ただ。
ふとした時。
胸のどこかへ。
あの言葉が戻ってくる。
――俺は責任を取る。
遼河さんが。
将来を考えてくれていることは嬉しい。
結婚が嫌なわけでもない。
この人と生きていく未来を。
考えたことがないわけでもない。
むしろ。
考えれば。
幸せだと思う。
それでも。
私が欲しいのは。
“責任”の先にある未来ではなかった。
好きだから。
一緒にいたいから。
この人と生きたいから。
そうやって。
二人で選ぶ未来が欲しかった。
その小さな違いを。
私は。
まだ言葉にはしなかった。
*
一か月ほど経った頃。
最初の違和感は。
本当に些細なものだった。
朝。
いつものように淹れたコーヒー。
香りが広がった瞬間。
なぜか。
鼻についた。
「……今日、豆変えた?」
思わず聞くと。
佐知子さんが不思議そうに振り返った。
「いいえ。いつもと同じですよ」
「そう?」
カップへ顔を近づける。
普段なら好きな香り。
それなのに今日は。
やけに濃く感じる。
「濃く淹れた?」
「いつもと同じですけどねぇ」
「じゃあ、気のせいかな」
その日は。
それだけだった。
数日後。
会食で出された魚料理を一口食べた瞬間。
箸が止まった。
嫌いではない。
むしろ。
好きな料理だった。
焼きたての魚。
添えられた香草。
普段なら食欲をそそる香り。
なのに。
その日は。
匂いが鼻へ届いた瞬間。
胃の奥がむっとした。
「……」
水を一口飲む。
しばらくすると。
治まった。
疲れてるのかな。
そう思った。
仕事も忙しかった。
お父様のこともある。
帰国してから。
環境は大きく変わった。
何より。
遼河さんとの関係が変わった。
生活のリズムも。
少し変わっている。
身体が追いついていないだけ。
そう思った。
さらに一週間ほどすると。
朝。
起きるのが妙に辛くなった。
目覚ましを止めても。
身体が重い。
昼を過ぎる頃には。
どうしようもなく眠くなる。
夕方になると。
お腹は空く。
なのに。
いざ食べようとすると。
思ったほど入らない。
「綾乃」
車の中で。
遼河さんが横目で私を見た。
「最近、疲れてないか」
「大丈夫」
「顔色悪いぞ」
「寝不足です」
「何時に寝た」
「……一時」
「遅い」
「仕事してたんです」
「持ち帰るな」
「誰の仕事ですか」
「俺の」
「でしょう?」
そう返すと。
遼河さんは何も言わなくなった。
しばらくして。
「減らす」
「何を」
「仕事」
「それは困ります」
「お前が倒れる方が困る」
そんな会話で。
私は誤魔化した。
自分でも。
まだ。
何も疑っていなかった。
――いや。
もしかすると。
心のどこかで。
ほんのわずかに。
気づき始めていたのかもしれない。
でも。
考えないようにしていた。
考えた瞬間。
何かが大きく変わってしまう気がしたから。
そして。
さらに数日後。
仕事中。
翌月の予定を確認するため、スケジュール帳を開いていた時だった。
会議。
出張。
来客。
予定を指で追って。
ふと。
止まった。
「……あれ?」
何か。
忘れている。
会議?
違う。
提出期限?
