ーアカリside.ー
ホテルを出てから車で走ること、五分ほど。
「……ここ?」
思わず口から出た。
スヒョンが車を停めたのは、大通りから一本入ったところにある、雑居ビルの一階。
そこに小さな店があった。
古い看板、少し色褪せた外壁。
ガラス越しに見える店内も、決して広くはない。
……もっとこう。
高級そうなところを想像してた。
もちろん、別に高級店に行きたいわけじゃない。
ただ。
ハン・スヒョン、ハンウ食品会長の息子。
いわゆる御曹司。
だから勝手に、こういう庶民的なお店には、あまり来ない人なんだと思っていた。
「何ですか」
車を降りたスヒョンが、お店を見つめる私を見る。
「いや」
「何か?」
「いやいや、なんでもないです」
言ったら、また余計なこと言われそう。
私はキャリーケースをホテルに置いてきたから、小さなバッグだけ持って、スヒョンの後についていく。
店の前まで来ると、スヒョンがドアを開けた。
そして私を見る。
「どうぞ」
「あ、はい」
……こういうところは、普通に紳士なんだよな。
「ありがとうございます」
私は先に店へ入った。
「어서 오세요.
(いらっしゃいませ。)」
店員さんの声。
店内は、思っていたよりさらに小さい。
テーブル席が数卓で、奥にも少し席があるくらい。
壁には韓国語の手書きメニュー。
所々に古い写真。
テレビでは韓国のバラエティ番組が流れている。
何人かいる先客は、ほとんど地元の人っぽい。
「……」
こういう店、めちゃくちゃ好きかも。
韓国の地元の人が何を食べてるか勉強になる。
スヒョンは慣れた様子で奥の席へ向かった。
「ここ、よく来るんですか?」
「さっきの工場の帰りとかによく使います」
席へ座ると、店員さんがすぐにやってきた。
「뭐 드릴까요?
(何になさいますか?)」
スヒョンが私を見る。
「酒は?飲めるか?」
「あ、はい。人並みに…」
スヒョンが迷うことなく韓国語で注文する。
「닭한마리 하나랑 소주 한 병 주세요.
(タッカンマリ一つと、焼酎を一本ください。)」
「네.
(はい。)」
店員さんが去る。
私はスヒョンを見る。
「今、何頼んだんですか?」
「タッカンマリと焼酎」
「タッカンマリ……」
聞いたことある。
「……あ」
私は思い出したように言う。
「参鶏湯みたいなやつ?」
「違います」
即答される。
だから返事の仕方とか、あなたの問題はそういうところだよね、と思うがグッと飲み込む。
「違うの?」
「ええ」
「鶏を煮るやつですよね?」
「それは合っています」
「じゃあほぼ参鶏湯じゃないですか」
「違います」
二回目。
「何が違うんですか」
スヒョンが淡々と説明する。
「参鶏湯は、鶏の中にもち米や高麗人参なんかを入れて煮る料理です」
「うん」
「タッカンマリは、丸鶏をじゃがいもやネギと一緒に鍋で煮ます」
「へぇ」
「スープそのものを食べるというより、鶏をタレにつけて食べることも多いです」
「なるほど」
私は少し前のめりになる。
「美味しい?」
「だから連れてきたんでしょう」
「……」
またそういう言い方。
「はいはい」
でもなんとなく、今日はもういちいち腹を立てるのも面倒になってきた。
しばらくすると大きな鍋が運ばれてきた。
「おぉ〜」
思わず声が出た。
白い湯気。
その中に大きな鶏、じゃがいも、長ネギ。
ぐつぐつと。
透明なスープが煮立っている。
「すご」
スヒョンが慣れた手つきで、大きなハサミを使って鶏肉を切り分けていく。
さすが手際がいい。
それを見ているだけで、お腹が空いてきた。
「タレ作ります?」
スヒョンが聞く。
「お願いします」
何が何だか分からないので、完全に任せる。
スヒョンが小皿にタレを作っていく。
醤油っぽいもの、酢、辛そうな薬味、ニラ。
「そんなに入れたら辛くないですか?」
「大丈夫だと思います」
