この恋は、業務提携外につき。 ―最悪の相手と、最高の商品を。―

ーアカリside.ー




ホテルを出てから車で走ること、五分ほど。

「……ここ?」

思わず口から出た。

スヒョンが車を停めたのは、大通りから一本入ったところにある、雑居ビルの一階。

そこに小さな店があった。

古い看板、少し色褪せた外壁。

ガラス越しに見える店内も、決して広くはない。

……もっとこう。

高級そうなところを想像してた。

もちろん、別に高級店に行きたいわけじゃない。

ただ。

ハン・スヒョン、ハンウ食品会長の息子。

いわゆる御曹司。

だから勝手に、こういう庶民的なお店には、あまり来ない人なんだと思っていた。

「何ですか」

車を降りたスヒョンが、お店を見つめる私を見る。

「いや」

「何か?」

「いやいや、なんでもないです」

言ったら、また余計なこと言われそう。

私はキャリーケースをホテルに置いてきたから、小さなバッグだけ持って、スヒョンの後についていく。

店の前まで来ると、スヒョンがドアを開けた。

そして私を見る。

「どうぞ」

「あ、はい」

……こういうところは、普通に紳士なんだよな。

「ありがとうございます」

私は先に店へ入った。

「어서 오세요.
(いらっしゃいませ。)」

店員さんの声。

店内は、思っていたよりさらに小さい。

テーブル席が数卓で、奥にも少し席があるくらい。

壁には韓国語の手書きメニュー。

所々に古い写真。

テレビでは韓国のバラエティ番組が流れている。

何人かいる先客は、ほとんど地元の人っぽい。

「……」

こういう店、めちゃくちゃ好きかも。

韓国の地元の人が何を食べてるか勉強になる。

スヒョンは慣れた様子で奥の席へ向かった。

「ここ、よく来るんですか?」

「さっきの工場の帰りとかによく使います」

席へ座ると、店員さんがすぐにやってきた。

「뭐 드릴까요?
(何になさいますか?)」

スヒョンが私を見る。

「酒は?飲めるか?」

「あ、はい。人並みに…」

スヒョンが迷うことなく韓国語で注文する。

「닭한마리 하나랑 소주 한 병 주세요.
(タッカンマリ一つと、焼酎を一本ください。)」

「네.
(はい。)」

店員さんが去る。

私はスヒョンを見る。

「今、何頼んだんですか?」

「タッカンマリと焼酎」

「タッカンマリ……」

聞いたことある。

「……あ」

私は思い出したように言う。

「参鶏湯みたいなやつ?」

「違います」

即答される。

だから返事の仕方とか、あなたの問題はそういうところだよね、と思うがグッと飲み込む。

「違うの?」

「ええ」

「鶏を煮るやつですよね?」

「それは合っています」

「じゃあほぼ参鶏湯じゃないですか」

「違います」

二回目。

「何が違うんですか」

スヒョンが淡々と説明する。

「参鶏湯は、鶏の中にもち米や高麗人参なんかを入れて煮る料理です」

「うん」

「タッカンマリは、丸鶏をじゃがいもやネギと一緒に鍋で煮ます」

「へぇ」

「スープそのものを食べるというより、鶏をタレにつけて食べることも多いです」

「なるほど」

私は少し前のめりになる。

「美味しい?」

「だから連れてきたんでしょう」

「……」

またそういう言い方。

「はいはい」

でもなんとなく、今日はもういちいち腹を立てるのも面倒になってきた。

しばらくすると大きな鍋が運ばれてきた。

「おぉ〜」

思わず声が出た。

白い湯気。

その中に大きな鶏、じゃがいも、長ネギ。

ぐつぐつと。

透明なスープが煮立っている。

「すご」

スヒョンが慣れた手つきで、大きなハサミを使って鶏肉を切り分けていく。

さすが手際がいい。

それを見ているだけで、お腹が空いてきた。

「タレ作ります?」

スヒョンが聞く。

「お願いします」

何が何だか分からないので、完全に任せる。

スヒョンが小皿にタレを作っていく。

醤油っぽいもの、酢、辛そうな薬味、ニラ。

「そんなに入れたら辛くないですか?」

「大丈夫だと思います」

「…その〝思います〟が怖いんですけど」

「嫌なら食べなければいいでしょう」

「……」

まぁ確かに。

鍋がさらに煮えていく。

鶏の香りがふわっと。

「そろそろ食べられます」

スヒョンが鶏肉を取り分ける。

私もまず、スープを少し飲んだ。

「……え」

思わずもう一口。

「美味しい」

何これ。

鶏の旨味がすごい。

でも脂っこくない。

口に入れた瞬間、優しいのに、後からちゃんと深い。

