涙は出なかった。
でも。
胸の奥に。
何かがじわりと広がった。
遼河さんの手は。
しばらく。
離れなかった。
大学病院へ到着した。
案内されたのは。
一般外来とは別の入口だった。
建物の裏手に近い。
人の出入りが少ない別棟。
受付には。
すでに話が通っていた。
名前を告げるだけで。
そのまま上階へ案内される。
そこまで徹底されていることに。
また。
胸がざわついた。
本当に。
隠している。
早紀子さんにも。
蘭にも。
外部にも。
お父様が。
ここにいることを。
エレベーターへ乗る。
扉が閉じる。
数字が。
一つずつ上がっていく。
いつもなら。
ただの階数表示。
なのに。
今日は。
一つ増えるたび。
お父様へ近づいている気がした。
バッグの持ち手を握る指に。
力が入る。
隣の遼河さんは。
何も言わなかった。
大丈夫とも。
心配するなとも。
言わない。
それが。
今は。
ありがたかった。
大丈夫じゃない可能性があることを。
きっと。
遼河さんも分かっている。
だから。
安易な慰めを言わない。
扉が開いた。
消毒薬の匂い。
静かな廊下。
遠くから聞こえる、ワゴンの車輪の音。
白い壁。
白い床。
その先に。
志水さんが立っていた。
「綾乃お嬢様」
一年前より。
疲れた顔に見えた。
いや。
今まで。
私が見ようとしていなかっただけなのかもしれない。
「志水さん」
歩み寄る。
「お父様は?」
自分でも驚くほど。
声が小さかった。
「こちらでございます」
志水さんが。
遼河さんへ頭を下げる。
「藤和CEO。急なお願いを申し訳ございません」
「構いません」
短い返事。
そのやり取りさえ。
今は気になった。
遼河さんが。
ここへ来ることを。
当然のように受け入れている。
志水さんも。
それを当然のように頼んだ。
私の知らないところで。
いったい何が。
病室の前まで来たところで、私は足を止めた。
扉は、ほんの数歩先にある。
開ければ、お父様がいる。
電話を受けてからずっと、一刻も早く顔を見なければと思っていたはずなのに。
いざそこまで来ると、その扉を開けることが怖くなった。
一年前。
羽田空港で五年ぶりに再会した父の姿が脳裏に浮かぶ。
昔より痩せていた頬。
どこか冴えなかった顔色。
あの時、確かに違和感を覚えたのに。
私は、それ以上聞かなかった。
帰国してからも、以前より会えない日が増えていた。
出張だから。
仕事が忙しいから。
鷹宮グループの代表なのだから、それくらい当たり前なのだと、自分で納得していた。
けれど。
それが全部、違っていたのだとしたら。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
どうして言ってくれなかったの、と責めたい。
どうしてまた私だけ何も知らされなかったの、と怒りたい。
それなのに。
病室の扉を前にした今。
そんな気持ちよりも強く胸を占めているものがあった。
――生きていて。
ただ、それだけだった。
何を隠していたのかも。
どうして早紀子さんたちにまで秘密にしているのかも。
あとで聞けばいい。
扉を開けた先で、お父様が私の名前を呼んでくれれば。
今は、それでいい。
「綾乃お嬢様」
志水さんの声に、ゆっくり顔を上げる。
「旦那様は、以前から病を患っておられました」
覚悟していた言葉だった。
電話を切った時には、もう分かっていたはずだった。
それなのに。
はっきりと言葉にされた瞬間、胸の奥へ重いものが沈んでいく。
「……一年前には、もう?」
どうにかそれだけ聞くと。
志水さんは、わずかに目を伏せた。
答えは、それで十分だった。
やっぱり。
羽田で見たあの顔色も。
以前より痩せていたことも。
私が会おうとしても都合がつかないことが増えていたのも。
全部。
何かの兆候だった。
「詳しいことは、旦那様ご本人から――」
そこまで言いかけた志水さんが、ふと口を閉じた。
これまでなら。
きっと、そこで終わっていた。
旦那様からお聞きください。
今はまだ。
いずれ。
何度も聞いてきた言葉。
けれど今度は。
志水さん自身がそれを否定するように、ゆっくり首を横へ振った。