「…その〝思います〟が怖いんですけど」
「嫌なら食べなければいいでしょう」
「……」
まぁ確かに。
鍋がさらに煮えていく。
鶏の香りがふわっと。
「そろそろ食べられます」
スヒョンが鶏肉を取り分ける。
私もまず、スープを少し飲んだ。
「……え」
思わずもう一口。
「美味しい」
何これ。
鶏の旨味がすごい。
でも脂っこくない。
口に入れた瞬間、優しいのに、後からちゃんと深い。
塩気も強すぎない。
「めちゃくちゃ美味しい……」
もう一回言ってしまった。
今度は鶏肉。
箸で持ち上げると、ほろっと簡単に崩れる。
「……」
タレにつけて食べる。
「ん!」
思わず目を見開く。
美味しい。
スープだけでも十分美味しかったのに、タレをつけると酸味と辛味が加わって全然違う。
「おいしい!すっごい美味しい!」
私は完全にテンションが上がった。
向かいを見る。
「……」
スヒョンがこっちを見ていた。
「何ですか」
「いえ」
でも、その顔はほんの少し、口角を上げて笑ってる。
「今、笑ったでしょ」
「笑っていません」
「絶対笑った」
「気のせいです」
私も笑ってしまう。
するとスヒョンが口を開いた。
「うまい店だと言っただろ?」
「……」
切れ長の目を少し細めて、得意げに笑ってこちらを見る。
一瞬。
その言い方が、なんだか仕事の時よりずっと普通の人みたいで、くすぐったいような、少しだけ変な感じがした。
「……うん」
私は素直に頷く。
「めちゃくちゃ美味しい」
「そうだろうな」
……何だろこの人。
こういう顔もするんだ。
私はもう一口スープを飲む。
そして、ふと口を開いた。
「正直」
「はい」
「こういうお店に来ると思ってませんでした」
スヒョンが箸を止める。
「どういう意味ですか」
「そのままです」
私は正直に答える。
「あなたいつもピシッとスーツ着てるし、高級車乗ってるし。
ましてやハンウの御曹司だし。
もっと高級なお店とか、格式あるところばっかり行く人だと思ってました」
「……」
それを聞いたスヒョンがふっと鼻で笑った。
「何ですか」
「あなたも社長の娘でしょう」
「……」
いきなり、痛いところをつく。
「肩書きだけで決めつけられるのは嫌なくせに」
スヒョンが私を見る。
「人にはするんですね」
「……」
ぐ…何も言えない。
「その偏見はそろそろ捨ててくれ。」
「……」
正論だ。
「……はい」
何か言い返そうと思ったけど、今回は言い返せなかった。
だって本当にその通りだから。
私は〝社長の娘だから〟そう言われるのが、ずっと嫌だった。
何をやっても親のおかげ。実力じゃない。
勝手に決めつけられる。
それが一番嫌だったのに、私はスヒョンを〝会長の息子〟〝御曹司〟
そういう肩書きで勝手に、人柄を決めつけていた。
最初の印象が気取ってて最悪だったのもあるけど。
高級なものしか食べない。
乱暴な物言いで、勝手に決めつける。
現場のことなんて、たいして知らない。
恵まれた環境で順調に出世してきたと、いつのまにかに思い込んで、勝手に悪者にしようとしていたかも。
今日、工場で聞いた話まで頭に浮かぶ。
七光り。親の力。
そう言われながら、結果を出した。
……。
私、思ってたよりこの人のこと、何も知らなかったよね。
「……すみません」
ぽつりとそう言うと、今度はスヒョンが少しだけ驚いた顔をした。
「何がですか」
「いや……」
私は少しだけ気まずくなる。
「勝手に決めつけてたなって」
「……」
「私もそういうの嫌いなのに」
スヒョンは少しだけ私を見る。
でも何も言わず、また鶏肉を取った。
……何も言わないんだ。
なんかそれが少しだけ、ありがたかった。
「じゃあ」
私は空気を変えるように会話をした。
「屋台のご飯とかも食べるんですか?」
「食べます」
即答。
「え!」
「何ですか」
「なんか意外」
「また偏見ですか?」
「あ」
やば。
