから」

 

「でも」

 

母の声に、拭いきれない自責が滲んでいた。

 

「あんたが無理してたの、結局、母さんがちゃんと稼げなかったからでしょう」

 

そんなつもりで話したんじゃなかった。

けれど一度こぼれた言葉は、もう止められないようだった。

 

 

「ごめん」

 

もう一度、頭を下げた。

 

「言えなかった。心配かけたくなかったから」

 

「心配するに決まってるでしょう」

 

母の声が、初めて強くなった。

 

 

「その子と、本当に対等でいられると思ってるの」

 

核心を突く問いだった。

 

「育ちも、環境も違う相手と、あんたは自分をすり減らしてまで釣り合おうとしてる。それが、本当に幸せなの」

 

 

答えられなかった。

三年間かけて、少しずつ答えを見つけてきたつもりだった。

けれど母の前で、それを言葉にするのは、思っていたよりずっと難しかった。

 

 

母は、それ以上何も言わなかった。

ただ、複雑な表情のまま、味噌汁を見つめていた。

 

その沈黙が、これまでのどんな言葉よりも、重く感じられた。

 

 

まだ、話していないことがある。

同居のことも、就職のことも。

 

今日は、ここまでにしよう。

そう思いながら、冷めていく味噌汁を、静かに見つめていた。