この恋は、業務提携外につき。 ―最悪の相手と、最高の商品を。―

ーアカリside.ー



そして。



あっという間に、韓国出張の日がやってきた。



ハンウ食品の本社、工場、研究所。

それから現地のスーパーや量販店の売り場視察。

予定表には朝から夕方まで、びっしりとスケジュールが組まれていた。

仕事で一週間の出張なんて、別に珍しいことではない。

ただ、今回に限って言えば。

少しだけ気が重い。

いや少しじゃない…かなり。


理由は簡単。

予定表の至るところに、ハン・スヒョンという名前が入っているからだ。

「……はぁ」

仁川国際空港。

到着ロビーへ出た私は、キャリーケースを引きながら小さく息を吐いた。

周りから聞こえてくる韓国語。

日本とは少し違う案内表示。

空港の匂いまで、なんとなく違う。

そう思いながら周囲を見回す。

父からは『スヒョン君が迎えに行ってくれるから!』とだけ連絡が来ていた。

……相変わらず余計な計らい。

別に一人で移動できるのに。

というか、ハンウ食品くらいの会社なら、送迎担当の方だっているでしょ。


すると。

「白樹部長」

聞き覚えのある低い声。

「あ」

振り返ると、少し離れたところにスヒョンが立っていた。

黒いジャケットに、ダークカラーのニット。

会社で会った時よりは少しだけラフ。

……。

やっぱり、目立つなぁ。

百八十センチを優に超える長身。

すらっとした体型。

切れ長の目に、すっと通った鼻筋。

相変わらず、顔だけならかなり。

いや、ものすごくいい。

通りすがりの女性が一度スヒョンを見て、少ししてから、もう一度振り返った。

……まぁ、見るよね。

私だって、ちょっとカッコいい人だなって思っちゃうもん。

性格を知らなかったら。

「お久しぶりです」

私が近づく。

スヒョンも軽く頭を下げた。

「お久しぶりです」

「わざわざ迎えに来ていただいて、ありがとうございます」

「いえ」

一応、今日は仕事だからね。

なんとなく社交辞令の挨拶をする。



「フライトは問題ありませんでしたか?」

「大丈夫でした。ほとんど寝てましたし」

「そうですか」

スヒョンが。

私のキャリーケースを見る。

「それ、一週間分ですか?」

「そうです」

「少ないですね」

「必要なものだけなので。足りなかったらこっちで買います」

「そうですか」

……。

また会話が終わった。

でも前みたいに、この沈黙だけで腹が立つことはなくなった。

少しだけ、この人のペースが分かってきたのかもしれない。

「スヒョンさん、今日も仕事ですよね?」

「そうですが」

「迎え、別の方でも良かったんですよ?」

するとスヒョンが、

「私もそう父に言いました」

と。

即答した。

「……ですよね?」

思わず見る。

「送迎担当を手配すればいいと言ったんですが、会長が『白樹のお嬢様と交流を深めろ!』聞かなかったので」

「うちもですよ!」

私もすぐに返す。

「タクシーで行けるって言ったのに、『せっかくなんだからスヒョン君に迎えに来てもらいなさい』って」

二人で顔を見合わせる。

やれやれ、と思って私は続ける。

「何なんでしょうね、〝せっかく〟って」

「知りません」

「本当に勝手ですよね」

「ええ」

「人の予定を何だと思ってるんだろ」

「それはあなたのお父様にも言ってください」

「そっちの会長にも言ってください」

「言いました」

「私だって言いました」

「……」

「……」

なんだろう。

この部分に関してだけは、ものすごく意見が合う。

「全然聞かないですよね」

「聞きませんね」

二人でほぼ同時に、小さくため息を吐いた。

……。

なんか一瞬だけ、同志みたいになってしまった。


「行きましょう」

「はい」

スヒョンが歩き出す。

私も隣を歩き、駐車場へ向かう。

駐車場で、スヒョンが一台の車の前で立ち止まった。

黒い大型の車。

「……」

見るからに高そう。

車に詳しくない私でもなんとなく分かる。

「これ、スヒョンさんの?」

「はい」

「へぇ……」