「今のなし」
スヒョンが少しだけ笑った。
「もちろん、仕事柄格式のある店も行きます」
スヒョンが言う。
「でも毎日行きたいとは思いません」
「なんで?」
「肩が凝るので」
「……」
私は思わず笑った。
「スヒョンさんでも肩凝るんですね」
「人間なので」
「ふふっ」
面白い。
「高い店も、それは美味しいですよ」
スヒョンはスープを飲みながら続けた。
「食材もいい。技術もある」
「うん」
「でも」
少し間を置いて。
「そもそも、僕たちが作っているものこそ、高級志向のものじゃないでしょう」
「……」
私は箸を止めてスヒョンを見る。
「スーパーで買えて、数百円で食べられるもの」
「……」
「疲れて帰った日に、簡単に作れるもの」
「……」
「学生でも買えるもの」
スヒョンは。
鍋を見る。
「そういうものを作っているのに、高い店の味だけ知っていればいいとは思いません」
「……」
私は少し姿勢を正した。
「高い金を出せば、美味しいものはいくらでもあります」
スヒョンが言う。
「でも数百円で簡単に食べられて。
それでも、また食べたいと思わせる。
それを考えるのが、我々の仕事であって、難しいけどそこが面白い。」
「……分かります」
私は、すぐに言葉を発した。
スヒョンがこちらを見る。
「分かります、それ」
私は少し前のめりになる。
「白樹の商品もそうです」
「ええ」
「特別な日に食べるものじゃなくて」
私は指を折る。
「学校から帰ってきた時のおやつだったり」
「……」
「仕事から帰って、もう何も作りたくない日の夜食だったり」
「……」
「家族で食べる、手軽な休日のお昼だったり」
スヒョンが静かに頷く。
「そういうところにあるものなんですよね」
「そうですね」
「だから」
私は少し笑う。
「特別な日に食べてもらえたら、それも嬉しいけど、家の棚にいつも置いてもらえてたら、なんか、すごく嬉しかったりする」
「分かります」
「……」
初めてだった。
この人と仕事の話をして。
こんなに素直に意見が合ったの。
いつもどこかで引っかかって。
言い合って。
どっちかがムッとして終わる。
でも今日は違う。
「手軽だからって、妥協していいわけじゃないんですよね」
私が言う。
「ええ」
「むしろ価格とか、保存性とか、いろんな条件がある中で」
「誰が食べても美味しくしなければならない」
スヒョンが続ける。
「そう!」
声が大きくなる。
「そこなんですよ!」
スヒョンが少し笑う。
「何ですか」
「急に元気になったので」
「だって分かるから!」
私は箸を持ったまま熱弁。
「高い材料使って、手間も時間もかけて、すぐ食べてもらえるなら、もちろんできること増えるじゃないですか」
「ええ」
「でもインスタントとか加工食品って、賞味期限もあるし、流通もあるし」
「価格も」
「そう!」
……。
すごい、会話が続く。
しかも楽しい。
そこから気付けば二人でずっと食べ物の話をしていた。
日本と韓国のインスタント麺。
最近売れている味。
コンビニで見かけた商品。
屋台で人気の食べ物。
「韓国のコンビニ、ラーメンの種類多すぎません?」
「日本も多いでしょう」
「でも韓国の方が棚の圧がすごい」
「圧?」
「なんか、全部こっち見てる感じ」
「意味が分かりません」
「分かってくださいよ」
そう言うとスヒョンが少し笑う。
最初は本当に笑わない人だと思ってた。
でも今日だけで何回見たんだろ。
ほんの少し口元が緩むだけ。
それでも会議室で見た冷たい顔とは全然違う。
「これ」
スヒョンが鍋からじゃがいもを取る。
「食べます?」
「食べます」
私の取り皿へ。
「ありがとうございます」
普通にご飯を食べている。
……。
なんだろ、不思議。
私はハン・スヒョンと普通に、会話をしてご飯を食べられるんだ。
それも結構楽しく。
食事を終え店を出る。
「잘 먹었습니다.
