二〇二八年、九月の終わり。
付き合い始めた記念日に、俺たちは結婚式を挙げた。
扉が開くまで、ちゃんと笑って迎えるつもりだった。
白いドレスを着た凛が見えた瞬間、そのつもりは役に立たなくなった。
ゆっくり近づいてくる凛を見ていたら、目の奥が熱くなった。
まだ、何も言えていなかった。
隣に来た凛が、俺を見上げた。
その目も少し潤んでいたのに、口元は笑っていた。
「……もう泣いてる。」
「だって、すごい、きれいで。」
声が詰まって、そこで止まった。
凛は一度目を伏せてから、小さく「ありがとう。」と言った。
差し出された手を取った。
何度もつないできた手なのに、俺のほうが緊張していた。
指輪を通すときは、落とさないように息を止めた。
凛が俺の指に通してくれる間、その真剣な顔を見ていた。
誓いのキスの前、目が合った。
ほんの少し屈むと、凛が顔を上げた。
唇が触れて、離れたあとも、すぐそばで笑っていた。
拍手の中に、聞き慣れた友人たちの声が混じっていた。
◇
披露宴の席には、白と淡い黄色の花が飾られていた。
いつもの花屋で、二人で相談して決めた花だった。
隣で凛が、そっと花に目を向けた。
「写真で見たときより、きれいだね。」
「うん。頼めてよかった。」
初めてあの店で買った花を渡すときは、もっと適当な理由をつけた気がした。
今日は、二人の前にある花を、同じ気持ちで眺めていた。
料理が運ばれてくると、凛が俺の手元を見た。
「食べられそう?」
「食べる。約束したし。」
「お肉も来るよ。」
「それは絶対食べる。」
凛が笑った。
俺も笑って、ナイフとフォークを持った。
友人たちが写真を撮りに来るたび、手を止めた。
田中には「目、赤いぞ。」と言われ、美奈には「凛を見るたび泣いてない?」と笑われた。
否定したかったけど、隣を見るとまた危なかった。
◇
ブーケトスは、披露宴の途中、庭へ出て行った。
凛が持ったのは、あの花屋に頼んだ小さな花束だった。
白と淡い黄色の花に、リボンが揺れていた。
背を向けた凛が、少し緊張した顔で俺を見た。
「届くかな。」
「大丈夫。みんな、待ってる。」
凛が頷き、合図に合わせて投げた。
花束は思ったより高く上がった。
伸びた手の先へ落ちて、美奈の腕の中に収まった。
「え、私?」
美奈が目を丸くしたあと、花束を掲げた。
凛も嬉しそうに手を叩いていた。
写真を撮り終え、庭の端で六人が集まったときだった。
美奈は花束を眺めて、少し照れたように笑った。
「もらっちゃった。相手いないけど。」
隣にいた田中が、美奈を見た。
「……俺は?」
美奈の指が、リボンの上で止まった。
「え?」
「俺じゃ、だめ?」
さっきまで聞こえていた小川の笑い声も止まった。
俺は口を開きかけたけど、凛の指が袖に触れて、閉じた。
田中は一度息を吐いて、美奈に向き直った。
「ごめん。今のじゃ、わかんないよな。」
美奈は何も言わず、田中を見ていた。
「一緒に出かけるの、友達だからだけじゃない。美奈だから会いたいし、誘ってくれると嬉しかった。」
田中の耳が赤かった。
「好きなんだ。俺と付き合ってほしい。」
美奈が、花束を胸元に引き寄せた。
「……私だって、誰でもよかったわけじゃないよ。」
声が、いつもより小さかった。
「服、選んでって言ったのも。映画に誘ったのも。」
「うん。」
「田中と、二人で行きたかったから。」
田中が頷いた。
それでも待っていると、美奈は少し困ったように笑った。
「私も好き。……よろしくお願いします。」
俺は今度こそ、声を出した。
「よかったな、田中!」
「お前、声でかい。」
そう言った田中まで笑っていた。
凛は美奈と目を合わせて、「おめでとう。」と伝えた。
美奈は頷いてから、俺たちを交互に見た。
「ごめんね。二人の結婚式なのに。」