私は少し車を見る。

「何ですか」

「いや……」

そこで口を閉じた。

御曹司っぽい、なんて言ったらまた売り言葉に買い言葉で喧嘩になる。

何も言わずにスヒョンがトランクを開ける。

私がキャリーケースを持ち上げようとすると、横から手が伸びてきた。

「貸してください」

「え、大丈夫ですよ。私自分で持てますけど」

そのまま。

私の手からキャリーケースを取る。

「……ありがとうございます」

私は助手席へ。

スヒョンも運転席へ乗り込む。

エンジンがかかり、車がゆっくりと空港を出た。

窓の外に韓国の街並みが流れていく。

「日本に戻ってから、プロジェクトの方はどうですか?」

しばらくして、スヒョンから話しかけてきた。

「まぁ…そこそこ忙しいですよ」

「メールを見れば分かります」

「メール?」

「送信時間」

「あ」

そういうこと。

確かに最近は夜まで普通にメールしてた。

「でもスヒョンさんだって真夜中に返信してくるじゃないですか」

「仕事なので」

「じゃあ人のこと言えないでしょ」

「私は忙しいとは思っていません」

「……」

この人。

本当に可愛くない。

「商品案、出ました?」

私が聞く。

「いくつか」

「どんな?」

「次回の会議で出します」

「ちょっとくらい教えてくださいよ」

「では、白樹側の案を教えてください」

「……」

私は黙る。

「どうぞ」

「……それは次回の会議で」

「ではこちらもそうします」

「……ほんと抜け目ない」

「ありがとうございます」

「褒めてません」

「知っています」

……。

また少しだけ腹が立つ。

でも前みたいに本気で喧嘩になる感じではない。

「でも」

私は窓の外を見ながら言った。

「一応、考えてますよ」

「何をですか」

「新しい分野」

スヒョンがほんの少しだけこちらを見る。

「工場を案内した時、スヒョンさん言ってたじゃないですか。『大切にしてきた技術を、新しい分野に使う価値がある』って。」

私は続ける。

「白樹の昔からの味を大事にしたいっていう考えも変わってません」

「変える必要はないでしょう」

「……え?」

私は少しだけ驚く。

スヒョンは私をチラッと見て続けた。

「私は、昔からの味を捨てろ、とは言っていません」

「でも会議では――」

「既存技術を使って新しいものを作ればいいと言ったんです。
今までの価値にこだわりすぎることを〝保守的〟だと言ったまでです。」

「だから!」

「何ですか」

「そういう言い方だと、また喧嘩になる!」

スヒョンが怪訝そうに目を細めてちらっとこちらを見る。

「私は普通に話しています」

「その言い方が問題なの」

「私には何が問題か分かりません」

「でしょうね!」

……。

危ない。

また喧嘩が始まってしまう。

「この話、終わり!」

私は足を組んで窓に頬杖をつくようにプイっと外を見た。

「あなたが始めたんでしょう」

「終わり!」

スヒョンは小さくため息をつき、それ以上何も言わなかった。

……。

ほんとこの人と話してると、何でこんなに疲れるんだろう。

しばらくして、車は市街地を抜け、大きな工業地帯へ入っていった。

そして、ハンウ食品の大きなロゴが見えてくる。

「……大きい」

思わず声が出た。

「ここが主力工場の一つです」

「これで一つ?」

「国内に協力工場含めて複数あります」

「すご……」

広い敷地と、いくつもの建物。

物流倉庫に大型トラック。

さすが韓国でも有数の食品メーカー。

車が来客用スペースに停まる。

「行きましょう」

「はい」

二人で車を降りた。

受付を済ませ、白衣、帽子、手洗い、消毒、エアシャワー。

一通りの衛生工程を終えて、製造エリアへ入る。

一定の機械音が聞こえ、長く続く製造ラインが見える。

「こちらが即席麺の主力ラインです」

スヒョンが。

淡々と説明を始める。

「小麦の配合、練り、圧延、切り出し。その後、商品ごとの工程へ分かれます」

私は設備を見る。

「白樹より自動化されてる……」

「去年、一部設備を更新しました」

「これ、全部自動で?」