(ごちそうさまでした。)」
スヒョンが店員さんへ。
私も覚えたての言葉で拙く、
「잘 먹었습니다.
(ごちそうさまでした。)」
と言ってみる。
店員さんが笑顔で。
「감사합니다.
(ありがとうございます。)」
と返してくれた。
……。
ちょっと嬉しい。
店の外。夜の韓国。ネオン。
車の音。少し冷たい風。
「……美味しかった」
私が言う。
「そうでしょう」
スヒョンが、また少しだけ得意そうに笑った。
「認めます」
「何を」
「店選び」
「それだけですか」
「それだけです」
「……」
スヒョンが小さく笑う。
私も笑った。
そしてふと、今日一日を思い返す。
会社の危機を若くして立て直した人。
七光りと呼ばれても、結果で黙らせた人。
社員の生活を、守った人。
屋台にも行く人。
古い小さな店を。
美味しいと言う人。
安くて手軽なものに。
価値を感じている人。
そして普通に笑う人。
……。
私、ハン・スヒョンって人を、勝手に決めつけすぎてたな。
嫌なところはある。
今でも普通に腹は立つ。
でもそれだけの人じゃない。
「白樹部長?」
「……え?」
少し先でスヒョンが私を見ている。
「行きますよ」
「あ、はい」
私は慌ててその後を追った。
韓国出張。
まだ一日目。
なのにこの時、私の中にあった、ハン・スヒョンという人間のイメージは、少しずつ確実に変わり始めていた。
ホテルを出てから車で走ること、五分ほど。
「……ここ?」
思わず口から出た。
スヒョンが車を停めたのは、大通りから一本入ったところにある、雑居ビルの一階。
そこに小さな店があった。
古い看板、少し色褪せた外壁。
ガラス越しに見える店内も、決して広くはない。
……もっとこう。
高級そうなところを想像してた。
もちろん、別に高級店に行きたいわけじゃない。
ただ。
ハン・スヒョン、ハンウ食品会長の息子。
いわゆる御曹司。
だから勝手に、こういう庶民的なお店には、あまり来ない人なんだと思っていた。
「何ですか」
車を降りたスヒョンが、お店を見つめる私を見る。
「いや」
「何か?」
「いやいや、なんでもないです」
言ったら、また余計なこと言われそう。
私はキャリーケースをホテルに置いてきたから、小さなバッグだけ持って、スヒョンの後についていく。
店の前まで来ると、スヒョンがドアを開けた。
そして私を見る。
「どうぞ」
「あ、はい」
……こういうところは、普通に紳士なんだよな。
「ありがとうございます」
私は先に店へ入った。
「어서 오세요.
(いらっしゃいませ。)」
店員さんの声。
店内は、思っていたよりさらに小さい。
テーブル席が数卓で、奥にも少し席があるくらい。
壁には韓国語の手書きメニュー。
所々に古い写真。
テレビでは韓国のバラエティ番組が流れている。
何人かいる先客は、ほとんど地元の人っぽい。
「……」
こういう店、めちゃくちゃ好きかも。
韓国の地元の人が何を食べてるか勉強になる。
スヒョンは慣れた様子で奥の席へ向かった。
「ここ、よく来るんですか?」
「さっきの工場の帰りとかによく使います」
席へ座ると、店員さんがすぐにやってきた。
「뭐 드릴까요?
