「でも」
反射的に執務フロアを振り返る。
「これから会議があるでしょう?」
「ジュリアンに任せる」
「でも、午後の案件は遼河さんが――」
「綾乃」
低い声。
でも。
叱る声ではなかった。
「今のお前が、ここに残って仕事を続けられると思うか」
「……」
できる。
そう言いたかった。
私は秘書。
仕事は仕事。
一年前から。
ずっとそうしてきた。
でも。
デスクへ戻って。
資料を開いて。
数字を追って。
会議へ出て。
いつものように遼河さんの横で仕事ができるか。
想像しただけで。
無理だと分かった。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
即座に返された。
「家族が倒れたんだ」
その言葉に。
胸が締めつけられた。
家族。
私は。
お父様のことを。
許しているわけではない。
子どもの頃。
何も見てくれなかったこと。
助けてくれなかったこと。
今でも。
心のどこかに残っている。
でも。
だからといって。
嫌いだったわけじゃない。
捨てたい父親だったわけでもない。
だから。
怖い。
失うのが。
怖い。
「バッグを取ってこい。車を回す」
「私、自分で運転できます」
反射的に答える。
遼河さんは何も言わず。
私の手を見た。
つられて視線を落とす。
携帯を握っている指先が。
わずかに震えていた。
そこで初めて。
自分が震えていることに気づいた。
「その手で?」
何も言えなかった。
「俺が運転する」
いつもの。
拒否を許さない言い方。
なのに。
今日は。
ありがたかった。
「……お願いします」
「五分で出る」
「はい」
デスクへ戻る。
城之内さんへ。
父が倒れたことだけを伝えた。
もちろん。
病状も。
早紀子さんたちに秘密にしていることも言えない。
「今日の残りの予定ですが――」
「こちらで対応します」
城之内さんが。
私の言葉を静かに遮った。
「マクレガー副社長へも私からお伝えします」
「でも」
「鷹宮さん」
穏やかな声。
「今は、お父様のところへ」
胸が。
また熱くなった。
「……ありがとうございます」
頭を下げ。
バッグを掴む。
一階へ降りると。
遼河さんの車は、すでにエントランス前に停まっていた。
助手席へ乗る。
シートベルトを締める。
車が動き出す。
そこまで。
ほとんど言葉を交わさなかった。
窓の外を。
東京の街が流れていく。
春の街。
歩道を歩く人。
信号待ちの車。
コンビニから出てくる学生。
いつもと変わらない。
何ひとつ。
変わっていない。
なのに。
私の世界だけが。
急に。
別の場所へ切り離されたようだった。
お父様が倒れた。
何度も。
頭の中で繰り返す。
それでも。
現実味がない。
病院へ着いて。
顔を見るまでは。
どこかで。
間違いであってほしいと思っている。
「……遼河さん」
しばらくして。
ようやく声を出した。
「ああ」
「志水さんが」
一度。
息を吸う。
「一人で来るなって言ったの」
遼河さんは前を見たまま。
何も言わない。
「できれば……遼河さんと一緒に来てほしいって」
ハンドルを握る手に。
わずかに力が入った。
「どうして?」
返事がない。
「遼河さん」
「病院へ着いてから話す」
その言葉で。
胸の奥に溜まっていたものが。
一気に込み上げた。
「あなたも知ってるの?」
自分でも驚くほど。
強い声が出た。
赤信号。
車が静かに停止する。
遼河さんが。
ゆっくり私を見る。
「全部ではない」
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
「……全部ではない?」
それは。
つまり。
「何かは知ってるのね」
「ああ」
胸の奥が。
痛んだ。
また。
私だけ。
「……また私だけ?」
今度は。
怒鳴ることもできなかった。
ただ。
悲しかった。
「綾乃」
「六年近く前もそうだった」
止めるつもりだった。
遼河さんを責めても仕方がない。
分かっている。
でも。
止まらなかった。
「突然、カリフォルニアへ行けって言われて」
窓の外へ視線を向ける。
「理由もちゃんと教えてくれなくて。何を聞いても、いずれ分かるって」
指先を握り締める。
「一年前に帰ってきた時もそう」
あの日の。
痩せた父の顔が。
また蘇る。
「気づいてたのよ」
声が小さくなる。
「お父様が痩せてたことも。顔色が悪かったことも」
喉が詰まる。
「でも……何も言わないでって顔されたから」
隣を見ることができなかった。
「私、聞かなかった」
今になって。
後悔が押し寄せる。
「もっとちゃんと聞けばよかった」
「綾乃」
「もし……」
そこで。
言葉が止まった。
怖くて。
言えない。
もし。
もっと早く知っていたら。
何かできた?
