部屋をひととおり見たところで、お父様が口を開く。
「仕事は明日からだったか?」
「正式な出社は明後日。明日は顔合わせだけ」
「ジュリアンから紹介された会社だったな」
「うん。KSサイエンス」
トーマスの甥であるジュリアン・マクレガーから話をもらったのは、日本へ戻ることを決めて間もない頃だった。
CEO付き秘書を探している会社がある。
これまで身につけてきた経験も、十分に活かせるはずだ、と。
紹介されたのは、世界的なAI企業――KSサイエンス。
美容業界とはまったく違う。
けれど、財務も契約も企業交渉も、業界が変われば見えるものはまた違ってくる。
だからこそ、興味が湧いた。
新しい場所で、自分の力がどこまで通用するのか。
試してみたかった。
「明日は十一時から、顔合わせを兼ねたミーティング。正式にはその翌日から勤務です」
「そうか」
お父様は、ただ一言そう答えた。
その横で。
なぜか志水さんが、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。
……何?
二人とも今日は妙に隠し事が多くない?
聞こうとしたところで、お父様が先に口を開いた。
「ああ、志水。あれを綾乃に」
「かしこまりました」
志水さんが鞄から、小さな革張りのケースを取り出す。
「綾乃お嬢様、こちらを」
受け取って開く。
中には一枚のカードと、スマートキーが入っていた。
「こちらはエントランス、エレベーター、お部屋の解錠に必要なセキュリティカードでございます」
「うん」
「そして、こちらが地下駐車場にご用意しております、お車のキーです」
「……車?」
思わず顔を上げる。
「車まで用意したの?」
「カリフォルニアでは、車で通学も通勤もしていたのだろう?」
「そうだけど。ここ、東京よ?」
「だから何だ」
「電車があります」
お父様は、さも当然のように言った。
「五年間まともに満員電車へ乗っていないお前が、帰国早々、毎朝それで通勤するつもりなのか?」
「……」
朝の満員電車を想像する。
人。
人。
人。
カリフォルニアでは、どこへ行くにも車。
日本で免許を取ったとはいえ、あの通勤ラッシュへいきなり戻れるかと言われれば――
「……ありがたく使わせていただきます」
素直にスマートキーを受け取った。
お父様が満足そうに頷く。
それにしても。
家だけでも十分すぎるのに、今度は車。
五年前まで四畳半の倉庫部屋で暮らしていた娘に対して、少々振り幅が大きすぎるのではないだろうか。
「綾乃」
「はい?」
「遠慮する必要はない」
穏やかな声だった。
「これは、もともとお前が受け取るべきものだ」