「謝ることじゃないだろ。嬉しいよ。」
俺が答えると、凛も頷いた。
「今日のこと、一緒に覚えていられるね。」
美奈が、もう一度花束を見下ろした。
その隣で、田中が照れくさそうに首の後ろをかいていた。
◇
「俺たちもさ。」
小川が口を開いたのは、会場へ戻ろうとしたときだった。
「来月、引っ越すことになった。」
「部屋、決まったの?」
凛に聞かれ、詩織が頷いた。
「うん。二人とも、通勤があまり変わらないところ。」
「本棚は?」
俺が聞くと、小川が笑った。
「置ける。俺の机も。」
「寸法、何回も測ったよね。」
詩織の言葉に、小川は「入らなかったら困るし。」と返した。
二人とも、穏やかな顔をしていた。
「落ち着いたら、遊びに来て。」
「今度は俺が飲み物持ってく。」
俺が言うと、田中がすかさず口を挟んだ。
「重いから、玄関ですぐ受け取ってもらえよ。」
六人で笑った。
会場へ続く扉の前で、小川が詩織を待っていた。
美奈は花束を田中に少し預け、ドレスの裾を直していた。
俺も凛に手を差し出した。
凛は慣れた仕草で、その手を取った。
◇
式が終わり、みんなを見送ったあと。
控室で二人きりになると、凛が椅子に座って、ほっと息をついた。
「楽しかったね。」
「うん。……終わっちゃったな。」
俺は隣に座った。
朝から何度も見ているのに、また凛の顔を見ていた。
「何?」
「結婚したんだなって。」
「今日、何回目?」
「まだ言うと思う。」
凛は笑って、左手を広げた。
俺も自分の手を並べた。
二つの指輪が、部屋の明かりを受けて光っていた。
「最初に告白したとき、こうなると思わなかった。」
俺が言うと、凛が顔を上げた。
「あのときは、付き合えないって言ったもんね。」
「『私は好きではありません。』って、はっきり。」
「……覚えてるんだ。」
「そりゃ、覚えてるよ。」
あんなに迷いなく断られたのは、初めてだった。
悔しくて、気になって、気づけば凛に会える日を待っていた。
「今なら、何て言ってくれる?」
凛は少し目を細めた。
「聞かなくても、わかるでしょ。」
「わかってても、聞きたい。」
凛は俺の手に自分の手を重ねた。
それから、まっすぐに見上げてきた。
「愛してるよ、夏樹くん。」
……それは、ずるいだろ。
聞いたのは俺だった。
なのに、返す言葉が出てこなかった。
指先まで熱くなって、目の前がまたぼやけた。
凛は驚いたように瞬きをして、俺の顔をのぞき込んだ。
「また泣くの?」
「……誰のせいだと思ってんの。」
「夏樹くんが、聞きたいって言ったんだよ。」
そのとおりだった。
言い返せることなんて、一つもなかった。
昔の俺は、恋愛でこんなふうになるとは思っていなかった。
たった一人の言葉に浮かれて、落ち込んで。
結婚式が終わったあとまで、泣かされるなんて。
「私は好きではありません。」
あの日、きっぱり俺を振った人が、今は隣にいた。
同じ指輪をつけて、俺の涙を拭おうとしていた。
もう、どうしようもなかった。
俺は目元に伸びてきた手を取り、両手で包んだ。
「俺も、愛してる。凛。」
凛の頬が赤くなった。
それでも目をそらさず、嬉しそうに笑った。
その顔を見た途端、わかった。
明日も、明後日も、俺はきっと、この人を喜ばせたくなる。
かっこつけても見抜かれて、何気ない一言に舞い上がって、何度でも惚れ直す。
完全に、俺の負けだった。
取り返したいとも、思わなかった。
「……一生、凛には勝てる気がしない。」
「私に勝って、どうするの?」
「どうもしない。もう、負けでいい。」
凛が小さく笑い、俺の肩に寄り添った。
「じゃあ、ずっと私の隣にいてね。」
俺はその肩を抱き寄せた。
最後の最後まで、俺がいちばん言ってほしいことを、この人は言った。
