五月十一日、月曜日。
外回りから戻る頃には、背中が少し汗ばんでいた。
入社して一か月。
名刺を出す手つきは、ようやく落ち着いてきた。
それでも、神崎さんの隣では毎日、自分のできないことが増えていく気がした。
相手の質問に答える速さ。
話を聞きながら、必要な資料を迷わず開く手。
俺が帰り道でようやく気づいたことを、この人は商談中に確かめていた。
今日もすごかったな、と思いながら営業部へ戻った、そのときだった。
神崎さんの足が、ふと止まった。
視線の先には、書類を持った女性がいた。
俺たちに気づくと、その人も少し驚いた顔をした。
それから交わされた挨拶は、俺には普通のやり取りに聞こえた。
ただ、いつもならすぐに返ってくる神崎さんの言葉が、ほんの少し遅かった。
知り合いなのかな。
そう思ったものの、俺は先に自分の机へ鞄を置いた。
女性が営業部を出ていった直後だった。
背後で、がくりと人影が沈んだ。
振り返ると、神崎さんが膝から崩れ落ちていた。
「熱中症ですか?」
つい、のんきな声が出た。
さっきまで普通に歩いていたし、今日は暑かったからだ。
けれど、しゃがみ込んだままの姿に、慌ててそばへ寄った。
「水、持ってきましょうか。」
「……ただの立ちくらみです。」

返事はあった。
差し出した俺の手を見て、神崎さんは一度目を閉じ、それからゆっくり立ち上がった。
「大丈夫です。」
「でも、ちょっと座ったほうが。」
「そうします。」
椅子に腰を下ろした神崎さんの耳が、赤かった。
あの神崎さんでも、こんなふうになることがあるのか。
商談中も、帰り道も、いつも隙がなかった。
だから俺は、その日初めて、この人も疲れたりするんだなと思った。
……だいぶ見当違いだったと知るのは、もう少し先の話だった。
さっきの女性が経理部の春宮陽菜子さんだと知ったのは、その日の午後だった。
書類を届けるよう頼まれて経理部へ行くと、春宮さんが顔を上げた。
「営業部の佐藤です。こちら、お願いします。」
「ありがとうございます。……あ、午前中に神崎さんと一緒にいた方ですよね。」
「はい。四月に入ったばかりで、いろいろ教わってます。」
「そうだったんですね。」
春宮さんは穏やかに笑って、書類を受け取った。
その場で目を通し、俺が持ち帰る分を分けてくれた。
「こちらは営業部で保管してください。」
「ありがとうございます。」
危なかった。
全部置いて帰るところだった。
受け取った書類を確認する俺を、春宮さんは急かさず待ってくれた。
神崎さんとは、どういう知り合いなんだろう。
少し気になったけれど、初めてまともに話す相手に聞くことでもなかった。
俺も一応、そのくらいは考えるようになっていた。



