年が明けてから、仕事帰りに待ち合わせるのが少し難しくなった。
昼休みに届いたメッセージに、夜になって返すことも増えた。
一月の金曜日。
俺の部屋に来た凛は、コートを脱ぐとソファに腰を下ろした。
いつもなら鞄から取り出す本も、その日は出てこなかった。
「飯、うどんでいい?」
「うん。ありがとう。」
冷凍うどんを鍋に入れながら、振り返った。
「仕事、忙しかった?」
「……うん。確認した書類を先輩に見てもらったんだけど、直すところが多くて。」
凛は膝の上で指を重ねた。
「時間をかけたのに、見当違いのところを気にしてたみたい。」
「でも、一年目なんだし――」
言いかけて、口を閉じた。
凛はまだ、何か話そうとしていた。
「……ごめん。それで?」
「次は先に聞こうって思ったんだけど、何から聞けばよかったのか、帰り道でも考えちゃって。」
鍋の火を弱めて、続きを聞いた。
俺ならこうするかも、とは思った。
でも凛の仕事を、俺は詳しく知らなかった。
「そっか。それ、帰ってからもしんどいやつだな。」
「……うん。今日は、ちょっと疲れた。」
そう言って、凛はようやく背もたれに体を預けた。
うどんを並べると、湯気の向こうで目を細めた。
「卵、入れてくれたんだ。」
「二個にする? 俺、疲れたとき二個入れるから。」
「それは、夏樹くんがお腹すいてるだけじゃない?」
少し笑ってくれたのが嬉しかった。
食後は、隣でテレビを見ていた。
しばらくすると、肩に小さな重みが乗った。
「眠い?」
「少し。このままでいい?」
「いいよ。」
声を落として返し、テレビの音量も二つ下げた。
◇
二月には、俺が失敗した。
取引先に頼まれた資料を、確認もせず「明日までに送れます。」と答えてしまった。
別の部署に数字を出してもらう必要があって、俺一人で決められることじゃなかった。
神崎さんに報告し、納期を相談し直した。
取引先にも、社内にも頭を下げた。
その夜、凛から電話がかかってきた。
「今、大丈夫?」
「うん。今日、早かった?」
「今日はね。夏樹くんは?」
「俺も。普通。」
少し間が空いた。
「……何かあった?」
「え。」
「いつもなら、もう少ししゃべるから。」
ばれていた。
俺はソファに座り直した。
「ちょっと、仕事でやらかした。」
話し始めると、思ったより情けない声になった。
できると思ったことも、相手を待たせたくなかったことも。
結局、確認を面倒がったんじゃないかということまで話した。
凛は、途中で口を挟まずに聞いていた。
「もうすぐ後輩も入ってくるのにさ。俺、何やってんだろって。」
「うん。」
「……かっこ悪いな、これ。」
「失敗した話をするのが?」
「それも。凛だって忙しいのに、愚痴聞かせてるし。」
「私、この前うどん食べながら、いっぱい聞いてもらったけど。」
「あれはいいんだって。」
「じゃあ、私もいいよ。」
すぐに言い返されて、俺は黙った。
「夏樹くんに話したら、少し楽になったの。私にも話してほしい。」
スマホを持ち直した。
「……神崎さんみたいに、ちゃんと任せてもらえるようになりたいんだよ。でも、焦ると逆のことしてる。」
「うん。」
「今日、それが悔しかった。」
言葉にして、ようやくわかった。
少しはできるようになったつもりでいた自分が、恥ずかしかった。
「明日は、どうするの?」
「頼んだ部署に進み具合を確認する。次からは、できるか確かめてから返事する。」
「そっか。」
凛は、気にしなくていいとは言わなかった。
「今日は、ご飯食べた?」
「……まだ。」
「何か食べながら話そう。私も今からだから。」
冷凍庫を開けると、うどんが残っていた。
「俺、うどんにする。」
「卵は二個?」
思わず笑った。
「うん。今日は二個。」
◇
三月の半ば、田中と久しぶりに昼飯を食べた。
「明日、空いてる?」
「いや。美奈と出かける。」
箸が止まった。
「……二人で?」
「そうだけど。」
「どこに?」
「映画。あいつが見たいのあるって。」
身を乗り出すと、田中が先に言った。
「お前、変な連絡すんなよ。」
「まだ何も言ってないじゃん。」
「顔が言ってる。」
翌日の夕方、凛と駅前を歩いていたら、その二人を見かけた。
美奈がスマホを見せると、田中が一軒の店を指した。
美奈は頷いて、その袖を軽く引いた。
二人は並んで店に入っていった。
「……声、かけないの?」
「あとで聞く。」
「ほどほどにね。」
