「よし」
時計は十時前。
バッグとスマートキーを手に、玄関へ向かう。
「それじゃあ、行ってきます」
「はい。お気をつけて行ってらっしゃいませ」
佐知子さんに見送られ、地下駐車場へ下りる。
指定された番号を探しながら歩いていると。
手にしたスマートキーへ反応するように、一台の車のライトが点滅した。
私は、その場で止まった。
「……何、これ」
パールホワイトのボディ。
大型のSUV。
一目で分かる、国産高級ブランド。
父が昨日言っていた。
通勤用の車を用意した、と。
でも。
私が想像していたのは、もっと普通の車だった。
「ちょっと待って。これ、いくらするのよ……」
誰もいない地下駐車場に、私の声だけが響く。
恐る恐る近づくと、ドアミラーが静かに開いた。
「本当にこれなのね」
運転席へ乗り込む。
上質な革張りのシート。
大型ディスプレイ。
そしてナビには、すでにKSサイエンス本社が登録されていた。
「家は三SLDK。車は高級SUV……」
ハンドルへ手を置き、深く息を吐く。
「お父様、加減って言葉を忘れたのかしら」
カリフォルニアでは、ほとんど毎日運転していた。
ただ。
日本で運転するのは五年ぶり。
「右ハンドル。左側通行」
自分に言い聞かせる。
「大丈夫。日本で免許を取ったんだから」
スタートボタンを押す。
ほとんど音もなく、車が起動した。
ゆっくりと地下駐車場を出る。
「とにかく、ぶつけない」
一番の心配が、新しい仕事ではなく車になっている気がする。
「絶対に、ぶつけない」
それだけは本気だった。
ナビに従い、KSサイエンス本社へ到着した。
地下駐車場の来客用スペースへ車を停め、エンジンを切る。
「……着いた」
思わず、ハンドルへ額を預ける。
会社へ着いただけなのに、妙な達成感がある。
「疲れた……」
まだ何も仕事をしていない。
自分で自分に呆れながらバッグを持ち、エレベーターでエントランスへ上がった。
扉が開いた先には、ガラスと白を基調とした開放的な空間が広がっていた。
正面には受付カウンター。
けれど、人はいない。
「……受付は?」
中央に設置されている大型端末へ近づく。
画面には、柔らかな表情をしたAIアバターが表示されていた。
『KSサイエンスへようこそ。ご来社の目的をお選びください』
「受付までAIなのね」
さすが、世界的AI企業。
画面の案内に従い、名前と訪問目的を入力する。
『鷹宮綾乃様。十一時より、顔合わせミーティングのご予定を確認いたしました』
顔認証が始まり。
数秒後、端末の下からビジターカードが出てきた。
『こちらのカードをお取りください。許可された区域以外への立ち入りはできません』
「徹底してる……」
案内されたエレベーターへ向かい、認証機へカードをかざす。
扉が開く。
乗り込むと、何も押していないのに目的階が表示された。
「へぇ……」
MÉLA VIE ENCA GROUPにも、高度なセキュリティシステムはある。
けれど。
受付から目的階まで、ここまで一貫してAIで管理されているのは初めてだった。
エレベーターが上昇する。
表示される階数を見つめながら、私は小さく息を整えた。
車の緊張は、ここまで。
ここからは仕事。
扉が開く。
