ノンデリ男の敗北  ~モテる俺が法学部女子に告白したら「私は好きではありません」と普通に振られた~

四月の終わり。
凛の実家へ向かう電車で、俺は手土産の紙袋を持ち直した。

「夏樹くん、肩に力入ってる。」

「……わかる?」

「さっきから、ずっと背筋が伸びてる。」

何度か遊びに行ったことはあった。
それでも、今日は玄関で何と言うかまで、昨夜から考えていた。

隣に座った凛が、俺の手にそっと触れた。

「私も話すから。」

その言葉に頷いて、ようやく背もたれに少し体を預けた。

◇

お茶を出してもらっても、すぐには手を伸ばせなかった。

凛の両親が向かいに座る。
俺は膝の上で手を揃え、顔を上げた。

「先日、凛さんに結婚を申し込んで、承諾してもらいました。」

一度、隣を見た。
凛が小さく頷いた。

「二人で、結婚に向けて準備を進めたいと思っています。」

凛も両親を見た。

「私も、夏樹くんと結婚したいと思ってる。」

お母さんが、ふっと表情を緩めた。
お父さんは頷いてから、俺たちを交互に見た。

「そうか。これからのことは、何か考えているの?」

「結婚の前に、一緒に暮らし始めたいと思っています。今日は、そのこともお話ししたくて。」

家賃は、二人で決めた上限の範囲で探すこと。
通勤時間が、どちらかだけ長くならない場所にすること。
引っ越しに必要なお金と、結婚に向けた貯金は分けて考えていること。

