海の共鳴−こえ−

四月の風が運ぶ桜の香りは、どこか少し酸っぱい。20歳の大学生・佑樹(ゆうき)が彼女と出会ったのは、大学近くの古い図書館のすみっこ、陽だまりが落ちる窓際の席だった。


​本棚の隙間から見えた彼女の横顔は、光を溶かしたように透き通っていた。名前は、つむぎ。18歳の彼女の世界には、音がない。
​言葉を交わす代わりに、二人は小さなノートを挟んで向き合った。


​『今日は風が強いね』
​佑樹が青いインクの万年筆で書くと、つむぎは嬉しそうに眉を下げ、細いペン先で文字を紡ぐ。
​『桜の花びらが、雪みたいに舞っていて綺麗』


​丸みのある可愛らしい文字。彼女がペンを走らせるたび、紙が擦れる小さな音だけが二人の間に響いた。佑樹にとって、その沈黙はどんな音楽よりも心地よかった。つむぎが何かを見つけて目を輝かせる瞬間、彼女の長い睫毛が揺れる様子を、佑樹はずっと眺めていたかった。


​ある日、佑樹はスマートフォンの画面で覚えたての拙い手話を披露してみた。「好き」という手話を試みようとして指を絡ませてしまい、変な形になってしまう。つむぎは一瞬驚いたように目を見開いたあと、声を立てずに肩を揺らして笑った。それから、佑樹の手をそっと包み込み、正しい指の形へと導いてくれた。彼女の手のひらは、小さくて驚くほど温かかった。


​指先が触れ合うたび、胸の奥がキュッと締め付けられる。
​(この声は、彼女には届かない)
​どれだけ言葉を重ねても、どれほど強い想いを抱いても、つむぎの世界に佑樹の「声」が響くことはない。その事実が、胸の深い場所に淡いトゲのように刺さっていた。それでも佑樹は、彼女の隣にいるときだけ、世界が奇跡のように静かで美しく見えたのだ。
​夕暮れ時、橙色に染まる帰り道。駅のホームで、つむぎがふと佑樹の袖口を引いた。振り返ると、彼女はまっすぐな瞳で佑樹を見つめ、ノートを開いた。
​『佑樹くんの「声」は聞こえないけれど、手を見ると、何を考えているか少しだけわかるよ』
​つむぎはそう書いて、少しだけ寂しそうに微笑んだ。風が二人の間を吹き抜け、電車の接近を知らせる黄色い点滅灯が静かに光り始めた。言葉にならない切なさが、佑樹の心の中に静かに満ちていった。

****

木漏れ日が静かに降り注ぐ、午後の図書館。別々の本を開いていたはずの佑樹は、気づけば隣の席の横顔から目を離せずにいた。

​白磁のような肌と、柔らかな光を透かす細い髪。どこか影を帯びた瞳は、開かれたページを静かに追っている。触れたらそのまま春の幻みたいに消えてしまいそうな、儚く美しい雰囲気を纏っていた。

​それが、つむぎとの偶然の出会いだった。
​何気なく声をかけた佑樹に、彼女は驚く風でもなく、少しだけ困ったように微笑んだ。そして、鞄から一冊の小さなスケッチブックとペンを取り出し、さらさらと文字を書いた。

​『ごめんなさい、私、耳が聞こえなくて』


​整った丸い文字を目にした瞬間、佑樹の胸の奥で、小さな揺らぎが生まれた。音のない世界に生きる彼女の静けさと、その横顔の美しさに、気づいたときにはもう心を奪われていたのだった。

****

手紙やスマホでやりとりするにつれて、僕は、つむぎの声ってどんな感じだろうかと考えるようになった。

かわいいかな?綺麗な声かな?