「……喜んで。」

付き合い始めた記念日に、俺たちは結婚式を挙げた。
扉が開くまで、ちゃんと笑って迎えるつもりだった。
白いドレスを着た凛が見えた瞬間、そのつもりは役に立たなくなった。
ゆっくり近づいてくる凛を見ていたら、目の奥が熱くなった。
まだ、何も言えていなかった。
隣に来た凛が、俺を見上げた。
その目も少し潤んでいたのに、口元は笑っていた。
「……もう泣いてる。」
「だって、すごい、きれいで。」
声が詰まって、そこで止まった。
凛は一度目を伏せてから、小さく「ありがとう。」と言った。
差し出された手を取った。
何度もつないできた手なのに、俺のほうが緊張していた。
指輪を通すときは、落とさないように息を止めた。
凛が俺の指に通してくれる間、その真剣な顔を見ていた。
誓いのキスの前、目が合った。
ほんの少し屈むと、凛が顔を上げた。
唇が触れて、離れたあとも、すぐそばで笑っていた。
拍手の中に、聞き慣れた友人たちの声が混じっていた。
◇
披露宴の席には、白と淡い黄色の花が飾られていた。
いつもの花屋で、二人で相談して決めた花だった。
隣で凛が、そっと花に目を向けた。
「写真で見たときより、きれいだね。」
「うん。頼めてよかった。」
初めてあの店で買った花を渡すときは、もっと適当な理由をつけた気がした。
今日は、二人の前にある花を、同じ気持ちで眺めていた。
料理が運ばれてくると、凛が俺の手元を見た。
「食べられそう?」
「食べる。約束したし。」
「お肉も来るよ。」
「それは絶対食べる。」
凛が笑った。
俺も笑って、ナイフとフォークを持った。
友人たちが写真を撮りに来るたび、手を止めた。
田中には「目、赤いぞ。」と言われ、美奈には「凛を見るたび泣いてない?」と笑われた。
否定したかったけど、隣を見るとまた危なかった。
◇
ブーケトスは、披露宴の途中、庭へ出て行った。
凛が持ったのは、あの花屋に頼んだ小さな花束だった。
白と淡い黄色の花に、リボンが揺れていた。
背を向けた凛が、少し緊張した顔で俺を見た。
「届くかな。」
「大丈夫。みんな、待ってる。」
凛が頷き、合図に合わせて投げた。
花束は思ったより高く上がった。
伸びた手の先へ落ちて、美奈の腕の中に収まった。
「え、私?」
美奈が目を丸くしたあと、花束を掲げた。
凛も嬉しそうに手を叩いていた。
写真を撮り終え、庭の端で六人が集まったときだった。
美奈は花束を眺めて、少し照れたように笑った。
「もらっちゃった。相手いないけど。」
隣にいた田中が、美奈を見た。
「……俺は?」
美奈の指が、リボンの上で止まった。
「え?」
「俺じゃ、だめ?」
さっきまで聞こえていた小川の笑い声も止まった。
俺は口を開きかけたけど、凛の指が袖に触れて、閉じた。
田中は一度息を吐いて、美奈に向き直った。
「ごめん。今のじゃ、わかんないよな。」
美奈は何も言わず、田中を見ていた。
「一緒に出かけるの、友達だからだけじゃない。美奈だから会いたいし、誘ってくれると嬉しかった。」
田中の耳が赤かった。
「好きなんだ。俺と付き合ってほしい。」
美奈が、花束を胸元に引き寄せた。
「……私だって、誰でもよかったわけじゃないよ。」
声が、いつもより小さかった。
「服、選んでって言ったのも。映画に誘ったのも。」
「うん。」
「田中と、二人で行きたかったから。」
田中が頷いた。
それでも待っていると、美奈は少し困ったように笑った。
「私も好き。……よろしくお願いします。」
俺は今度こそ、声を出した。
「よかったな、田中!」
「お前、声でかい。」
そう言った田中まで笑っていた。
凛は美奈と目を合わせて、「おめでとう。」と伝えた。
美奈は頷いてから、俺たちを交互に見た。
「ごめんね。二人の結婚式なのに。」