「基本的には自動です。最終確認には人も入ります」

「へぇ……」

純粋に面白い。

私は気になるところがあるたび立ち止まった。

「この乾燥温度って商品ごとに変えてます?」

「変えています」

「時間も?」

「はい」

「白樹と結構違いますね」

スヒョンは工場内でも必要なことだけを簡潔に話す。

でも私が質問したことにはほとんど間を置かず答える。

途中社員から何か韓国語で説明されることもあった。

「이번 제품은 건조 시간을 삼 분 줄였습니다.
(今回の商品は、乾燥時間を三分短縮しました。)」

当然私には分からない。

すると「今回の商品から、乾燥時間を三分短縮したそうです」と、スヒョンが横で自然に訳してくれる。

「あ、そうなんですね」

私は社員へ頭を下げる。

「감사합니다.
(ありがとうございます。)」

これだけは覚えてきた。

社員が少し笑って頭を下げてくれる。

……通じた。

ちょっと嬉しい。

その後もスヒョンは淡々と工場を案内した。

製麺、乾燥、検品、包装、物流。

私は、気になったところを何度もメモした。

「このライン、停止時間はどれくらいですか?」

「定期点検を除けば――」

「ここ、温度差で割れたりしません?」

「その対策で湿度を――」

……やっぱり、仕事の話をしている時は、お互い普通に話せる。

というか、かなり話しやすい。

話のテンポが良くて、スヒョンにはわからないことがないみたい。

そんな時。

「본부장님.
(本部長。)」

一人の男性社員が、少し急いだ様子で近づいてきた。

「네.
(はい。)」

「잠시 확인해 주셔야 할 게 있습니다.
(少し確認していただきたいことがあります。)」

スヒョンの表情が少し変わる。

「지금입니까?
(今ですか?)」

「네. 생산 일정에 문제가 생겼습니다.
(はい。生産スケジュールに問題が発生しました。)」

何を話しているか私には分からない。

でも社員の顔を見る限り何か急ぎらしい。

スヒョンが何度か質問する。

そして、私を見る。

「すみません」

「はい」

「少し確認しないといけないことができました」

「大丈夫ですよ」

スヒョンが、通路の先を指した。

自動販売機と、ウォーターサーバー。

壁際にはベンチ。

「そこで待っていてください」

「分かりました」

「すぐ戻ります」

スヒョンは社員と一緒に奥へ消えていった。

「……ふぅ」

私はベンチへ座った。

朝から飛行機、空港から車で移動して、そのまま工場。

さすがに少し疲れた。

ペットボトルを開け、水を飲む。

目の前を作業着姿の社員たちが行き交っていく。

……すごいなぁ。

設備そのものもそうだけど、白樹とは、考え方も作り方も少しずつ違う。

これは勉強になる。来て良かった。

ま、お父さんに勝手に決められたことは気に入らないけど。

その時。

「저기…….
(あの……。)」

「……?」

顔を上げた。

五十代くらいの男性社員が私を見ていた。

「あ……」

韓国語。

「일본에서 오신 분이시죠?
(日本から来られた方ですよね?)」

「……」

分からない私は申し訳なく笑う。

「すみません。韓国語、分からなくて……」

当然、これも向こうには伝わらない。

男性も少し困った顔をする。

すると。

「あ!」

という顔をして。

ポケットからスマートフォンを取り出した。

何かを操作する。

翻訳アプリを見せて、男性が韓国語で話しかける。

「일본에서 오신 하쿠주 식품 분이시죠?
(日本から来た白樹食品の方ですよね?)」

画面には。

《日本から来た白樹食品の方ですか?》

「あ!」

これなら。

分かる。

私は笑って頷いた。

「はい。白樹アカリです」

私も翻訳アプリへ話す。

機械音声が韓国語を読み上げる。

男性が笑顔で頷いた。

そしてまた韓国語を話し、画面を私に見せる。

《本部長が日本へ行った時、工場を案内してくれた方ですよね?》

「そうです」

私が答える。

すると、男性が。

《本部長から聞きました。》

「……え?」

スヒョンから?

