『十五年越しの願いは、歪んだ家族に砕かれて――身ごもり秘書は幼馴染CEOの重すぎる執着愛から逃げられない』

「でも」

反射的に執務フロアを振り返る。

「これから会議があるでしょう?」

「ジュリアンに任せる」

「でも、午後の案件は遼河さんが――」

「綾乃」

低い声。

でも。

叱る声ではなかった。

「今のお前が、ここに残って仕事を続けられると思うか」

「……」

できる。

そう言いたかった。

私は秘書。

仕事は仕事。

一年前から。

ずっとそうしてきた。

でも。

デスクへ戻って。

資料を開いて。

数字を追って。

会議へ出て。

いつものように遼河さんの横で仕事ができるか。

想像しただけで。

無理だと分かった。

「……ごめんなさい」

「謝るな」

即座に返された。

「家族が倒れたんだ」

その言葉に。

胸が締めつけられた。

家族。

私は。

お父様のことを。

許しているわけではない。

子どもの頃。

何も見てくれなかったこと。

助けてくれなかったこと。

今でも。

心のどこかに残っている。

でも。

だからといって。

嫌いだったわけじゃない。

捨てたい父親だったわけでもない。

だから。

怖い。

失うのが。

怖い。

「バッグを取ってこい。車を回す」

「私、自分で運転できます」

反射的に答える。

遼河さんは何も言わず。

私の手を見た。

つられて視線を落とす。

携帯を握っている指先が。

わずかに震えていた。

そこで初めて。

自分が震えていることに気づいた。

「その手で?」

何も言えなかった。

「俺が運転する」

いつもの。

拒否を許さない言い方。

なのに。

今日は。

ありがたかった。

「……お願いします」

「五分で出る」

「はい」

デスクへ戻る。

城之内さんへ。

父が倒れたことだけを伝えた。

もちろん。

病状も。

早紀子さんたちに秘密にしていることも言えない。

「今日の残りの予定ですが――」

「こちらで対応します」

城之内さんが。

私の言葉を静かに遮った。

「マクレガー副社長へも私からお伝えします」

「でも」

「鷹宮さん」

穏やかな声。

「今は、お父様のところへ」

胸が。

また熱くなった。

「……ありがとうございます」

頭を下げ。

バッグを掴む。

一階へ降りると。

遼河さんの車は、すでにエントランス前に停まっていた。

助手席へ乗る。

シートベルトを締める。

車が動き出す。

そこまで。

ほとんど言葉を交わさなかった。

窓の外を。

東京の街が流れていく。

春の街。

歩道を歩く人。

信号待ちの車。

コンビニから出てくる学生。

いつもと変わらない。

何ひとつ。

変わっていない。

なのに。

私の世界だけが。

急に。

別の場所へ切り離されたようだった。

お父様が倒れた。

何度も。

頭の中で繰り返す。

それでも。

現実味がない。

病院へ着いて。

顔を見るまでは。

どこかで。

間違いであってほしいと思っている。

「……遼河さん」

しばらくして。

ようやく声を出した。

「ああ」

「志水さんが」

一度。

息を吸う。

「一人で来るなって言ったの」

遼河さんは前を見たまま。

何も言わない。

「できれば……遼河さんと一緒に来てほしいって」

ハンドルを握る手に。

わずかに力が入った。

「どうして?」

返事がない。

「遼河さん」

「病院へ着いてから話す」

その言葉で。

胸の奥に溜まっていたものが。

一気に込み上げた。

「あなたも知ってるの?」

自分でも驚くほど。

強い声が出た。

赤信号。

車が静かに停止する。

遼河さんが。

ゆっくり私を見る。

「全部ではない」

一瞬。

何を言われたのか分からなかった。

「……全部ではない?」

それは。

つまり。

「何かは知ってるのね」

「ああ」

胸の奥が。

痛んだ。

また。

私だけ。

「……また私だけ?」

今度は。

怒鳴ることもできなかった。

ただ。

悲しかった。

「綾乃」

「六年近く前もそうだった」

止めるつもりだった。

遼河さんを責めても仕方がない。

分かっている。

でも。

止まらなかった。

「突然、カリフォルニアへ行けって言われて」

窓の外へ視線を向ける。

「理由もちゃんと教えてくれなくて。何を聞いても、いずれ分かるって」

指先を握り締める。

「一年前に帰ってきた時もそう」

あの日の。

痩せた父の顔が。

また蘇る。

「気づいてたのよ」

声が小さくなる。

「お父様が痩せてたことも。顔色が悪かったことも」

喉が詰まる。

「でも……何も言わないでって顔されたから」

隣を見ることができなかった。

「私、聞かなかった」

今になって。

後悔が押し寄せる。

「もっとちゃんと聞けばよかった」

「綾乃」

「もし……」

そこで。

言葉が止まった。

怖くて。

言えない。

もし。

もっと早く知っていたら。

何かできた?

もし。

間に合わなかったら。

「……今度は病気まで」

声が掠れる。

「ずっと悪かったのに、私だけ知らなかった」

目の奥が熱くなった。

「どうして」

一度。

息を吸う。

「どうして誰も、私には何も教えてくれないの」

静かな車内に。

自分の声だけが残った。

返事は。

すぐにはなかった。

やがて。

膝の上で握り締めていた手に。

温かなものが触れた。

遼河さんの手だった。

大きな手が。

私の拳を包む。

無理に開こうとはしない。

ただ。

そこに重なっている。

顔を上げる。

遼河さんは。

前を向いたままだった。

「宏輝さんが、お前に話さなかった理由を」

静かな声。

「俺が勝手に話すことはできない」

「……」

「俺が知っていることも、全部じゃない」

指先に。

少し力が入る。

「ただ」

遼河さんが。

わずかにこちらを見る。

「今日は逃げずに聞け」

胸が鳴った。

「宏輝さんにも、全部話させろ」

「……全部?」

「ああ」

その言葉が。

怖かった。

全部。

私が知らなかったこと。

知りたかったこと。

でも。

本当は。

知るのが怖かったこと。

「もう」

遼河さんの声が。

静かに落ちる。

「お前だけが何も知らないままでいる必要はない」