午後の講義まで時間があり、図書館に行った。つむぎがいたので、つむぎの隣に座る。
僕に気づいたつむぎは、いつも通り微笑んだ。

『つむぎってどんな感じの声?』

と書いたメモ見せた。

つむぎは、困ったなぁというような顔で苦笑しつつ返事書いた。

そして

『よく言われるのは幼い子供みたい、です。笑』

といつもの丸っこい字で教えてくれた。
意外だった。つむぎは、大人っぽいから鈴を転がしたような声を想像していた。

『ちょっとだけ聞いてみたい。』

メモを渡すとつむぎは、ちょっとだけ顔赤らめた。
読んでた本で顔隠しながら、メモ書いた。

『恥ずかしので、また!すみません!これから用事があるので!』

とそそくさ帰っていった。
ちょっと残念だったけど、聞かせてくれる日を待ち望みつつ、大学へ行った。

****

「おーい!里山!」
里山は、僕の苗字で、僕を呼んだのは、同じ講義で仲良い親友の春山和樹。
大学入学したとき、名前に「樹」が入ってる共通点から仲良くなった。

さっぱりしていて、穏やかな性格だ。


「また図書館で例のあの子に会ったの?」
「まぁ、まぁー。」
春山には、つむぎとの事話してる。つむぎとの会話を教えると、たまに春山の顔が曇るため、なんか引っかかるときがある。

「なぁ、お前さ、なんでつむぎの事話すと嫌そうな顔するの?」
「いやいや。違うって。なんか前に会った事あるような気がしてならねーなぁ。って考えてるんだよ。」
「小学校や中学で一緒だったとか?」
「どうだったかな?思いだせねーな。」

つむぎと春山は、昔、会った事ある?つむぎに春山の事話しても別に知ってるって反応しなかったけどなぁ。

そう思いながら、午後の講義に身が入らず、教授に注意された。

***

夕方、居酒屋「うみ」。僕が18のときから世話になってるバイト先。
「おい!里山!あっちのテーブルにビール運んで!」

店長の元気な声が響く。

「はーい!お待たせしました!生ふたつでーす!」
カップルらしきふたりの席にビール運び、厨房に戻る途中、見慣れた小さな背中と綺麗な長い黒髪が見え、チラっと見ると、つむぎだった。

誰かと来てるのか?と思い、確認したいが、つむぎって18だよな?まだお酒飲めないはず。
と相手が見えた!


どうやら母親らしき人と来ていたようだ。年は50代前半か40代後半ぐらいで、茶髪で長めのパーマかけていた。とても綺麗なメイクしてるので、つむぎの母親だと言われても納得する。

「おい!里山!これ、オレンジジュースとフライドポテト!あそこの4番テーブル!」

「あ、はい!すいません!」

「ぼーっとするなよ!今日は、忙しいんだぞ!」

店長の怒声を背に向けて、つむぎがいる席に運ぶ。

「お待たせしました。オレンジジュースとフライドポテトです!」

品を置くとつむぎの向かいに座っていた女性が
「あら、ありがとう」
と言った。

つむぎを見ると、びっくりした顔で見ている。

「知り合い?私が手話するね。知りあい?」

女性が手話するとつむぎは、笑顔で頷いた。
「ここでバイトしてるんだ。」
と僕がゆっくり話すとつむぎは、メモとペン出した。

『そうなんだ!がんばってね!』

といつもの丸っこいかわいい字で応援してくれた。

一緒にいる女性との関係を知りたかったが、店長に叱られるので、下がることに。
去り際、つむぎは、オレンジジュースとフライドポテトを美味しそうに笑顔で頬張ってた。

厨房裏に戻り、つむぎからもらった手紙見て、また頑張ろうとパワーがみなぎった。

会計待ちがあるため、急いで会計に行くとつむぎと女性が待っていた。

「すみません!お待たせしました。2000円になります。」
「さっき、忙しい中、引き止めてごめんなさいね。私、つむぎの母親です。これからもつむぎと仲良くしてね!」

2000円ちょうど支払った。つむぎは、去り際に

「ユーキクン、マタネ!」

今のつむぎの声?初めて聞いた彼女の声は、幼い子供みたいで愛くるしい声だった。

気づいたときには、つむぎは、母親と一緒に手を振って、帰路についていた。