第百十話「二人の名前」
古いアパートの前に立つのは、初めてだった。
三年間、凛がここで暮らしていたことを、ずっと知らずにいた。
その事実が、今更ながら胸に重くのしかかる。
「狭いから、驚かないでね」
先に立って、凛が鍵を開ける。
軽い口調だったけれど、どこか緊張しているのが分かった。
部屋は、想像していたよりずっと簡素だった。
必要なものだけが、丁寧に整理されている。
壁の一角に、描きかけのキャンバスが立てかけてあった。
生活の余白のなさが、そのまま伝わってくるようだった。
「ここで、絵を描いてたの」
「うん。夜、疲れて帰ってきても、少しだけ」
何気ない口調で語られる言葉の一つひとつに、これまで見えていなかった凛の時間が滲んでいた。
段ボールに、荷物を詰めていく。
多くはなかった。
服と、画材と、いくつかの本。
三年分の生活にしては、あまりにも少ない量だった。
「これで、全部?」
「うん。物、増やさない主義だったから」
軽く笑う凛の横で、言葉に詰まった。
増やせなかったのだと、今なら分かる。
最後の段ボールを閉じたあと、空になった部屋を、しばらく二人で眺めた。
「三年間、ありがとう」
凛が、部屋に向かって、そう呟いた。
その一言に、込められた重みを、噛みしめるように聞いていた。
マンションに戻り、荷解きが一段落した頃には、もう夜になっていた。
「そういえば」
思い出したように、玄関を出た。
エントランスの郵便受けの前に、二人で立つ。
「黒崎」とだけ書かれた古いラベルを、そっと指でなぞった。
「これ、貼り替えよう」
用意していた新しいラベルシールを取り出す。
「赤羽凛」
丁寧に印字されたその名前を、凛がじっと見つめていた。
「俺の名前、貼っていいの」
「当たり前でしょう」
二人で並んで、ラベルを貼る。
指先が触れ合いながら、慎重に位置を合わせた。
「黒崎玲依」
「赤羽凛」
二つの名前が、並んで郵便受けに収まった。
しばらく、二人で無言のまま、それを見つめていた。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。
隠さなくていい。
もう、誰に対しても。
「変な感じ」
凛が、ぽつりと言った。
「どうして」
「自分の名前が、こんなに嬉しいの、初めてかもしれない」
その言葉に、目頭が熱くなった。
三年前、金づるを演じていた凛。
自分の存在を、ひっそりと隠し続けてきた凛。
その凛が今、堂々と自分の名前を、誰の目にも触れる場所に置いている。
「これから、よろしくね」
「うん」
「よろしく」
短いやり取りの中に、これまでの三年間と、これから先の全部が詰まっている気がした。
並んだ二つの名前を背に、二人で部屋へと戻った。
その夜は、いつもよりずっと、静かで穏やかだった。
古いアパートの前に立つのは、初めてだった。
三年間、凛がここで暮らしていたことを、ずっと知らずにいた。
その事実が、今更ながら胸に重くのしかかる。
「狭いから、驚かないでね」
先に立って、凛が鍵を開ける。
軽い口調だったけれど、どこか緊張しているのが分かった。
部屋は、想像していたよりずっと簡素だった。
必要なものだけが、丁寧に整理されている。
壁の一角に、描きかけのキャンバスが立てかけてあった。
生活の余白のなさが、そのまま伝わってくるようだった。
「ここで、絵を描いてたの」
「うん。夜、疲れて帰ってきても、少しだけ」
何気ない口調で語られる言葉の一つひとつに、これまで見えていなかった凛の時間が滲んでいた。
段ボールに、荷物を詰めていく。
多くはなかった。
服と、画材と、いくつかの本。
三年分の生活にしては、あまりにも少ない量だった。
「これで、全部?」
「うん。物、増やさない主義だったから」
軽く笑う凛の横で、言葉に詰まった。
増やせなかったのだと、今なら分かる。
最後の段ボールを閉じたあと、空になった部屋を、しばらく二人で眺めた。
「三年間、ありがとう」
凛が、部屋に向かって、そう呟いた。
その一言に、込められた重みを、噛みしめるように聞いていた。
マンションに戻り、荷解きが一段落した頃には、もう夜になっていた。
「そういえば」
思い出したように、玄関を出た。
エントランスの郵便受けの前に、二人で立つ。
「黒崎」とだけ書かれた古いラベルを、そっと指でなぞった。
「これ、貼り替えよう」
用意していた新しいラベルシールを取り出す。
「赤羽凛」
丁寧に印字されたその名前を、凛がじっと見つめていた。
「俺の名前、貼っていいの」
「当たり前でしょう」
二人で並んで、ラベルを貼る。
指先が触れ合いながら、慎重に位置を合わせた。
「黒崎玲依」
「赤羽凛」
二つの名前が、並んで郵便受けに収まった。
しばらく、二人で無言のまま、それを見つめていた。
たったそれだけのことなのに、胸の奥が熱くなる。
隠さなくていい。
もう、誰に対しても。
「変な感じ」
凛が、ぽつりと言った。
「どうして」
「自分の名前が、こんなに嬉しいの、初めてかもしれない」
その言葉に、目頭が熱くなった。
三年前、金づるを演じていた凛。
自分の存在を、ひっそりと隠し続けてきた凛。
その凛が今、堂々と自分の名前を、誰の目にも触れる場所に置いている。
「これから、よろしくね」
「うん」
「よろしく」
短いやり取りの中に、これまでの三年間と、これから先の全部が詰まっている気がした。
並んだ二つの名前を背に、二人で部屋へと戻った。
その夜は、いつもよりずっと、静かで穏やかだった。