(何になさいますか?)」
スヒョンが私を見る。
「酒は?飲めるか?」
「あ、はい。人並みに…」
スヒョンが迷うことなく韓国語で注文する。
「닭한마리 하나랑 소주 한 병 주세요.
(タッカンマリ一つと、焼酎を一本ください。)」
「네.
(はい。)」
店員さんが去る。
私はスヒョンを見る。
「今、何頼んだんですか?」
「タッカンマリと焼酎」
「タッカンマリ……」
聞いたことある。
「……あ」
私は思い出したように言う。
「参鶏湯みたいなやつ?」
「違います」
即答される。
だから返事の仕方とか、あなたの問題はそういうところだよね、と思うがグッと飲み込む。
「違うの?」
「ええ」
「鶏を煮るやつですよね?」
「それは合っています」
「じゃあほぼ参鶏湯じゃないですか」
「違います」
二回目。
「何が違うんですか」
スヒョンが淡々と説明する。
「参鶏湯は、鶏の中にもち米や高麗人参なんかを入れて煮る料理です」
「うん」
「タッカンマリは、丸鶏をじゃがいもやネギと一緒に鍋で煮ます」
「へぇ」
「スープそのものを食べるというより、鶏をタレにつけて食べることも多いです」
「なるほど」
私は少し前のめりになる。
「美味しい?」
「だから連れてきたんでしょう」
「……」
またそういう言い方。
「はいはい」
でもなんとなく、今日はもういちいち腹を立てるのも面倒になってきた。
しばらくすると大きな鍋が運ばれてきた。
「おぉ〜」
思わず声が出た。
白い湯気。
その中に大きな鶏、じゃがいも、長ネギ。
ぐつぐつと。
透明なスープが煮立っている。
「すご」
スヒョンが慣れた手つきで、大きなハサミを使って鶏肉を切り分けていく。
さすが手際がいい。
それを見ているだけで、お腹が空いてきた。
「タレ作ります?」
スヒョンが聞く。
「お願いします」
何が何だか分からないので、完全に任せる。
スヒョンが小皿にタレを作っていく。
醤油っぽいもの、酢、辛そうな薬味、ニラ。
「そんなに入れたら辛くないですか?」
「大丈夫だと思います」
「…その〝思います〟が怖いんですけど」
「嫌なら食べなければいいでしょう」
「……」
まぁ確かに。
鍋がさらに煮えていく。
鶏の香りがふわっと。
「そろそろ食べられます」
スヒョンが鶏肉を取り分ける。
私もまず、スープを少し飲んだ。
「……え」
思わずもう一口。
「美味しい」
何これ。
鶏の旨味がすごい。
でも脂っこくない。
口に入れた瞬間、優しいのに、後からちゃんと深い。
塩気も強すぎない。
「めちゃくちゃ美味しい……」
もう一回言ってしまった。
今度は鶏肉。
箸で持ち上げると、ほろっと簡単に崩れる。
「……」
タレにつけて食べる。
「ん!」
思わず目を見開く。
美味しい。
スープだけでも十分美味しかったのに、タレをつけると酸味と辛味が加わって全然違う。
「おいしい!すっごい美味しい!」
私は完全にテンションが上がった。
向かいを見る。
「……」
スヒョンがこっちを見ていた。
「何ですか」
「いえ」
でも、その顔はほんの少し、口角を上げて笑ってる。
「今、笑ったでしょ」
「笑っていません」
「絶対笑った」
「気のせいです」
私も笑ってしまう。
するとスヒョンが口を開いた。
「うまい店だと言っただろ?」
「……」
切れ長の目を少し細めて、得意げに笑ってこちらを見る。
一瞬。
その言い方が、なんだか仕事の時よりずっと普通の人みたいで、くすぐったいような、少しだけ変な感じがした。
「……うん」
私は素直に頷く。
「めちゃくちゃ美味しい」
「そうだろうな」
……何だろこの人。
こういう顔もするんだ。
私はもう一口スープを飲む。
そして、ふと口を開いた。
「正直」
「はい」