男性は続ける。

《日本の工場は、とてもよく管理されていたと言っていました。》

「……」

私は少しだけ驚いた。

あの人、そんなこと私には一言も言ってなかったけど。

「ありがとうございます」

私が答える。

男性は私の隣を指差した。

《座ってもいいですか?》

「あ、もちろん」

私は少し横へずれ、男性が隣へ座った。

そして、少し楽しそうに、またスマホへ話す。

《本部長、怖くないですか?》

「……」

思わず、ふふっと笑ってしまった。

怖い?…というより。

私は少し考えてスマホへ。

「怖いというより……ちょっと感じが悪いです」

韓国語へ変換され、男性が一瞬、ぽかんとする。

そして。

「하하하하!
(はははは!)」

大笑いした。

言いすぎた?

でも男性は何度も頷く。



《そうです。昔からああいう人です。》

「……」

やっぱり昔からなんだ。

男性が続ける。



《でも、とても良い本部長です。》

「……」

良い本部長?ふうん。


そして。



《私たちは、本部長にとても感謝しています。》

「どうしてですか?」

私が聞く。

男性は少し考えた。

さっきまでの笑顔が少しだけ消える。

そして工場の方を見ながら、ゆっくり話し始めた。


《数年前、会社が本当に大変だった時期がありました。

その前から商品が徐々に売れなくなっていました。

特に若い世代からは、古い会社というイメージを持たれていました。》

画面に翻訳が映し出される。

「……」

今のハンウ食品からは、ちょっと想像できない。

男性は続ける。

画面を見せてくれる。

《商品の表示を巡る問題が起き、SNSで大炎上しました。事実ではない情報まで広がり、会社への批判が一気に大きくなりました。》

「……」

大炎上。しかも。

《株価も大きく下落しました。》



株価まで。

事前調査で株価が大きく下がったのは知ってたけど、やっぱり相当大きな問題だったんだ。

《工場では、大幅な売り上げの減少と生産ラインのストップで、ここが閉鎖されるのではないかという噂までありました。》



私は目の前を行き交う社員たちを見る。

会社にとっては、それは経営判断。

でもここで働く人からすれば、生活がかかっている。

男性が自分を指差す。

《当時、私の子どもは大学生でした。ここで働けなくなったら家族をどうすればいいのか、とても不安でした。》

「……」

私は何も言えなくなる。

そして男性が静かに続ける。


《その時、会社をすごいスピードで立て直したのがハン本部長です。》

顔を上げる。

男性が大きく頷いた。

「그때는 지금보다 훨씬 젊었습니다.
(当時は今よりずっと若かったです。)」

「그래서 반대하는 사람도 많았습니다.
(だから、反対する人も多かったです。)」

そして。

「회장 아들이니까 저 자리에 있는 거다.
(会長の息子だから、あの地位にいるんだ。)」

「아버지 힘으로 올라온 사람이다.
(父親の力で上まで来た人間だ。)」

「그런 말을 하는 사람이 정말 많았습니다.
(そういうことを言う人が、本当に多かったです。)」

男性は画面を見せる。

「……」

その言葉が胸の奥に、妙に引っかかった。

会長の息子。親の力。七光り。


私だって。社長の娘だから。

何度その言葉を向けられてきたか分からない。

男性はまた画面を見せる。

《でも、本部長は何も言い返さず、代わりに結果を出しました。》

「……」

結果。

売れなくなった商品を整理し、若い世代向けの商品を増やす。

流通を見直し、海外事業を再編する。

そして炎上した問題については。

《会社に非がある部分は認め、事実ではない情報にはデータを示して反論しました。

会見の様子は誠意そのものでした。

結果、ハンウは問題となったロングセラー商品を終売すると、本部長は発表したのです》

男性が少し苦笑する。

「저도 처음에는 반대했습니다.
(私も最初は反対しました。)」

「오랫동안 만들던 제품을 없앤다고 했을 때는 화가 났습니다.