塩気も強すぎない。

「めちゃくちゃ美味しい……」

もう一回言ってしまった。

今度は鶏肉。

箸で持ち上げると、ほろっと簡単に崩れる。

「……」

タレにつけて食べる。

「ん!」

思わず目を見開く。

美味しい。

スープだけでも十分美味しかったのに、タレをつけると酸味と辛味が加わって全然違う。

「おいしい!すっごい美味しい!」

私は完全にテンションが上がった。

向かいを見る。

「……」

スヒョンがこっちを見ていた。

「何ですか」

「いえ」

でも、その顔はほんの少し、口角を上げて笑ってる。

「今、笑ったでしょ」

「笑っていません」

「絶対笑った」

「気のせいです」


私も笑ってしまう。

するとスヒョンが口を開いた。

「うまい店だと言っただろ?」

「……」


切れ長の目を少し細めて、得意げに笑ってこちらを見る。

一瞬。

その言い方が、なんだか仕事の時よりずっと普通の人みたいで、くすぐったいような、少しだけ変な感じがした。

「……うん」

私は素直に頷く。

「めちゃくちゃ美味しい」

「そうだろうな」

……何だろこの人。

こういう顔もするんだ。

私はもう一口スープを飲む。

そして、ふと口を開いた。

「正直」

「はい」

「こういうお店に来ると思ってませんでした」

スヒョンが箸を止める。

「どういう意味ですか」

「そのままです」

私は正直に答える。

「あなたいつもピシッとスーツ着てるし、高級車乗ってるし。

ましてやハンウの御曹司だし。

もっと高級なお店とか、格式あるところばっかり行く人だと思ってました」

「……」

それを聞いたスヒョンがふっと鼻で笑った。

「何ですか」

「あなたも社長の娘でしょう」

「……」

いきなり、痛いところをつく。

「肩書きだけで決めつけられるのは嫌なくせに」

スヒョンが私を見る。

「人にはするんですね」

「……」

ぐ…何も言えない。

「その偏見はそろそろ捨ててくれ。」

「……」

正論だ。

「……はい」

何か言い返そうと思ったけど、今回は言い返せなかった。

だって本当にその通りだから。

私は〝社長の娘だから〟そう言われるのが、ずっと嫌だった。

何をやっても親のおかげ。実力じゃない。

勝手に決めつけられる。

それが一番嫌だったのに、私はスヒョンを〝会長の息子〟〝御曹司〟

そういう肩書きで勝手に、人柄を決めつけていた。

最初の印象が気取ってて最悪だったのもあるけど。

高級なものしか食べない。

乱暴な物言いで、勝手に決めつける。

現場のことなんて、たいして知らない。

恵まれた環境で順調に出世してきたと、いつのまにかに思い込んで、勝手に悪者にしようとしていたかも。



今日、工場で聞いた話まで頭に浮かぶ。

七光り。親の力。

そう言われながら、結果を出した。

……。

私、思ってたよりこの人のこと、何も知らなかったよね。

「……すみません」

ぽつりとそう言うと、今度はスヒョンが少しだけ驚いた顔をした。

「何がですか」

「いや……」

私は少しだけ気まずくなる。

「勝手に決めつけてたなって」

「……」

「私もそういうの嫌いなのに」

スヒョンは少しだけ私を見る。

でも何も言わず、また鶏肉を取った。

……何も言わないんだ。

なんかそれが少しだけ、ありがたかった。

「じゃあ」

私は空気を変えるように会話をした。

「屋台のご飯とかも食べるんですか?」

「食べます」

即答。

「え!」

「何ですか」

「なんか意外」

「また偏見ですか?」

「あ」

やば。

「今のなし」

スヒョンが少しだけ笑った。

「もちろん、仕事柄格式のある店も行きます」

スヒョンが言う。

「でも毎日行きたいとは思いません」

「なんで?」

「肩が凝るので」

「……」

私は思わず笑った。

「スヒョンさんでも肩凝るんですね」

「人間なので」

「ふふっ」

面白い。

「高い店も、それは美味しいですよ」

スヒョンはスープを飲みながら続けた。

「食材もいい。技術もある」

「うん」

「でも」

少し間を置いて。

「そもそも、僕たちが作っているものこそ、高級志向のものじゃないでしょう」

「……」

私は箸を止めてスヒョンを見る。

「スーパーで買えて、数百円で食べられるもの」

「……」

「疲れて帰った日に、簡単に作れるもの」

「……」

「学生でも買えるもの」

スヒョンは。

鍋を見る。

「そういうものを作っているのに、高い店の味だけ知っていればいいとは思いません」