釘を刺されたけど、凛も少し笑っていた。
◇
三月の終わり。
二人とも帰りが遅くて、俺の部屋で弁当を食べた。
凛が袋から即席の味噌汁を取り出し、俺が湯を沸かした。
「今日、作る気力なかった。」
「私も。買って帰ろうって言ってくれて助かった。」
凛は割り箸を一膳、俺のほうへ置いた。
食後、味噌汁の器を流しに運ぶと、朝のマグカップが残っていた。
「うわ。これもあった。」
「私が洗うよ。」
「いいの?」
「うん。夏樹くん、お湯沸かしてくれたし。」
「それ、ボタン押しただけだけど。」
「じゃあ、拭く係。」
渡された布巾を受け取った。
並んで立つと、やっぱり狭かった。
凛が引き出しに手を伸ばしたので、一歩横にずれた。
「今日は気づいたね。」
「学習してるから。」
凛が笑った。
疲れたと言えて、手が空いているほうが動く。
二人とも無理なら、弁当を買って帰る。
こんな夜を、これからも一緒に過ごしたかった。
凛を駅まで送って部屋に戻ると、流しの横にマグカップが二つ並んでいた。
さっき凛が洗って、俺が拭いたものだった。
椅子に座り、スマホの予定表を開いた。
もうすぐ四月だった。
社会人になって一年。
そして、凛と初めて会ってから、三年になる月でもあった。
大学三年の春。
サークルの飲み会で、小柄な凛を見て、俺は「え?中学生?」なんて口にした。
今思い出しても、ひどい第一声だった。
あのときの俺に、もう少し考えてからしゃべれと言ってやりたかった。
きっと想像もできなかっただろう。
あの日、失礼なことを言った相手を、本気で好きになることも。
三年後には、仕事で失敗した話を聞いてもらっていることも。
凛の前では、かっこよくいたかった。
その気持ちは今もあった。
でも、うまくいかなかった日にも会いたいと思うようになっていた。
凛にも、そんな日に会いたいと思ってもらえたら嬉しかった。
俺は予定表に目を戻した。
同じ家に帰るようになる前に、ちゃんと伝えたかった。
四月に、凛に結婚を申し込もう。
三年前、初めて会った月に。
今度は、これからも一緒にいてほしいと。
スマホを持つ手に、少し力が入った。
あの日みたいに、思いつくまま口にするんじゃなく。
凛の顔を見て、伝えたい言葉だった。

昼休みに届いたメッセージに、夜になって返すことも増えた。
一月の金曜日。
俺の部屋に来た凛は、コートを脱ぐとソファに腰を下ろした。
いつもなら鞄から取り出す本も、その日は出てこなかった。
「飯、うどんでいい?」
「うん。ありがとう。」
冷凍うどんを鍋に入れながら、振り返った。
「仕事、忙しかった?」
「……うん。確認した書類を先輩に見てもらったんだけど、直すところが多くて。」
凛は膝の上で指を重ねた。
「時間をかけたのに、見当違いのところを気にしてたみたい。」
「でも、一年目なんだし――」
言いかけて、口を閉じた。
凛はまだ、何か話そうとしていた。
「……ごめん。それで?」
「次は先に聞こうって思ったんだけど、何から聞けばよかったのか、帰り道でも考えちゃって。」
鍋の火を弱めて、続きを聞いた。
俺ならこうするかも、とは思った。
でも凛の仕事を、俺は詳しく知らなかった。
「そっか。それ、帰ってからもしんどいやつだな。」
「……うん。今日は、ちょっと疲れた。」
そう言って、凛はようやく背もたれに体を預けた。
うどんを並べると、湯気の向こうで目を細めた。
「卵、入れてくれたんだ。」
「二個にする? 俺、疲れたとき二個入れるから。」
「それは、夏樹くんがお腹すいてるだけじゃない?」
少し笑ってくれたのが嬉しかった。
食後は、隣でテレビを見ていた。
しばらくすると、肩に小さな重みが乗った。
「眠い?」
「少し。このままでいい?」
「いいよ。」
声を落として返し、テレビの音量も二つ下げた。
◇
二月には、俺が失敗した。
取引先に頼まれた資料を、確認もせず「明日までに送れます。」と答えてしまった。
別の部署に数字を出してもらう必要があって、俺一人で決められることじゃなかった。
神崎さんに報告し、納期を相談し直した。
取引先にも、社内にも頭を下げた。
その夜、凛から電話がかかってきた。
「今、大丈夫?」
「うん。今日、早かった?」
「今日はね。夏樹くんは?」
「俺も。普通。」
少し間が空いた。
「……何かあった?」
「え。」
「いつもなら、もう少ししゃべるから。」
ばれていた。
俺はソファに座り直した。