(長年作ってきた商品を終売にすると聞いた時は、腹が立ちました。)」

「……」

そこはやっぱり、私とは違う。

彼は昔からの商品を切った。

私なら…悩んでも決められない。

でも男性は次の言葉を続ける。

画面。

《会社はいくつかの工場を閉鎖する案を検討していました。

でも本部長が反対し、設備を更新して生産する商品を変え、新しい商品を生産することで工場を残しました。》

「……」

私はもう一度工場を見る。

たくさんの人が、今もここで働いている。

「결국 생산량은 예전보다 늘었습니다.
(結果的に、生産量は以前より増えました。)」

「매출도 회복됐고 주가도 다시 올랐습니다.
(売上も回復し、株価も戻りました。)」

そして。

男性が。

少し誇らしそうに笑った。

《今では、会長の息子だから本部長になったと言う人はほとんどいません。

彼は結果で証明しましたから。》

「……」

結果で証明した。

その言葉で、少しだけチクっと胸が痛む。

何をしても親の名前が、先について回る。

なら、言わせないくらい結果を出す。

……。

私は、少しだけ彼の気持ちがわかってしまった。

「한 본부장님은 정말 엄격합니다.
(ハン本部長は本当に厳しいです。)」

男性が言う。

「정말요.
(本当に。)」

二回言った。

私は思わず笑った。

「それは分かります」

翻訳アプリへ話す。

男性もそれを見て、声を出して笑う。

でもそのあと、穏やかな顔になった。

画面。

《私たちにも家族がいて、生活があります。
本部長は、それを守ってくれました。》

「……」

私はその文章をしばらく見つめていた。

ハン・スヒョン。

感じが悪くて、頑固。

口を開けばいちいち腹が立つ。

でも私が思っていたより。

ずっと、会社を背負ってきた人なのかもしれない。




「何をしているんですか」

「わっ!」

突然頭の上から日本語が降ってきた。

慌てて顔を上げるとスヒョンが。

「いつ戻ってきたんですか」

「今です」

男性社員もスヒョンに気付いて立ち上がった。

「본부장님, 오셨습니까?
(本部長、戻られましたか?)」

「네.
(ええ。)」

男性が何やら笑顔で話す。

「아카리 씨와 잠깐 이야기했습니다.
(アカリさんと少しお話ししていました。)」

スヒョンが私を見る。

そして男性を見る。

「무슨 이야기를 하셨습니까?
(何の話をしたんですか?)」

男性は笑って。

「옛날 이야기요.
(昔の話です。)」

「……」

スヒョンの顔が少しだけ曇った。

「그만하시고 일하러 가세요.
(もういいので、仕事に戻ってください。)」

「알겠습니다.
(分かりました。)」

男性は笑いながら私へ軽く手を振る。

私も手を振り返した。

「ありがとうございました!」

日本語だけど。

なんとなく伝わった気がした。

男性が去る。

スヒョンが私を見る。

「何を話していたんですか?」

「色々」

「色々とは?」

私は少しだけ意地悪く笑う。

「秘密です」

「……」

スヒョンの眉が。

ほんの少し動く。

「私のことですか?」

「さぁ?」

私は立ち上がる。

「続きをお願いします」

スヒョンは少し怪訝そうに私を見る。

でもそれ以上聞いてこなかった。

「……行きましょう」

「はい」

再び工場見学が始まる。

スヒョンは何事もなかったように、また淡々と品質管理、物流、生産管理。

それぞれの部署を案内していった。

社員から韓国語で説明が入れば。

「이 제품은 다음 달부터 생산량을 늘릴 예정입니다.
(この商品は来月から生産量を増やす予定です。)」

「この商品は、来月から生産数を増やすそうです」

と。

私に訳してくれる。

さっきまでと何も変わらない。

でも私の方が、ほんの少し変わってしまった。

会長の息子。御曹司。

その肩書きの向こうで。

一人で大きな会社の危機と向き合って。

結果を出した人。

それを知ってしまったから。

