そこにあったはずの愛

第百十一話「新しい朝」

目が覚めると、隣に凛がいた。

 

当たり前のはずなのに、まだ少し不思議な感覚がある。

これまでは、休日の前の夜だけの特別な光景だった。

 

今は、それが毎朝になった。

 

 

「おはよう」

 

寝ぼけた声で、凛が呟く。

その声を、これから毎朝聞けるのだと思うと、それだけで頬が緩んだ。

 

 

朝食の支度をしながら、凛が慌ただしく身支度を整えているのを、視界の端で追う。

 

シャツに袖を通し、鞄に画材を詰め込んでいく。

大学へ向かう、いつもの準備。

 

けれど今日からは、その準備を、この部屋で見ることになる。

 

 

「今日、一限からだっけ」

 

「うん。その後、バイト」

 

「帰りは?」

 

「たぶん、九時くらい」

 

何気ないやり取り。

これまでの三年間には、なかった会話だった。

 

 

玄関先まで、見送りに出た。

 

靴を履く凛の背中を見ながら、初めての立場に、少し緊張していた。

 

「いってきます」

 

凛が、振り返って笑う。

 

「いってらっしゃい」

 

その言葉が、思っていたよりずっと、するりと出てきた。

 

 

扉が閉まったあと、しばらく玄関に立ち尽くしていた。

一人になった部屋。

 

寂しさより先に、静かな満足感が満ちてくる。

これから毎日、この言葉を交わせるのだと思うと、それだけで十分だった。

 

 

リビングに戻り、パソコンを開く。

クライアントからのメールに、丁寧に返信していく。

 

出張のスケジュール調整。

来客対応の日程確認。

淡々とした作業だけれど、誰にも縛られていないという実感が、心地よかった。

 

 

昼過ぎ、ふと視線を上げると、窓辺に凛のスケッチブックが置かれていた。

 

開いてみたい衝動を抑えて、そっとそのままにしておく。

見せてもらえる時が来たら、その時でいい。

 

今は、その存在があるだけで、十分に嬉しかった。

 

 

夜、玄関の鍵が回る音がした。

 

「ただいま」

 

凛の声に、思わず立ち上がっていた。

 

「おかえり」

 

これまで、何度も交わしてきたはずの言葉。

けれど今日は、意味が少し違って聞こえた。

 

 

「今日、どうだった?」

 

「普通。バイトも、大学も」

 

「そう」

 

「でも」

 

凛が、鞄を下ろしながら、こちらを見た。

 

「帰る場所があるって、いいね」

 

 

その一言に、胸の奥が温かくなった。

特別なことなど、何も起きていない一日。

 

それでも、これ以上ないほど満たされていた。

 

 

夜、二人で並んでソファに座る。

テレビをつけるでもなく、ただ隣にいるだけの時間。

 

これが、これから続いていく日常なのだと思うと、それだけで胸がいっぱいになった。