翌朝。
目を覚ました瞬間。
昨夜、洗面台の前で見た二本の線が、真っ先に頭へ浮かんだ。
まだ眠気の残る身体を起こし、何となく布団の上からお腹へ手を置く。
当然、昨日までと何も変わらない。
触れたところで、何かが分かるはずもない。
それなのに。
そこに手を置いたまま、しばらく動けなかった。
――ここに、いるかもしれない。
そう思うだけで。
今まで何気なく触れていた自分の身体が、急に大切な何かを抱えているように思えてくる。
「……まず、病院だよね」
声に出すと。
少しだけ頭が整理された。
遼河さんには、まだ何も言っていない。
昨夜は何度もスマートフォンを手に取った。
電話を掛けようとしてやめ。
メッセージを打っては消した。
伝えたくないわけではない。
むしろ。
本当なら、一番に伝えたい。
ただ。
今は検査薬で陽性が出ただけだ。
本当に妊娠しているのか。
順調なのか。
まずは自分の目と耳で、ちゃんと確かめたかった。
幸い。
今日は、もともと仕事が休みだった。
出勤日なら、きっとこうはいかなかっただろう。
突然休むなどと言えば。
遼河さんが「分かった」で済ませるとは、到底思えない。
何があった。
どこが悪い。
病院へ行くのか。
迎えに行く。
おそらく。
そこまで一気に来る。
「……今日が休みで良かった」
苦笑しながら身支度を整え、リビングへ向かった。
扉を開けると。
すぐに違和感に気づいた。
いつもならキッチンから食器の音がしている時間なのに。
今日は妙に静かだった。
「おはようございます、綾乃お嬢様」
「おはよう……」
声のした方へ顔を向けて。
足が止まった。
佐知子さんが、ダイニングテーブルの前に座っていた。
しかも。
妙に姿勢がいい。
そして何より。
顔が神妙だった。
「……何?」
「綾乃お嬢様。こちらへ」
「何、その顔。朝から怖いんだけど」
「いいから、お座りください」
嫌な予感しかしない。
言われるまま向かいへ腰を下ろすと。
佐知子さんはすぐには何も言わず、じっと私の顔を見た。
この顔には覚えがある。
子どもの頃から、何度も見てきた。
何かを隠して。
自分では上手く誤魔化せているつもりなのに。
結局すべて見抜かれてしまった時の顔だ。
「綾乃お嬢様」
「……はい」
「私が気づいていないとでも思いましたか?」
心臓が跳ねた。
それでも反射的に。
「何に?」
と、聞き返してしまった。
佐知子さんの片眉が。
ほんの少し上がる。
――駄目だ。
これは誤魔化せない。
そう悟った直後。
佐知子さんが傍らに置いていたものを手に取った。
「……あ」
妊娠検査薬の箱だった。
昨夜。
洗面所のゴミ箱の奥へ押し込んだはずのもの。
「今朝、洗面所のゴミをまとめた時に見つけました」
「……結構、奥に入れたんだけど」
「詰めが甘いですね」
「最近、そればっかり言われる……」
ぼやくと。
佐知子さんの口元が、ほんの少し緩んだ。
「ですが、この箱を見て初めて気づいたわけではありませんよ」
「え?」
「最近のお嬢様を見ていれば、何となく分かります。コーヒーの香りを避けるようになって、食事の好みも少し変わったでしょう。眠そうになさっていることも増えましたし」
「そんなに分かるもの?」
「長くお世話していれば、それくらいは分かります。それに――」
佐知子さんの表情が、ふっと柔らかくなる。
「私も女性ですし、母ですから。うふふ」
「……何、その笑い」
「何でもありませんよ」
「絶対、何か分かってる顔してる」
「さて、何のことでしょう」
何食わぬ顔で箱をテーブルへ置く佐知子さんに。
私は小さく息を吐いた。
昔から。
この人には敵わない。
少しして。
佐知子さんの表情が、また真面目なものへ戻った。
「聞くべきかどうかは迷いました。お嬢様には、お嬢様のお考えがありますから」
そして。
声を少し落とす。
「まだ、どなたにもお話ししておりません」
私は思わず顔を上げた。
「……遼河さんにも?」
「もちろんです」
迷いのない返事だった。
「これは綾乃お嬢様ご自身がお話しになることです。私が勝手に藤和様へお知らせすることではありません」
「……ありがとう」
自分でも分かるほど。
肩から力が抜けた。
昨日から。
一人で抱えていた。
嬉しいのか。
怖いのか。
これからどうしたいのか。
自分でもまだ答えが出ていないまま。
二本の線だけを見つめていた。
誰かに知られるのが怖かったはずなのに。
佐知子さんに知られた今は。
不思議と少し安心している。
「まだ藤和様には、お話しにならないんですか?」
「話したくないわけじゃないの。昨日分かったばっかりでしょう? まだ検査薬だけだし……」
膝の上で組んだ指へ目を落とす。
「だから、まず病院へ行きたい。本当に妊娠してるのか、ちゃんと診てもらって。それから話す」
