入社して、半年が過ぎた。
朝、ネクタイを結ぶのにも慣れた。
電話が鳴るたびに身構えることも、少し減った。
それでも、自分の説明に夢中になる癖は、なかなか抜けなかった。
「実は、社内で説明するのが難しくて。」
打ち合わせ中、取引先の担当者が資料をめくりながら言った。
以前の俺なら、商品の説明を追加していたと思う。
けれど、その日は一度、口を閉じた。
「どのあたりで、質問が出そうですか。」
尋ねると、担当者は資料の一か所を指した。
「導入したあと、現場の作業がどう変わるのか。そこを上司に聞かれると思うんです。」
隣の神崎さんを見そうになって、踏みとどまった。
鞄から、もう一枚の資料を取り出した。
「前回、現場の方への説明も必要だと伺ったので。今の手順と導入後の手順を、並べてみました。」
「ああ、これなら説明しやすいですね。」
その言葉に、ようやく肩の力が抜けた。
打ち合わせを終え、ビルを出たところで、神崎さんが言った。
「前回のお話を、きちんと拾えていましたね。」
「……ありがとうございます。」
褒められた。
顔に出すぎないようにしたつもりだったけど、たぶん出ていた。
「ただ、日程については、確認してからお返事を。」
「はい。すみません。」
浮かれかけた背筋が伸びた。
まだまだだった。
それでも、教わったことが一つ、自分でもできたのは嬉しかった。
仕事で覚えた段取りは、凛に会うときにも必要だった。
大学に通っていた頃は、昼休みに顔を見られた。
講義が終われば、一緒に帰れた。
働き始めると、そうはいかなかった。
『今日、飯行ける?』
そう送った日に限って、凛の仕事が終わらない。
逆に、凛から連絡をもらった日に、俺が会社を出られないこともあった。
会いたい気持ちはあるのに、予定が合わなかった。
日曜日の夜、俺たちは電話をしながら、それぞれの予定を確認した。
「来週、俺は月曜と木曜が遅くなりそう。」
「私は、火曜日が難しいかな。」
「じゃ、水曜は?」
「今のところ、大丈夫だと思う。」
俺はすぐに、水曜日の欄へ印をつけた。
「凛の会社の近くまで行くわ。」
「二人の帰り道が重なる駅にしない? その方が、帰るのも楽だし。」
「あ、そっか。」
「それと、遅くなるって分かったら連絡するね。」
「俺も。無理そうなら、土曜にしよ。」
言ってから、少しだけ惜しくなった。
「……でも、水曜も会えたら嬉しい。」
「私も。」
返事が早かった。
それだけで、月曜日から頑張れる気がした。
水曜日は、夕方のうちに仕事の進み具合を連絡し合った。
俺も朝から、その日中に必要な確認を先に済ませた。
もちろん、それだけで予定どおりに帰れる日ばかりじゃなかったけど、その日はうまくいった。
七時過ぎ。
改札のそばで待っていた凛が、俺に気づいて顔を上げた。
「お疲れさま。」
「お疲れ。腹減った?」
「うん。」
「俺も。すげえ減った。」
凛が小さく笑った。
さっきまで頭に詰まっていた仕事のことが、少し遠くなった。
駅の近くの定食屋で、向かい合って座った。
料理を待つあいだ、凛が珍しく、自分から仕事の話をした。
「今日、確認をお願いしてた書類が戻ってきたんだけど、私の説明が足りなかったみたいで。」
「うん。」
「直してほしいところは伝えたんだけど、理由も、最初に説明しておけばよかった。」
それなら、と口を開きかけて、止めた。
凛はまだ話の途中だった。
「もう一度話したら、分かってもらえたんだけど。余計な手間をかけちゃった。」
凛は水の入ったグラスに目を落とした。
「……ちゃんと伝えるのって、難しいね。」
「分かる。俺も今日、分かったつもりで返事しそうになった。」
「夏樹くんも?」
「俺は結構ある。そこは真似しなくていいけど。」
凛が笑って、少し肩を下げた。
「話したら、落ち着いた。」
「そっか。」
何か役に立つことを言わなきゃ、と思っていた。
でも、凛がもう一度メニューを眺めているのを見たら、それでよかった。
「土曜、どうする? どっか行きたい?」
「夏樹くんは?」
「会えれば、わりと何でも。」
「それだと、相談が進まないでしょ。」
「じゃあ、一緒に昼飯作る。で、映画見る。」
「夏樹くんの家で?」
「うん。今週、疲れたろ。」
凛は少し考えてから、頷いた。
「そういう休日も、いいね。」
出かける場所を決めなくても、会う約束はできた。
そのことが、なんだか嬉しかった。
食事を終えて駅へ戻ると、次の電車まで、あと四分だった。
「これ、乗れるな。」
発車案内を見上げて言ったくせに、俺はすぐには歩かなかった。
隣にいた凛も、鞄を持ち直しただけだった。
「……早くね?一時間ちょっとしか経ってない。」
「ご飯を食べてただけだからね。」
「もっといたいんだけど。」
「明日も、仕事だよ。」
正しかった。
俺も、凛も、朝から仕事だった。
「分かってる。……凛は、もう帰っても平気?」
聞くと、凛は少し眉を寄せた。
「平気だったら、もう改札を通ってる。」

俺は黙った。
そういうことを、不意に言うのはずるかった。
「……じゃあ、土曜は早めに待ち合わせしよ。」
「早めって、何時?」
「九時。」
「お昼を作るんだよね?」
「その前にも一緒にいたい。」
凛は呆れたように息をついて、それから笑った。
「そうだね。行く前に連絡するね。」
改札を通ったあと、ホームへ向かう通路で別れた。
凛の姿が見えなくなるまで見送ってから、俺も自分の乗る電車へ急いだ。
車内で、スマホの予定を開いた。
水曜日につけた印と、その三日先の土曜日を見た。
会えたばかりなのに、もう次を待っていた。
一緒に住めば、さっきの通路で別れなくて済む。
ふと、そう思った。
同棲。
頭に浮かんだ言葉を、しばらく眺めるように考えた。
住むなら、二人とも通いやすい場所がよかった。
家賃はどのくらい出せるだろう。
帰るのが遅い日は、先に帰った方が夕飯を作って。
そこまで考えて、自分で少し驚いた。
休日だけじゃなかった。
疲れた平日も、特に何もない夜も。
俺が思い浮かべた生活には、当たり前みたいに凛がいた。
同棲するなら、その先は。
……いや。
俺は、凛と結婚したいんじゃないか。
画面の上で、指が止まった。
思いついたことを、そのまま送るのはやめた。
凛がどう考えているのかも、これからどんなふうに働いていきたいのかも、ちゃんと聞きたかった。
まずは土曜日。
一緒に昼飯を作って、映画を見て。
そのあと、少し先の話もしてみようと思った。