「こういうお店に来ると思ってませんでした」
スヒョンが箸を止める。
「どういう意味ですか」
「そのままです」
私は正直に答える。
「あなたいつもピシッとスーツ着てるし、高級車乗ってるし。
ましてやハンウの御曹司だし。
もっと高級なお店とか、格式あるところばっかり行く人だと思ってました」
「……」
それを聞いたスヒョンがふっと鼻で笑った。
「何ですか」
「あなたも社長の娘でしょう」
「……」
いきなり、痛いところをつく。
「肩書きだけで決めつけられるのは嫌なくせに」
スヒョンが私を見る。
「人にはするんですね」
「……」
ぐ…何も言えない。
「その偏見はそろそろ捨ててくれ。」
「……」
正論だ。
「……はい」
何か言い返そうと思ったけど、今回は言い返せなかった。
だって本当にその通りだから。
私は〝社長の娘だから〟そう言われるのが、ずっと嫌だった。
何をやっても親のおかげ。実力じゃない。
勝手に決めつけられる。
それが一番嫌だったのに、私はスヒョンを〝会長の息子〟〝御曹司〟
そういう肩書きで勝手に、人柄を決めつけていた。
最初の印象が気取ってて最悪だったのもあるけど。
高級なものしか食べない。
乱暴な物言いで、勝手に決めつける。
現場のことなんて、たいして知らない。
恵まれた環境で順調に出世してきたと、いつのまにかに思い込んで、勝手に悪者にしようとしていたかも。
今日、工場で聞いた話まで頭に浮かぶ。
七光り。親の力。
そう言われながら、結果を出した。
……。
私、思ってたよりこの人のこと、何も知らなかったよね。
「……すみません」
ぽつりとそう言うと、今度はスヒョンが少しだけ驚いた顔をした。
「何がですか」
「いや……」
私は少しだけ気まずくなる。
「勝手に決めつけてたなって」
「……」
「私もそういうの嫌いなのに」
スヒョンは少しだけ私を見る。
でも何も言わず、また鶏肉を取った。
……何も言わないんだ。
なんかそれが少しだけ、ありがたかった。
「じゃあ」
私は空気を変えるように会話をした。
「屋台のご飯とかも食べるんですか?」
「食べます」
即答。
「え!」
「何ですか」
「なんか意外」
「また偏見ですか?」
「あ」
やば。
「今のなし」
スヒョンが少しだけ笑った。
「もちろん、仕事柄格式のある店も行きます」
スヒョンが言う。
「でも毎日行きたいとは思いません」
「なんで?」
「肩が凝るので」
「……」
私は思わず笑った。
「スヒョンさんでも肩凝るんですね」
「人間なので」
「ふふっ」
面白い。
「高い店も、それは美味しいですよ」
スヒョンはスープを飲みながら続けた。
「食材もいい。技術もある」
「うん」
「でも」
少し間を置いて。
「そもそも、僕たちが作っているものこそ、高級志向のものじゃないでしょう」
「……」
私は箸を止めてスヒョンを見る。
「スーパーで買えて、数百円で食べられるもの」
「……」
「疲れて帰った日に、簡単に作れるもの」
「……」
「学生でも買えるもの」
スヒョンは。
鍋を見る。
「そういうものを作っているのに、高い店の味だけ知っていればいいとは思いません」
「……」
私は少し姿勢を正した。
「高い金を出せば、美味しいものはいくらでもあります」
スヒョンが言う。
「でも数百円で簡単に食べられて。
それでも、また食べたいと思わせる。
それを考えるのが、我々の仕事であって、難しいけどそこが面白い。」
「……分かります」
私は、すぐに言葉を発した。
スヒョンがこちらを見る。
「分かります、それ」
私は少し前のめりになる。
「白樹の商品もそうです」
「ええ」
「特別な日に食べるものじゃなくて」
私は指を折る。
「学校から帰ってきた時のおやつだったり」
「……」