……。

少しだけ。ほんの少しだけ、見直してやってもいいかな。

もちろん本人には言わないけど。

一通り見学を終え、工場を出た頃には外はすっかり夕方になっていた。

「疲れました?」

駐車場へ向かいながらスヒョンが聞く。

「少し。でも面白かったです」

「そうですか」

「白樹とは結構違いました」

「どこが?」

「設備もそうですけど。生産効率とか、ラインの作り方とか」

私は歩きながら続ける。

「同じ即席麺でも、こんなに違うんですね」

「会社ごとに強みが違いますから」

「それが今回のプロジェクトに使えたら面白いかも」

そう言うと、スヒョンが一瞬だけこちらを見る。

「何ですか」

「いえ」

「何?」

「少しは考え方が変わりましたか?」

「……」

ほら。

やっぱり腹立つ。

どうせ、私に『俺が言った通りだろ』くらい言いたいんでしょ。

「変わってません」

「そうですか」

「参考にはなっただけです」

「それを変わったと言うのでは?」

「言いません」

「……」

また喧嘩が始まりそう。

私は先に車へ乗り込んだ。

「もう帰りましょう」

「そうですね」

工場からホテルへ向かう車内。

帰りは行きよりも自然と仕事の話が続いた。

「包装のシュリンクまでの工程、かなり自動化されてましたよね」

「去年、大規模に設備を入れ替えました」

「検品も、次の工程へ移る社内の商品流通も速かった」

「その代わり、人の目で確認する工程は白樹の方が多い」

私は少し驚いて横を見る。

「そこまで見てたんですね」

「視察に行ったので」

「いや、そうだけど」

……。

細かい。やっぱりちゃんと見てる。

ふと。さっき聞いた話を思い出す。

設備を変えて、新商品を生産させることで工場を残した。

……この人が。

「何ですか」

「え?」

「さっきからこちらを見ていますが」

「……!」

私はすぐ前を見る。

「見てません」

「見ていました」

「気のせいです」

「そうですか」

それ以上聞かれない。

……。

なんか妙に気まずい。

しばらくしてホテルが見えてくる。

車がエントランス前に停まった。

「到着しました」

「ありがとうございます」

私はシートベルトを外す。

そのままドアを開けようとして。

「あ」

思い出す。

…夕飯。

「スヒョンさん」

「はい?」

「この辺って、美味しいお店あります?」

私はスマホを取り出す。

「せっかく韓国に来たし、観光客向けじゃないところ行きたくて」

「肉は?」

「好きです」

「それなら、この近くに一軒あります」

「美味しい?」

「私は好きです」

「じゃあそこ行こうかな。教えてください」

即決すると、スヒョンが少しだけ間を置いた。

「一人で行くんですか?」

「そのつもりですけど」

「一人では少し入りにくい店です」

「……ええ?…じゃあ」

私は少し考えて。

「一緒に来ます?」

「…私が?」

「だってその店一人じゃ入りにくいんでしょ?」

スヒョンが私を見る。

「別に、嫌ならいいですけど」

そう言うとほんの一瞬、間があった。

そして…

「……行きます」

「え」

まさか、本当に来ると思わなかった。

「…本当に来るんですか?」

「紹介したのはこちらなので。

思えば、間違いなく日本語は通じない店ですし」


そう言ってスヒョンはホテルの駐車場で、一度切った車のエンジンを再度かけた。

…冗談で一緒に行くか聞いてみただけだったけど。

本当に来るなんて。

ちょっと意外で、私は面白くなって続けた。

「私、味には厳しいですよ」

「好きに評価してください」

その言い方に、なんとなく負けたくなくなる。

「じゃあ、美味しくなかったら文句言いますからね」

スヒョンがほんの少しだけ。

口元を上げた。

「望むところです」

「……」

私は外しかけていたシートベルトを。

カチッ。

もう一度締めた。

こうして、韓国出張初日の夜。

私は思いがけず、ハン・スヒョンと二人で夕食へ行くことになった。