そして今日。
私は二十一年間暮らした鷹宮家を出る。
玄関には、大きなスーツケースが置かれていた。
その横で、佐知子さんが待っている。
「綾乃お嬢様」
呼ばれて振り返る。
佐知子さんは笑っていた。
けれど、その目は少し潤んでいる。
「どうか、お元気で」
「そんな顔しないでよ」
思わず笑うと、佐知子さんも困ったように微笑んだ。
「そうでございますね」
「うん。留学なんだから」
自分で口にしながら、少しだけ違和感が残る。
本当に、ただの留学なのだろうか。
けれど、今考えたところで答えは出ない。
私は靴を履き、スーツケースの持ち手へ手を掛けた。
ふと振り返る。
二十一年間暮らしてきた家。
苦しいことばかりだったわけではない。
嬉しかったこともあった。
大切な思い出だってある。
それなのに――
不思議と寂しさよりも、胸の奥に広がっているのは安堵だった。
ここを出られる。
そう思っている自分に気づき、少しだけ驚いた。
「行ってきます、佐知子さん」
「はい」
佐知子さんは、いつものように深く頭を下げた。
「いってらっしゃいませ、綾乃お嬢様」
玄関の扉を開ける。
柔らかな春の風が、頬を撫でた。
その向こうには、眩しいほどの青空が広がっている。
これから何が待っているのか。
なぜお父様が、私をこれほど急いで日本から遠ざけようとしているのか。
カリフォルニアで待つ実の母と再会した先に、どんな未来があるのか。
この時の私には、まだ何も分からなかった。
ただ一つ。
今日、この扉を出た瞬間から――
私の人生が、それまでとはまったく違う方向へ動き始める。
そんな予感だけがあった。
それが――
父・鷹宮宏輝から娘である私へ下された、
最初の逃亡命令だった。