「仕事から帰って、もう何も作りたくない日の夜食だったり」
「……」
「家族で食べる、手軽な休日のお昼だったり」
スヒョンが静かに頷く。
「そういうところにあるものなんですよね」
「そうですね」
「だから」
私は少し笑う。
「特別な日に食べてもらえたら、それも嬉しいけど、家の棚にいつも置いてもらえてたら、なんか、すごく嬉しかったりする」
「分かります」
「……」
初めてだった。
この人と仕事の話をして。
こんなに素直に意見が合ったの。
いつもどこかで引っかかって。
言い合って。
どっちかがムッとして終わる。
でも今日は違う。
「手軽だからって、妥協していいわけじゃないんですよね」
私が言う。
「ええ」
「むしろ価格とか、保存性とか、いろんな条件がある中で」
「誰が食べても美味しくしなければならない」
スヒョンが続ける。
「そう!」
声が大きくなる。
「そこなんですよ!」
スヒョンが少し笑う。
「何ですか」
「急に元気になったので」
「だって分かるから!」
私は箸を持ったまま熱弁。
「高い材料使って、手間も時間もかけて、すぐ食べてもらえるなら、もちろんできること増えるじゃないですか」
「ええ」
「でもインスタントとか加工食品って、賞味期限もあるし、流通もあるし」
「価格も」
「そう!」
……。
すごい、会話が続く。
しかも楽しい。
そこから気付けば二人でずっと食べ物の話をしていた。
日本と韓国のインスタント麺。
最近売れている味。
コンビニで見かけた商品。
屋台で人気の食べ物。
「韓国のコンビニ、ラーメンの種類多すぎません?」
「日本も多いでしょう」
「でも韓国の方が棚の圧がすごい」
「圧?」
「なんか、全部こっち見てる感じ」
「意味が分かりません」
「分かってくださいよ」
そう言うとスヒョンが少し笑う。
最初は本当に笑わない人だと思ってた。
でも今日だけで何回見たんだろ。
ほんの少し口元が緩むだけ。
それでも会議室で見た冷たい顔とは全然違う。
「これ」
スヒョンが鍋からじゃがいもを取る。
「食べます?」
「食べます」
私の取り皿へ。
「ありがとうございます」
普通にご飯を食べている。
……。
なんだろ、不思議。
私はハン・スヒョンと普通に、会話をしてご飯を食べられるんだ。
それも結構楽しく。
食事を終え店を出る。
「잘 먹었습니다.
(ごちそうさまでした。)」
スヒョンが店員さんへ。
私も覚えたての言葉で拙く、
「잘 먹었습니다.
(ごちそうさまでした。)」
と言ってみる。
店員さんが笑顔で。
「감사합니다.
(ありがとうございます。)」
と返してくれた。
……。
ちょっと嬉しい。
店の外。夜の韓国。ネオン。
車の音。少し冷たい風。
「……美味しかった」
私が言う。
「そうでしょう」
スヒョンが、また少しだけ得意そうに笑った。
「認めます」
「何を」
「店選び」
「それだけですか」
「それだけです」
「……」
スヒョンが小さく笑う。
私も笑った。
そしてふと、今日一日を思い返す。
会社の危機を若くして立て直した人。
七光りと呼ばれても、結果で黙らせた人。
社員の生活を、守った人。
屋台にも行く人。
古い小さな店を。
美味しいと言う人。
安くて手軽なものに。
価値を感じている人。
そして普通に笑う人。
……。
私、ハン・スヒョンって人を、勝手に決めつけすぎてたな。
嫌なところはある。
今でも普通に腹は立つ。
でもそれだけの人じゃない。
「白樹部長?」
「……え?」
少し先でスヒョンが私を見ている。
「行きますよ」
「あ、はい」
私は慌ててその後を追った。
韓国出張。
まだ一日目。
なのにこの時、私の中にあった、ハン・スヒョンという人間のイメージは、少しずつ確実に変わり始めていた。