目を覚ました瞬間。
昨夜、洗面台の前で見た二本の線が、真っ先に頭へ浮かんだ。
まだ眠気の残る身体を起こし、何となく布団の上からお腹へ手を置く。
当然、昨日までと何も変わらない。
触れたところで、何かが分かるはずもない。
それなのに。
そこに手を置いたまま、しばらく動けなかった。
――ここに、いるかもしれない。
そう思うだけで。
今まで何気なく触れていた自分の身体が、急に大切な何かを抱えているように思えてくる。
「……まず、病院だよね」
声に出すと。
少しだけ頭が整理された。
遼河さんには、まだ何も言っていない。
昨夜は何度もスマートフォンを手に取った。
電話を掛けようとしてやめ。
メッセージを打っては消した。
伝えたくないわけではない。
むしろ。
本当なら、一番に伝えたい。
ただ。
今は検査薬で陽性が出ただけだ。
本当に妊娠しているのか。
順調なのか。
まずは自分の目と耳で、ちゃんと確かめたかった。
幸い。
今日は、もともと仕事が休みだった。
出勤日なら、きっとこうはいかなかっただろう。
突然休むなどと言えば。
遼河さんが「分かった」で済ませるとは、到底思えない。
何があった。
どこが悪い。
病院へ行くのか。
迎えに行く。
おそらく。
そこまで一気に来る。
「……今日が休みで良かった」
苦笑しながら身支度を整え、リビングへ向かった。
扉を開けると。
すぐに違和感に気づいた。
いつもならキッチンから食器の音がしている時間なのに。
今日は妙に静かだった。
「おはようございます、綾乃お嬢様」
「おはよう……」
声のした方へ顔を向けて。
足が止まった。
佐知子さんが、ダイニングテーブルの前に座っていた。
しかも。
妙に姿勢がいい。
そして何より。
顔が神妙だった。
「……何?」
「綾乃お嬢様。こちらへ」
「何、その顔。朝から怖いんだけど」
「いいから、お座りください」
嫌な予感しかしない。
言われるまま向かいへ腰を下ろすと。
佐知子さんはすぐには何も言わず、じっと私の顔を見た。
この顔には覚えがある。
子どもの頃から、何度も見てきた。
何かを隠して。
自分では上手く誤魔化せているつもりなのに。
結局すべて見抜かれてしまった時の顔だ。
「綾乃お嬢様」
「……はい」
「私が気づいていないとでも思いましたか?」
心臓が跳ねた。
それでも反射的に。
「何に?」
と、聞き返してしまった。
佐知子さんの片眉が。
ほんの少し上がる。
――駄目だ。
これは誤魔化せない。
そう悟った直後。
佐知子さんが傍らに置いていたものを手に取った。
「……あ」
妊娠検査薬の箱だった。
昨夜。
洗面所のゴミ箱の奥へ押し込んだはずのもの。
「今朝、洗面所のゴミをまとめた時に見つけました」
「……結構、奥に入れたんだけど」
「詰めが甘いですね」
「最近、そればっかり言われる……」
ぼやくと。
佐知子さんの口元が、ほんの少し緩んだ。
「ですが、この箱を見て初めて気づいたわけではありませんよ」
「え?」
「最近のお嬢様を見ていれば、何となく分かります。コーヒーの香りを避けるようになって、食事の好みも少し変わったでしょう。眠そうになさっていることも増えましたし」
「そんなに分かるもの?」
「長くお世話していれば、それくらいは分かります。それに――」
佐知子さんの表情が、ふっと柔らかくなる。
「私も女性ですし、母ですから。うふふ」
「……何、その笑い」
「何でもありませんよ」
「絶対、何か分かってる顔してる」
「さて、何のことでしょう」
何食わぬ顔で箱をテーブルへ置く佐知子さんに。
私は小さく息を吐いた。
昔から。
この人には敵わない。
少しして。
佐知子さんの表情が、また真面目なものへ戻った。
「聞くべきかどうかは迷いました。お嬢様には、お嬢様のお考えがありますから」
そして。
声を少し落とす。
「まだ、どなたにもお話ししておりません」
私は思わず顔を上げた。
「……遼河さんにも?」
「もちろんです」
迷いのない返事だった。
「これは綾乃お嬢様ご自身がお話しになることです。私が勝手に藤和様へお知らせすることではありません」
「……ありがとう」
自分でも分かるほど。
肩から力が抜けた。
昨日から。
一人で抱えていた。
嬉しいのか。
怖いのか。
これからどうしたいのか。
自分でもまだ答えが出ていないまま。
二本の線だけを見つめていた。
誰かに知られるのが怖かったはずなのに。
佐知子さんに知られた今は。
不思議と少し安心している。
「まだ藤和様には、お話しにならないんですか?」
「話したくないわけじゃないの。昨日分かったばっかりでしょう? まだ検査薬だけだし……」
膝の上で組んだ指へ目を落とす。
「だから、まず病院へ行きたい。本当に妊娠してるのか、ちゃんと診てもらって。それから話す」