途中で凛が説明を足してくれた。

「まだ部屋は決めてないけど、夏頃を目安に探そうって話してるの。」

「仕事と家のこと、二人でできそう?」

お母さんに聞かれ、俺は頷いた。

「はい。俺が全部――」

言いかけて、止まった。
隣で凛がこちらを見ていた。

「……じゃなくて。二人で相談します。忙しい日もあると思うので、その都度。」

凛が少し笑った。

「私も、全部任せるつもりはないから。」

お父さんは俺たちを見て、口元を緩めた。

「それなら、困ったときも二人で話すようにね。」

「はい。」

返事をしてから、ようやくお茶を飲んだ。
思っていたより喉が渇いていた。

◇

五月の連休には、俺の実家へ行った。

今度は凛が、玄関の前で服の裾を整えていた。
俺は呼び鈴を押す前に、小さな声で言った。

「俺も話すから。」

凛が顔を上げた。
それから、あの日の電車と同じように頷いた。

結婚の報告をすると、母さんは嬉しそうに何度も頷いた。

「凛さん、本当にこの子でいいの?」

「それ、本人の前で聞く?」

凛は笑ってから、姿勢を正した。

「はい。夏樹くんとなら、困ったことも話し合えると思っています。」

嬉しかった。
でも、思ってもらえているだけで満足したくはなかった。

父さんに住む場所のことを聞かれ、俺は凛と見ていた沿線を伝えた。
まだ決まっていないことは、決まっていないと答えた。

帰り際、母さんが凛に「また来てね。」と言った。

凛が「はい。」と笑って、その隣で俺も靴を履いた。
次に来るときは、新しい住所を伝えられたらいいなと思った。

◇

五月の終わり。
内見の前に入ったカフェで、俺たちはそれぞれスマホをテーブルに置いた。

「俺、二つに絞った。」

「私も二つ。」

凛が画面をこちらへ向けた。

「ここ、駅から十分くらい。スーパーは帰り道にあるよ。」

「あ、それ俺も見た。」

自分の画面を見せると、同じ建物の写真が並んだ。

「一個かぶったな。」

「夏樹くんは、どこがよかったの?」

「キッチン。二人で立てそうだったから。あと、隣の部屋に机置けそう。」

凛が間取りを拡大した。

「私は収納。二人分の服と、本も入りそうだなって。」

同じ部屋を見ていても、気にしているところは違った。
凛の説明を聞いてから写真を見直すと、確かに棚を置く場所まで考えられそうだった。

もう一つずつの候補も見せ合った。
俺が選んだ駅に近い部屋は少し狭く、凛の候補は広い代わりに、俺の通勤の乗り換えが増えた。

「写真だけだと、決められないね。」

「うん。今日、ちゃんと見よう。」

俺はスマホのメモを開いた。
冬から書き足していた希望の下に、収納と乗り換えのことを加えた。

◇

カフェを出たあと、不動産会社の担当者と待ち合わせて、候補の部屋を見に行った。
建物の前で凛と顔を見合わせてから、案内された部屋へ入った。

二人とも選んでいた部屋は、写真より少し小さく感じた。

それでも、キッチンに並んで立つと、後ろを通る余裕があった。
担当の人が窓を開けている間に、凛が流しの下の引き出しを開けた。

俺は一歩横へずれた。

「ここなら、避けなくても開くよ。」

「もう癖になってる。」

凛が笑った。

隣の部屋には、小さな机を置けそうだった。
扉を閉めれば、俺がテレビを見ていても、凛は本を読めるかもしれなかった。

「ベッド置くなら、こっちかな。」

「寸法、測ってからね。」

「うん。……ここに凛がいるの、想像できる。」

凛は窓からこちらを振り返った。

「今、いるけど。」

「そうじゃなくて。毎日。」

言ってから、急に照れた。
凛も少し目を伏せて、空っぽの部屋を見回した。

「……私は、ここに本棚置きたい。」

その場所を、俺も一緒に見た。



内見を終えたあと、駅まで歩く時間を測った。
スーパーにも寄って、いつも買う食材の値段を見た。

部屋はよかった。
ただ、帰り道の明るさは、昼間にはわからなかった。

「平日の夜、もう一回来てみない?」

俺が聞くと、凛は頷いた。

「うん。仕事帰りに歩いてみたい。」

すぐに申し込みたい気持ちを抑えて、二人の予定を確認した。

◇

六月に入った日曜日。
俺の部屋のテーブルには、物件の資料とノートが並んでいた。

初期費用を書き出していた凛が、ペンを止めた。

「結婚式は、いつ頃にしようか。」

俺もスマホを置いた。

「凛は、希望ある?」

「……来年の、付き合い始めた日は?」

九月の終わり。
大学の中庭で、凛が好きだと言ってくれた日だった。

「その日に、式?」

「うん。準備する時間も取れるし。夏樹くんはどう?」

「俺も、その日がいい。」

返事をしてから、予定表を翌年まで送った。
二〇二八年の九月は、まだ何も入っていなかった。

「会場が空いてるか、調べないとな。」

「両方の親にも相談しよう。入籍をいつにするかも。」

「うん。一個ずつ決めよう。」

俺は交際記念日の欄に、『結婚式・希望』と入力した。
凛が横からのぞき込んだ。

「まだ仮だね。」

「でも、入れときたくて。」

「私も入れよう。」

凛もスマホを手に取った。

「来年のこの日、俺、絶対泣くと思う。」

「まだ会場も決まってないのに?」

「そこはもう、わかる。」

凛は笑いながら、予定を保存した。

去年は、一緒に住めたらいいと話していた。
今はテーブルの上に、部屋の寸法を書いたメモがあって、予定表には結婚式を挙げたい日が入っていた。

凛がノートを閉じて、時計を見た。

「そろそろ帰らなきゃ。」

「……もうそんな時間?」

窓の外は、いつの間にか暗くなっていた。
俺が立ち上がると、凛も鞄を手に取った。

何度も繰り返してきた、駅まで送る前の支度だった。

「一緒に住んだらさ。」

「うん?」

「この時間になっても、凛、帰らなくていいんだよな。」

凛は鞄の持ち手に目を落とした。
それから、少しだけ口元を緩めた。

「そこが、私の家にもなるからね。」

「……そっか。」

自分で言い出したのに、凛の口から聞くと、頬が緩んだ。

「俺、毎日急いで帰りそう。」

「寄り道はしてきてね。」

「え?」

「牛乳とか、卵とか。帰りにお願いすると思うから。」

「ああ、それなら任せて。」

玄関で靴を履きながら、二人で笑った。

凛が先に外へ出て、俺が鍵をかけるのを待っていた。
差し出された手を握ると、小さな指が絡んだ。

「今日は、駅までね。」

凛が俺を見上げた。

「うん。」

その日は、いつもの道を駅まで歩いた。
凛の家と俺の家の間にある道を、手をつないで。

次にあの部屋を見に行くのは、水曜日の仕事帰りだった。