それも違う。
仕事ではない。
もっと。
個人的な。
身体に関わること。
私は机の下でスマートフォンを取った。
カレンダーを開く。
今月。
前月。
その前。
指先で日付を辿る。
そして。
あるところで。
指が止まった。
「……え?」
予定日。
とっくに。
過ぎている。
一日。
二日。
そんなものではない。
私はもう一度。
日付を数え直した。
間違っている気がした。
いや。
間違っていてほしかったのかもしれない。
「……嘘」
背中が。
すっと冷たくなる。
頭の中で。
これまで感じていた違和感が。
一つずつ。
繋がり始めた。
コーヒーの匂い。
魚。
眠気。
食欲。
身体の重さ。
そして。
遅れている。
あの日から。
もう。
十分に。
あり得る時期だった。
「……まさか」
口にした瞬間。
心臓が大きく鳴った。
ふとした時。
胸のどこかへ。
あの言葉が戻ってくる。
――俺は責任を取る。
遼河さんが。
将来を考えてくれていることは嬉しい。
結婚が嫌なわけでもない。
この人と生きていく未来を。
考えたことがないわけでもない。
むしろ。
考えれば。
幸せだと思う。
それでも。
私が欲しいのは。
“責任”の先にある未来ではなかった。
好きだから。
一緒にいたいから。
この人と生きたいから。
そうやって。
二人で選ぶ未来が欲しかった。
その小さな違いを。
私は。
まだ言葉にはしなかった。
*
一か月ほど経った頃。
最初の違和感は。
本当に些細なものだった。
朝。
いつものように淹れたコーヒー。
香りが広がった瞬間。
なぜか。
鼻についた。
「……今日、豆変えた?」
思わず聞くと。
佐知子さんが不思議そうに振り返った。
「いいえ。いつもと同じですよ」
「そう?」
カップへ顔を近づける。
普段なら好きな香り。
それなのに今日は。
やけに濃く感じる。
「濃く淹れた?」
「いつもと同じですけどねぇ」
「じゃあ、気のせいかな」
その日は。
それだけだった。
数日後。
会食で出された魚料理を一口食べた瞬間。
箸が止まった。
嫌いではない。
むしろ。
好きな料理だった。
焼きたての魚。
添えられた香草。
普段なら食欲をそそる香り。
なのに。
その日は。
匂いが鼻へ届いた瞬間。
胃の奥がむっとした。
「……」
水を一口飲む。
しばらくすると。
治まった。
疲れてるのかな。
そう思った。
仕事も忙しかった。
お父様のこともある。
帰国してから。
環境は大きく変わった。
何より。
遼河さんとの関係が変わった。
生活のリズムも。
少し変わっている。
身体が追いついていないだけ。
そう思った。
さらに一週間ほどすると。
朝。
起きるのが妙に辛くなった。
目覚ましを止めても。
身体が重い。
昼を過ぎる頃には。
どうしようもなく眠くなる。
夕方になると。
お腹は空く。
なのに。
いざ食べようとすると。
思ったほど入らない。
「綾乃」
車の中で。
遼河さんが横目で私を見た。
「最近、疲れてないか」
「大丈夫」
「顔色悪いぞ」
「寝不足です」
「何時に寝た」
「……一時」
「遅い」
「仕事してたんです」
「持ち帰るな」
「誰の仕事ですか」
「俺の」
「でしょう?」
そう返すと。
遼河さんは何も言わなくなった。
しばらくして。
「減らす」
「何を」
「仕事」
「それは困ります」
「お前が倒れる方が困る」
そんな会話で。
私は誤魔化した。
自分でも。
まだ。
何も疑っていなかった。
――いや。
もしかすると。
心のどこかで。
ほんのわずかに。
気づき始めていたのかもしれない。
でも。
考えないようにしていた。
考えた瞬間。
何かが大きく変わってしまう気がしたから。
そして。
さらに数日後。
仕事中。
翌月の予定を確認するため、スケジュール帳を開いていた時だった。
会議。
出張。
来客。
予定を指で追って。
ふと。
止まった。
「……あれ?」
何か。
忘れている。
会議?
違う。
提出期限?
それも違う。
仕事ではない。
もっと。
個人的な。
身体に関わること。
私は机の下でスマートフォンを取った。
カレンダーを開く。
今月。
前月。
その前。
指先で日付を辿る。
そして。
あるところで。
指が止まった。
「……え?」
予定日。
とっくに。
過ぎている。
一日。
二日。
そんなものではない。
私はもう一度。
日付を数え直した。
間違っている気がした。
いや。
間違っていてほしかったのかもしれない。
「……嘘」
背中が。
すっと冷たくなる。
頭の中で。
これまで感じていた違和感が。
一つずつ。
繋がり始めた。
コーヒーの匂い。
魚。
眠気。
食欲。
身体の重さ。
そして。
遅れている。
あの日から。
もう。
十分に。
あり得る時期だった。
「……まさか」
口にした瞬間。
心臓が大きく鳴った。