「謝ることじゃないだろ。嬉しいよ。」
俺が答えると、凛も頷いた。
「今日のこと、一緒に覚えていられるね。」
美奈が、もう一度花束を見下ろした。
その隣で、田中が照れくさそうに首の後ろをかいていた。
◇
「俺たちもさ。」
小川が口を開いたのは、会場へ戻ろうとしたときだった。
「来月、引っ越すことになった。」
「部屋、決まったの?」
凛に聞かれ、詩織が頷いた。
「うん。二人とも、通勤があまり変わらないところ。」
「本棚は?」
俺が聞くと、小川が笑った。
「置ける。俺の机も。」
「寸法、何回も測ったよね。」
詩織の言葉に、小川は「入らなかったら困るし。」と返した。
二人とも、穏やかな顔をしていた。
「落ち着いたら、遊びに来て。」
「今度は俺が飲み物持ってく。」
俺が言うと、田中がすかさず口を挟んだ。
「重いから、玄関ですぐ受け取ってもらえよ。」
六人で笑った。
会場へ続く扉の前で、小川が詩織を待っていた。
美奈は花束を田中に少し預け、ドレスの裾を直していた。
俺も凛に手を差し出した。
凛は慣れた仕草で、その手を取った。
◇
式が終わり、みんなを見送ったあと。
控室で二人きりになると、凛が椅子に座って、ほっと息をついた。
「楽しかったね。」
「うん。……終わっちゃったな。」
俺は隣に座った。
朝から何度も見ているのに、また凛の顔を見ていた。
「何?」
「結婚したんだなって。」
「今日、何回目?」
「まだ言うと思う。」
凛は笑って、左手を広げた。
俺も自分の手を並べた。
二つの指輪が、部屋の明かりを受けて光っていた。
「最初に告白したとき、こうなると思わなかった。」
俺が言うと、凛が顔を上げた。
「あのときは、付き合えないって言ったもんね。」
「『私は好きではありません。』って、はっきり。」
「……覚えてるんだ。」
「そりゃ、覚えてるよ。」
あんなに迷いなく断られたのは、初めてだった。
悔しくて、気になって、気づけば凛に会える日を待っていた。
「今なら、何て言ってくれる?」
凛は少し目を細めた。
「聞かなくても、わかるでしょ。」
「わかってても、聞きたい。」
凛は俺の手に自分の手を重ねた。
それから、まっすぐに見上げてきた。
「愛してるよ、夏樹くん。」
……それは、ずるいだろ。
聞いたのは俺だった。
なのに、返す言葉が出てこなかった。
指先まで熱くなって、目の前がまたぼやけた。
凛は驚いたように瞬きをして、俺の顔をのぞき込んだ。
「また泣くの?」
「……誰のせいだと思ってんの。」
「夏樹くんが、聞きたいって言ったんだよ。」
そのとおりだった。
言い返せることなんて、一つもなかった。
昔の俺は、恋愛でこんなふうになるとは思っていなかった。
たった一人の言葉に浮かれて、落ち込んで。
結婚式が終わったあとまで、泣かされるなんて。
「私は好きではありません。」
あの日、きっぱり俺を振った人が、今は隣にいた。
同じ指輪をつけて、俺の涙を拭おうとしていた。
もう、どうしようもなかった。
俺は目元に伸びてきた手を取り、両手で包んだ。
「俺も、愛してる。凛。」
凛の頬が赤くなった。
それでも目をそらさず、嬉しそうに笑った。
その顔を見た途端、わかった。
明日も、明後日も、俺はきっと、この人を喜ばせたくなる。
かっこつけても見抜かれて、何気ない一言に舞い上がって、何度でも惚れ直す。
完全に、俺の負けだった。
取り返したいとも、思わなかった。
「……一生、凛には勝てる気がしない。」
「私に勝って、どうするの?」
「どうもしない。もう、負けでいい。」
凛が小さく笑い、俺の肩に寄り添った。
「じゃあ、ずっと私の隣にいてね。」
俺はその肩を抱き寄せた。
最後の最後まで、俺がいちばん言ってほしいことを、この人は言った。
「……喜んで。」