もし。
間に合わなかったら。
「……今度は病気まで」
声が掠れる。
「ずっと悪かったのに、私だけ知らなかった」
目の奥が熱くなった。
「どうして」
一度。
息を吸う。
「どうして誰も、私には何も教えてくれないの」
静かな車内に。
自分の声だけが残った。
返事は。
すぐにはなかった。
やがて。
膝の上で握り締めていた手に。
温かなものが触れた。
遼河さんの手だった。
大きな手が。
私の拳を包む。
無理に開こうとはしない。
ただ。
そこに重なっている。
顔を上げる。
遼河さんは。
前を向いたままだった。
「宏輝さんが、お前に話さなかった理由を」
静かな声。
「俺が勝手に話すことはできない」
「……」
「俺が知っていることも、全部じゃない」
指先に。
少し力が入る。
「ただ」
遼河さんが。
わずかにこちらを見る。
「今日は逃げずに聞け」
胸が鳴った。
「宏輝さんにも、全部話させろ」
「……全部?」
「ああ」
その言葉が。
怖かった。
全部。
私が知らなかったこと。
知りたかったこと。
でも。
本当は。
知るのが怖かったこと。
「もう」
遼河さんの声が。
静かに落ちる。
「お前だけが何も知らないままでいる必要はない」
反射的に執務フロアを振り返る。
「これから会議があるでしょう?」
「ジュリアンに任せる」
「でも、午後の案件は遼河さんが――」
「綾乃」
低い声。
でも。
叱る声ではなかった。
「今のお前が、ここに残って仕事を続けられると思うか」
「……」
できる。
そう言いたかった。
私は秘書。
仕事は仕事。
一年前から。
ずっとそうしてきた。
でも。
デスクへ戻って。
資料を開いて。
数字を追って。
会議へ出て。
いつものように遼河さんの横で仕事ができるか。
想像しただけで。
無理だと分かった。
「……ごめんなさい」
「謝るな」
即座に返された。
「家族が倒れたんだ」
その言葉に。
胸が締めつけられた。
家族。
私は。
お父様のことを。
許しているわけではない。
子どもの頃。
何も見てくれなかったこと。
助けてくれなかったこと。
今でも。
心のどこかに残っている。
でも。
だからといって。
嫌いだったわけじゃない。
捨てたい父親だったわけでもない。
だから。
怖い。
失うのが。
怖い。
「バッグを取ってこい。車を回す」
「私、自分で運転できます」
反射的に答える。
遼河さんは何も言わず。
私の手を見た。
つられて視線を落とす。
携帯を握っている指先が。
わずかに震えていた。
そこで初めて。
自分が震えていることに気づいた。
「その手で?」
何も言えなかった。
「俺が運転する」
いつもの。
拒否を許さない言い方。
なのに。
今日は。
ありがたかった。
「……お願いします」
「五分で出る」
「はい」
デスクへ戻る。
城之内さんへ。
父が倒れたことだけを伝えた。
もちろん。
病状も。
早紀子さんたちに秘密にしていることも言えない。
「今日の残りの予定ですが――」
「こちらで対応します」
城之内さんが。
私の言葉を静かに遮った。
「マクレガー副社長へも私からお伝えします」
「でも」
「鷹宮さん」
穏やかな声。
「今は、お父様のところへ」
胸が。
また熱くなった。
「……ありがとうございます」
頭を下げ。
バッグを掴む。
一階へ降りると。
遼河さんの車は、すでにエントランス前に停まっていた。
助手席へ乗る。
シートベルトを締める。
車が動き出す。
そこまで。
ほとんど言葉を交わさなかった。
窓の外を。
