第百一話「静かな午後、絵の中で」
デートに誘うのに、こんなに緊張したことがあっただろうか。
「美術館、行かない?」
そう切り出した声が、自分でも驚くほど平坦だった。
平静を装うのに、精一杯だったのだと思う。
凛は目を丸くしたあと、ゆっくりと笑った。
「玲依さんから誘われるの、初めてかも」
図星だった。
言い返す言葉が見つからなくて、視線を逸らした。
電車の中で、指先が触れた。
どちらからともなく、指が絡まっていく。
人前で手を繋ぐことに、まだ慣れない。
慣れないのに、離す気にはなれない。
繋いだ手に、凛が親指でそっと円を描く。
くすぐったいような、甘いような感覚が、指先から肩まで駆け上がった。
「玲依さんの手、あったかい」
耳元でそう囁かれて、頬が熱くなる。
窓の外を流れる景色よりも、隣の体温のほうがずっと気になっていた。
展示室に入った瞬間、凛の空気が変わった。
さっきまでの、軽くて柔らかい表情が消える。
代わりに現れるのは、齢よりずっと大人びた、鋭い目。
一枚の絵の前で、凛の足が止まる。
何を見ているのか、自分には分からない。
けれど凛の視線は、絵の奥の奥まで届いているようだった。
そのまま、しばらく動かない。
呼吸の音まで、絵に吸い込まれてしまったみたいだった。
気づけば、後ろから凛に近づいていた。
腰に、そっと手を回す。
抱きしめるというより、寄り添うくらいの力加減で。
凛の体温が、掌から伝わってくる。
「わ」
小さく声を漏らして、凛が振り返りかける。
「動かないで」
耳元でそう囁くと、凛の肩から力が抜けた。
背中に、こちらの頬を寄せる。
そのまま、二人で同じ絵を見つめる格好になった。
「この人、たぶん」
不意に、凛が呟いた。
「描くのが怖くなった時期があったんだと思う」
「どうして分かるの」
問いかけながら、腰に回した手に、少しだけ力を込めた。
離したくない、という気持ちが勝手に指先に出てしまう。
「筆の勢いが、途中から変わってるから」
淡々とした声。
けれどその奥に、何か個人的な痛みが透けて見えた。
「凛も、そういう時期あるの」
聞いてから、少し後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない、と思ったから。
代わりに、抱き寄せる腕に、そっと力を足した。
言葉より先に、体温で伝えたかった。
凛は答えるまで、少し間を置いた。
「卒業したら、どうしようかなって」
「絵、続けないの」
「続けたいけど。生きていくのって、それだけじゃ難しいし」
軽い口調のまま、けれど目は絵に向いたまま。
その距離感が、かえって本心の重さを物語っていた。
何か言おうとして、やめた。
今は、言葉より先に、隣にいることのほうが大事な気がした。
展示を出ると、外はもう夕方に近い光になっていた。
庭園のベンチに座り、二人で同じ方向を見る。
凛の肩に、頭を預けた。
自然と、そうしたくなった。
凛の手が、こちらの髪を、そっと撫でる。
その優しさに、目を閉じたくなるほど安心した。
「今日、楽しかった」
凛がぽつりと言う。
「普通のデートって、こんな感じなんだね」
「今まで、なかったもんね」
「玲依さんのせいで」
「凛のせいでもある」
軽口が、いつものように交わされる。
その合間に、繋いだ手の指が、また絡み合った。
離れがたくて、ぎゅっと握り返す。
けれどその奥に、確かな重みがあった。
三年かけて、ようやく手に入れた、何気ない午後。
これから先も、こんな時間を積み重ねていけたらいい。
そう思いながら、隣の横顔を見つめていた。
凛が、こちらを見て笑う。
その笑顔に誘われるように、額と額を、そっと合わせた。
デートに誘うのに、こんなに緊張したことがあっただろうか。
「美術館、行かない?」
そう切り出した声が、自分でも驚くほど平坦だった。
平静を装うのに、精一杯だったのだと思う。
凛は目を丸くしたあと、ゆっくりと笑った。
「玲依さんから誘われるの、初めてかも」
図星だった。
言い返す言葉が見つからなくて、視線を逸らした。
電車の中で、指先が触れた。
どちらからともなく、指が絡まっていく。
人前で手を繋ぐことに、まだ慣れない。
慣れないのに、離す気にはなれない。
繋いだ手に、凛が親指でそっと円を描く。
くすぐったいような、甘いような感覚が、指先から肩まで駆け上がった。
「玲依さんの手、あったかい」
耳元でそう囁かれて、頬が熱くなる。
窓の外を流れる景色よりも、隣の体温のほうがずっと気になっていた。
展示室に入った瞬間、凛の空気が変わった。
さっきまでの、軽くて柔らかい表情が消える。
代わりに現れるのは、齢よりずっと大人びた、鋭い目。
一枚の絵の前で、凛の足が止まる。
何を見ているのか、自分には分からない。
けれど凛の視線は、絵の奥の奥まで届いているようだった。
そのまま、しばらく動かない。
呼吸の音まで、絵に吸い込まれてしまったみたいだった。
気づけば、後ろから凛に近づいていた。
腰に、そっと手を回す。
抱きしめるというより、寄り添うくらいの力加減で。
凛の体温が、掌から伝わってくる。
「わ」
小さく声を漏らして、凛が振り返りかける。
「動かないで」
耳元でそう囁くと、凛の肩から力が抜けた。
背中に、こちらの頬を寄せる。
そのまま、二人で同じ絵を見つめる格好になった。
「この人、たぶん」
不意に、凛が呟いた。
「描くのが怖くなった時期があったんだと思う」
「どうして分かるの」
問いかけながら、腰に回した手に、少しだけ力を込めた。
離したくない、という気持ちが勝手に指先に出てしまう。
「筆の勢いが、途中から変わってるから」
淡々とした声。
けれどその奥に、何か個人的な痛みが透けて見えた。
「凛も、そういう時期あるの」
聞いてから、少し後悔した。
踏み込みすぎたかもしれない、と思ったから。
代わりに、抱き寄せる腕に、そっと力を足した。
言葉より先に、体温で伝えたかった。
凛は答えるまで、少し間を置いた。
「卒業したら、どうしようかなって」
「絵、続けないの」
「続けたいけど。生きていくのって、それだけじゃ難しいし」
軽い口調のまま、けれど目は絵に向いたまま。
その距離感が、かえって本心の重さを物語っていた。
何か言おうとして、やめた。
今は、言葉より先に、隣にいることのほうが大事な気がした。
展示を出ると、外はもう夕方に近い光になっていた。
庭園のベンチに座り、二人で同じ方向を見る。
凛の肩に、頭を預けた。
自然と、そうしたくなった。
凛の手が、こちらの髪を、そっと撫でる。
その優しさに、目を閉じたくなるほど安心した。
「今日、楽しかった」
凛がぽつりと言う。
「普通のデートって、こんな感じなんだね」
「今まで、なかったもんね」
「玲依さんのせいで」
「凛のせいでもある」
軽口が、いつものように交わされる。
その合間に、繋いだ手の指が、また絡み合った。
離れがたくて、ぎゅっと握り返す。
けれどその奥に、確かな重みがあった。
三年かけて、ようやく手に入れた、何気ない午後。
これから先も、こんな時間を積み重ねていけたらいい。
そう思いながら、隣の横顔を見つめていた。
凛が、こちらを見て笑う。
その笑顔に誘われるように、額と額を、そっと合わせた。