「……いいえ。今日こそは、すべてお聞きになってください」
でも。
胸の奥に。
何かがじわりと広がった。
遼河さんの手は。
しばらく。
離れなかった。
大学病院へ到着した。
案内されたのは。
一般外来とは別の入口だった。
建物の裏手に近い。
人の出入りが少ない別棟。
受付には。
すでに話が通っていた。
名前を告げるだけで。
そのまま上階へ案内される。
そこまで徹底されていることに。
また。
胸がざわついた。
本当に。
隠している。
早紀子さんにも。
蘭にも。
外部にも。
お父様が。
ここにいることを。
エレベーターへ乗る。
扉が閉じる。
数字が。
一つずつ上がっていく。
いつもなら。
ただの階数表示。
なのに。
今日は。
一つ増えるたび。
お父様へ近づいている気がした。
バッグの持ち手を握る指に。
力が入る。
隣の遼河さんは。
何も言わなかった。
大丈夫とも。
心配するなとも。
言わない。
それが。
今は。
ありがたかった。
大丈夫じゃない可能性があることを。
きっと。
遼河さんも分かっている。
だから。
安易な慰めを言わない。
扉が開いた。
消毒薬の匂い。
静かな廊下。
遠くから聞こえる、ワゴンの車輪の音。
白い壁。
白い床。
その先に。
志水さんが立っていた。
「綾乃お嬢様」
一年前より。
疲れた顔に見えた。
いや。
今まで。
私が見ようとしていなかっただけなのかもしれない。
「志水さん」
歩み寄る。
「お父様は?」
自分でも驚くほど。
声が小さかった。
「こちらでございます」
志水さんが。
遼河さんへ頭を下げる。
「藤和CEO。急なお願いを申し訳ございません」
「構いません」
短い返事。
そのやり取りさえ。
今は気になった。
遼河さんが。
ここへ来ることを。
当然のように受け入れている。
志水さんも。
それを当然のように頼んだ。
私の知らないところで。
いったい何が。
病室の前まで来たところで、私は足を止めた。
扉は、ほんの数歩先にある。
開ければ、お父様がいる。
電話を受けてからずっと、一刻も早く顔を見なければと思っていたはずなのに。
いざそこまで来ると、その扉を開けることが怖くなった。
一年前。
羽田空港で五年ぶりに再会した父の姿が脳裏に浮かぶ。
昔より痩せていた頬。
どこか冴えなかった顔色。
あの時、確かに違和感を覚えたのに。
私は、それ以上聞かなかった。
帰国してからも、以前より会えない日が増えていた。
出張だから。
仕事が忙しいから。
鷹宮グループの代表なのだから、それくらい当たり前なのだと、自分で納得していた。
けれど。
それが全部、違っていたのだとしたら。
胸の奥が、ひどく痛んだ。
どうして言ってくれなかったの、と責めたい。
どうしてまた私だけ何も知らされなかったの、と怒りたい。
それなのに。
病室の扉を前にした今。
そんな気持ちよりも強く胸を占めているものがあった。
――生きていて。
ただ、それだけだった。
何を隠していたのかも。
どうして早紀子さんたちにまで秘密にしているのかも。
あとで聞けばいい。
扉を開けた先で、お父様が私の名前を呼んでくれれば。
今は、それでいい。
「綾乃お嬢様」
志水さんの声に、ゆっくり顔を上げる。
「旦那様は、以前から病を患っておられました」
覚悟していた言葉だった。
電話を切った時には、もう分かっていたはずだった。
それなのに。
はっきりと言葉にされた瞬間、胸の奥へ重いものが沈んでいく。
「……一年前には、もう?」
どうにかそれだけ聞くと。
志水さんは、わずかに目を伏せた。
答えは、それで十分だった。
やっぱり。
羽田で見たあの顔色も。
以前より痩せていたことも。
私が会おうとしても都合がつかないことが増えていたのも。
全部。
何かの兆候だった。
「詳しいことは、旦那様ご本人から――」
そこまで言いかけた志水さんが、ふと口を閉じた。
これまでなら。
きっと、そこで終わっていた。
旦那様からお聞きください。
今はまだ。
いずれ。
何度も聞いてきた言葉。
けれど今度は。
志水さん自身がそれを否定するように、ゆっくり首を横へ振った。
「……いいえ。今日こそは、すべてお聞きになってください」
