『十五年越しの願いは、歪んだ家族に砕かれて――身ごもり秘書は幼馴染CEOの重すぎる執着愛から逃げられない』

涙は出なかった。

でも。

胸の奥に。

何かがじわりと広がった。

遼河さんの手は。

しばらく。

離れなかった。

大学病院へ到着した。

案内されたのは。

一般外来とは別の入口だった。

建物の裏手に近い。

人の出入りが少ない別棟。

受付には。

すでに話が通っていた。

名前を告げるだけで。

そのまま上階へ案内される。

そこまで徹底されていることに。

また。

胸がざわついた。

本当に。

隠している。

早紀子さんにも。

蘭にも。

外部にも。

お父様が。

ここにいることを。

エレベーターへ乗る。

扉が閉じる。

数字が。

一つずつ上がっていく。

いつもなら。

ただの階数表示。

なのに。

今日は。

一つ増えるたび。

お父様へ近づいている気がした。

バッグの持ち手を握る指に。

力が入る。

隣の遼河さんは。

何も言わなかった。

大丈夫とも。

心配するなとも。

言わない。

それが。

今は。

ありがたかった。

大丈夫じゃない可能性があることを。

きっと。

遼河さんも分かっている。

だから。

安易な慰めを言わない。

扉が開いた。

消毒薬の匂い。

静かな廊下。

遠くから聞こえる、ワゴンの車輪の音。

白い壁。

白い床。

その先に。

志水さんが立っていた。

「綾乃お嬢様」

一年前より。

疲れた顔に見えた。

いや。

今まで。

私が見ようとしていなかっただけなのかもしれない。

「志水さん」

歩み寄る。

「お父様は?」

自分でも驚くほど。

声が小さかった。

「こちらでございます」

志水さんが。

遼河さんへ頭を下げる。

「藤和CEO。急なお願いを申し訳ございません」

「構いません」

短い返事。

そのやり取りさえ。

今は気になった。

遼河さんが。

ここへ来ることを。

当然のように受け入れている。

志水さんも。

それを当然のように頼んだ。

私の知らないところで。

いったい何が。

病室の前まで来たところで、私は足を止めた。

扉は、ほんの数歩先にある。

開ければ、お父様がいる。

電話を受けてからずっと、一刻も早く顔を見なければと思っていたはずなのに。

いざそこまで来ると、その扉を開けることが怖くなった。

一年前。

羽田空港で五年ぶりに再会した父の姿が脳裏に浮かぶ。

昔より痩せていた頬。

どこか冴えなかった顔色。

あの時、確かに違和感を覚えたのに。

私は、それ以上聞かなかった。

帰国してからも、以前より会えない日が増えていた。

出張だから。

仕事が忙しいから。

鷹宮グループの代表なのだから、それくらい当たり前なのだと、自分で納得していた。

けれど。

それが全部、違っていたのだとしたら。

胸の奥が、ひどく痛んだ。

どうして言ってくれなかったの、と責めたい。

どうしてまた私だけ何も知らされなかったの、と怒りたい。

それなのに。

病室の扉を前にした今。

そんな気持ちよりも強く胸を占めているものがあった。

――生きていて。

ただ、それだけだった。

何を隠していたのかも。

どうして早紀子さんたちにまで秘密にしているのかも。

あとで聞けばいい。

扉を開けた先で、お父様が私の名前を呼んでくれれば。

今は、それでいい。

「綾乃お嬢様」

志水さんの声に、ゆっくり顔を上げる。

「旦那様は、以前から病を患っておられました」

覚悟していた言葉だった。

電話を切った時には、もう分かっていたはずだった。

それなのに。

はっきりと言葉にされた瞬間、胸の奥へ重いものが沈んでいく。

「……一年前には、もう?」

どうにかそれだけ聞くと。

志水さんは、わずかに目を伏せた。

答えは、それで十分だった。

やっぱり。

羽田で見たあの顔色も。

以前より痩せていたことも。

私が会おうとしても都合がつかないことが増えていたのも。

全部。

何かの兆候だった。

「詳しいことは、旦那様ご本人から――」

そこまで言いかけた志水さんが、ふと口を閉じた。

これまでなら。

きっと、そこで終わっていた。

旦那様からお聞きください。

今はまだ。

いずれ。

何度も聞いてきた言葉。

けれど今度は。

志水さん自身がそれを否定するように、ゆっくり首を横へ振った。

「……いいえ。今日こそは、すべてお聞きになってください」