東京の街が流れていく。
春の街。
歩道を歩く人。
信号待ちの車。
コンビニから出てくる学生。
いつもと変わらない。
何ひとつ。
変わっていない。
なのに。
私の世界だけが。
急に。
別の場所へ切り離されたようだった。
お父様が倒れた。
何度も。
頭の中で繰り返す。
それでも。
現実味がない。
病院へ着いて。
顔を見るまでは。
どこかで。
間違いであってほしいと思っている。
「……遼河さん」
しばらくして。
ようやく声を出した。
「ああ」
「志水さんが」
一度。
息を吸う。
「一人で来るなって言ったの」
遼河さんは前を見たまま。
何も言わない。
「できれば……遼河さんと一緒に来てほしいって」
ハンドルを握る手に。
わずかに力が入った。
「どうして?」
返事がない。
「遼河さん」
「病院へ着いてから話す」
その言葉で。
胸の奥に溜まっていたものが。
一気に込み上げた。
「あなたも知ってるの?」
自分でも驚くほど。
強い声が出た。
赤信号。
車が静かに停止する。
遼河さんが。
ゆっくり私を見る。
「全部ではない」
一瞬。
何を言われたのか分からなかった。
「……全部ではない?」
それは。
つまり。
「何かは知ってるのね」
「ああ」
胸の奥が。
痛んだ。
また。
私だけ。
「……また私だけ?」
今度は。
怒鳴ることもできなかった。
ただ。
悲しかった。
「綾乃」
「六年近く前もそうだった」
止めるつもりだった。
遼河さんを責めても仕方がない。
分かっている。
でも。
止まらなかった。
「突然、カリフォルニアへ行けって言われて」
窓の外へ視線を向ける。
「理由もちゃんと教えてくれなくて。何を聞いても、いずれ分かるって」
指先を握り締める。
「一年前に帰ってきた時もそう」
あの日の。
痩せた父の顔が。
また蘇る。
「気づいてたのよ」
声が小さくなる。
「お父様が痩せてたことも。顔色が悪かったことも」
喉が詰まる。
「でも……何も言わないでって顔されたから」
隣を見ることができなかった。
「私、聞かなかった」
今になって。
後悔が押し寄せる。
「もっとちゃんと聞けばよかった」
「綾乃」
「もし……」
そこで。
言葉が止まった。
怖くて。
言えない。
もし。
もっと早く知っていたら。
何かできた?
もし。
間に合わなかったら。
「……今度は病気まで」
声が掠れる。
「ずっと悪かったのに、私だけ知らなかった」
目の奥が熱くなった。
「どうして」
一度。
息を吸う。
「どうして誰も、私には何も教えてくれないの」
静かな車内に。
自分の声だけが残った。
返事は。
すぐにはなかった。
やがて。
膝の上で握り締めていた手に。
温かなものが触れた。
遼河さんの手だった。
大きな手が。
私の拳を包む。
無理に開こうとはしない。
ただ。
そこに重なっている。
顔を上げる。
遼河さんは。
前を向いたままだった。
「宏輝さんが、お前に話さなかった理由を」
静かな声。
「俺が勝手に話すことはできない」
「……」
「俺が知っていることも、全部じゃない」
指先に。
少し力が入る。
「ただ」
遼河さんが。
わずかにこちらを見る。
「今日は逃げずに聞け」
胸が鳴った。
「宏輝さんにも、全部話させろ」
「……全部?」
「ああ」
その言葉が。
怖かった。
全部。
私が知らなかったこと。
知りたかったこと。
でも。
本当は。
知るのが怖かったこと。
「もう」
遼河さんの声が。
静かに落ちる。
「お前だけが何も知らないままでいる必要はない」