「ちょっと、仕事でやらかした。」
話し始めると、思ったより情けない声になった。
できると思ったことも、相手を待たせたくなかったことも。
結局、確認を面倒がったんじゃないかということまで話した。
凛は、途中で口を挟まずに聞いていた。
「もうすぐ後輩も入ってくるのにさ。俺、何やってんだろって。」
「うん。」
「……かっこ悪いな、これ。」
「失敗した話をするのが?」
「それも。凛だって忙しいのに、愚痴聞かせてるし。」
「私、この前うどん食べながら、いっぱい聞いてもらったけど。」
「あれはいいんだって。」
「じゃあ、私もいいよ。」
すぐに言い返されて、俺は黙った。
「夏樹くんに話したら、少し楽になったの。私にも話してほしい。」
スマホを持ち直した。
「……神崎さんみたいに、ちゃんと任せてもらえるようになりたいんだよ。でも、焦ると逆のことしてる。」
「うん。」
「今日、それが悔しかった。」
言葉にして、ようやくわかった。
少しはできるようになったつもりでいた自分が、恥ずかしかった。
「明日は、どうするの?」
「頼んだ部署に進み具合を確認する。次からは、できるか確かめてから返事する。」
「そっか。」
凛は、気にしなくていいとは言わなかった。
「今日は、ご飯食べた?」
「……まだ。」
「何か食べながら話そう。私も今からだから。」
冷凍庫を開けると、うどんが残っていた。
「俺、うどんにする。」
「卵は二個?」
思わず笑った。
「うん。今日は二個。」
◇
三月の半ば、田中と久しぶりに昼飯を食べた。
「明日、空いてる?」
「いや。美奈と出かける。」
箸が止まった。
「……二人で?」
「そうだけど。」
「どこに?」
「映画。あいつが見たいのあるって。」
身を乗り出すと、田中が先に言った。
「お前、変な連絡すんなよ。」
「まだ何も言ってないじゃん。」
「顔が言ってる。」
翌日の夕方、凛と駅前を歩いていたら、その二人を見かけた。
美奈がスマホを見せると、田中が一軒の店を指した。
美奈は頷いて、その袖を軽く引いた。
二人は並んで店に入っていった。
「……声、かけないの?」
「あとで聞く。」
「ほどほどにね。」
釘を刺されたけど、凛も少し笑っていた。
◇
三月の終わり。
二人とも帰りが遅くて、俺の部屋で弁当を食べた。
凛が袋から即席の味噌汁を取り出し、俺が湯を沸かした。
「今日、作る気力なかった。」
「私も。買って帰ろうって言ってくれて助かった。」
凛は割り箸を一膳、俺のほうへ置いた。
食後、味噌汁の器を流しに運ぶと、朝のマグカップが残っていた。
「うわ。これもあった。」
「私が洗うよ。」
「いいの?」
「うん。夏樹くん、お湯沸かしてくれたし。」
「それ、ボタン押しただけだけど。」
「じゃあ、拭く係。」
渡された布巾を受け取った。
並んで立つと、やっぱり狭かった。
凛が引き出しに手を伸ばしたので、一歩横にずれた。
「今日は気づいたね。」
「学習してるから。」
凛が笑った。
疲れたと言えて、手が空いているほうが動く。
二人とも無理なら、弁当を買って帰る。
こんな夜を、これからも一緒に過ごしたかった。
凛を駅まで送って部屋に戻ると、流しの横にマグカップが二つ並んでいた。
さっき凛が洗って、俺が拭いたものだった。
椅子に座り、スマホの予定表を開いた。
もうすぐ四月だった。
社会人になって一年。
そして、凛と初めて会ってから、三年になる月でもあった。
大学三年の春。
サークルの飲み会で、小柄な凛を見て、俺は「え?中学生?」なんて口にした。
今思い出しても、ひどい第一声だった。
あのときの俺に、もう少し考えてからしゃべれと言ってやりたかった。
きっと想像もできなかっただろう。
あの日、失礼なことを言った相手を、本気で好きになることも。
三年後には、仕事で失敗した話を聞いてもらっていることも。
凛の前では、かっこよくいたかった。
その気持ちは今もあった。
でも、うまくいかなかった日にも会いたいと思うようになっていた。
凛にも、そんな日に会いたいと思ってもらえたら嬉しかった。
俺は予定表に目を戻した。
同じ家に帰るようになる前に、ちゃんと伝えたかった。
四月に、凛に結婚を申し込もう。
三年前、初めて会った月に。
今度は、これからも一緒にいてほしいと。
スマホを持つ手に、少し力が入った。
あの日みたいに、思いつくまま口にするんじゃなく。
凛の顔を見て、伝えたい言葉だった。