「……」

私は少し姿勢を正した。

「高い金を出せば、美味しいものはいくらでもあります」

スヒョンが言う。

「でも数百円で簡単に食べられて。

それでも、また食べたいと思わせる。

それを考えるのが、我々の仕事であって、難しいけどそこが面白い。」

「……分かります」

私は、すぐに言葉を発した。

スヒョンがこちらを見る。

「分かります、それ」

私は少し前のめりになる。

「白樹の商品もそうです」

「ええ」

「特別な日に食べるものじゃなくて」

私は指を折る。

「学校から帰ってきた時のおやつだったり」

「……」

「仕事から帰って、もう何も作りたくない日の夜食だったり」

「……」

「家族で食べる、手軽な休日のお昼だったり」

スヒョンが静かに頷く。

「そういうところにあるものなんですよね」

「そうですね」

「だから」

私は少し笑う。

「特別な日に食べてもらえたら、それも嬉しいけど、家の棚にいつも置いてもらえてたら、なんか、すごく嬉しかったりする」

「分かります」

「……」

初めてだった。

この人と仕事の話をして。

こんなに素直に意見が合ったの。

いつもどこかで引っかかって。

言い合って。

どっちかがムッとして終わる。

でも今日は違う。

「手軽だからって、妥協していいわけじゃないんですよね」

私が言う。

「ええ」

「むしろ価格とか、保存性とか、いろんな条件がある中で」

「誰が食べても美味しくしなければならない」

スヒョンが続ける。

「そう!」

声が大きくなる。

「そこなんですよ!」

スヒョンが少し笑う。

「何ですか」

「急に元気になったので」

「だって分かるから!」

私は箸を持ったまま熱弁。

「高い材料使って、手間も時間もかけて、すぐ食べてもらえるなら、もちろんできること増えるじゃないですか」

「ええ」

「でもインスタントとか加工食品って、賞味期限もあるし、流通もあるし」

「価格も」

「そう!」

……。

すごい、会話が続く。

しかも楽しい。

そこから気付けば二人でずっと食べ物の話をしていた。

日本と韓国のインスタント麺。

最近売れている味。

コンビニで見かけた商品。

屋台で人気の食べ物。

「韓国のコンビニ、ラーメンの種類多すぎません?」

「日本も多いでしょう」

「でも韓国の方が棚の圧がすごい」

「圧?」

「なんか、全部こっち見てる感じ」

「意味が分かりません」

「分かってくださいよ」

そう言うとスヒョンが少し笑う。

最初は本当に笑わない人だと思ってた。

でも今日だけで何回見たんだろ。

ほんの少し口元が緩むだけ。

それでも会議室で見た冷たい顔とは全然違う。

「これ」

スヒョンが鍋からじゃがいもを取る。

「食べます?」

「食べます」

私の取り皿へ。

「ありがとうございます」

普通にご飯を食べている。

……。

なんだろ、不思議。

私はハン・スヒョンと普通に、会話をしてご飯を食べられるんだ。

それも結構楽しく。

食事を終え店を出る。

「잘 먹었습니다.
(ごちそうさまでした。)」

スヒョンが店員さんへ。

私も覚えたての言葉で拙く、

「잘 먹었습니다.
(ごちそうさまでした。)」

と言ってみる。

店員さんが笑顔で。

「감사합니다.
(ありがとうございます。)」

と返してくれた。

……。

ちょっと嬉しい。

店の外。夜の韓国。ネオン。

車の音。少し冷たい風。

「……美味しかった」

私が言う。

「そうでしょう」

スヒョンが、また少しだけ得意そうに笑った。

「認めます」

「何を」

「店選び」

「それだけですか」

「それだけです」

「……」

スヒョンが小さく笑う。

私も笑った。

そしてふと、今日一日を思い返す。

会社の危機を若くして立て直した人。

七光りと呼ばれても、結果で黙らせた人。

社員の生活を、守った人。

屋台にも行く人。

古い小さな店を。

美味しいと言う人。

安くて手軽なものに。

価値を感じている人。

そして普通に笑う人。

……。

私、ハン・スヒョンって人を、勝手に決めつけすぎてたな。

嫌なところはある。

今でも普通に腹は立つ。

でもそれだけの人じゃない。

「白樹部長?」

「……え?」

少し先でスヒョンが私を見ている。

「行きますよ」

「あ、はい」

私は慌ててその後を追った。

韓国出張。

まだ一日目。

なのにこの時、私の中にあった、ハン・スヒョンという人間のイメージは、少しずつ確実に変わり始めていた。